第1388話 信用の評価

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



『ネロ……一つ訊きたいんだけど……』


 リュウイチの態度や声色に何か変化があったわけではないが、ネロは緊張を新たにする。


「何なりと、旦那様ドミヌス


 何か覚悟を決めているようなネロの様子をいぶかしみ、リュウイチはしばし無言でネロを観察してからおもむろに口を開いた。


『さっきのルキウスさんの返事だけど、ルキウスさんはそう思っているというのはそうなんだろうけど、エルネスティーネさんとこれから話し合わなきゃいけないのに、その前に私に全部話してしまって良かったの?』


 ネロの眉がわずかに持ち上がり、かすかな動揺を現す。


『普通、貴族ってそう言う部分はボカすもんだよね?』


 貴族は常に他者に陥れられ、名誉を失墜させ財や地位を失うリスクに常に備えなければならない。特にアルトリウシア子爵家は叙爵してまだ二十年と経たない新興の領主貴族パトリキであるにもかかわらず、かつてレーマ帝国と戦い破れたアヴァロンニアの有力貴族の末裔まつえいということもあって、レーマ帝国では会ったことも無い保守派貴族らから危険視されている。おそらく、レーマ帝国貴族の少なくとも三分の一以上は政敵であり、残りの貴族の半数も潜在的な敵として警戒しなければならない、かなり危険な立場に置かれている。何か大きなスキャンダルがあれば、それによって二心を疑われることでもあれば、アルトリウシア子爵という地位は簡単に失うことになるだろう。

 当然だがそんな貴族たちからすればネロが明かしたルキウスの反応のようなものは表沙汰にしてはならないことである。もしもルキウスが大丈夫ですよと先に言いながら、その後エルネスティーネとの調整の結果やっぱりダメということになれば、一度はした約束が反故になるのだからその影響に対して誰かが責任を負わねばならないことになる。そして、誰が責めを負うことになったとしても、最終的にはルキウス本人が信用を失墜させることになるだろう。

 信用は商人にとっての最大の武器であり、職人にとっての最大の財産であり、そして貴族の権勢と名誉を裏打ちするものでもある。信用の置けない人物に名誉など相応しくは無いし、つまらない裏切りは容易に信用を失墜させてしまう。権勢を信用によって裏打ちされた貴族は、信用を失えば権威も権勢も失墜させてしまう。致命的に権威を失った貴族は、次の代に替わるまで再興は難しくなる。次の代で再興できなければ、そのまま没落への途をひた走るしかなくなってしまう。

 そうであるからこそ、普通の貴族たちは他人に安易に言質げんちを取られることを嫌うものである。うっかりと重大な、それでいて後々でひっくり返るかもしれない事柄について明言すれば、それによって責任を追及されることになるかもしれないからだ。自分が直接相手に言う場合はともかく、今回のネロのように第三者を介在させる場面では可能な限りはぐらかし、後でいくらでも弁明できる余地を残そうとするものだ。それを考えればネロがルキウスの所感を報告するなどあり得ないことだと分かるだろう。実際、リュウイチでも気づいたのだ。

 しかしネロはリュウイチの疑問に予め答を用意していたようだ。特に答に迷う様子も見せず、むしろわずかに口元に薄い笑みさえ滲ませながら答える。


アルトリウス子爵公子閣下からお許しをいただいております」


『アルトリウスさんから?』


 リュウイチの眉がピクリと動いた。ルキウスの所感をリュウイチに報告することをアルトリウスがネロに許可するというのは少し筋が通らない気がする。


ルキウス子爵閣下から御返事をいただいた際、アルトリウス子爵公子閣下も同席しておられました」


『だからといってアルトリウスさんがルキウスさんの発言の暴露を許すってのもおかしいと思うけど……』


「そのっ……」


 返事に納得しかねてブツブツ言うリュウイチにネロは思い切って声を上げる。何だとリュウイチが半ば驚きつつネロを見ると、ネロは束の間の逡巡の後に言葉を選びながら話し始めた。


「実はその、アルトリウス子爵公子閣下から、叱責を受けました」


『……何で!?』


「じ、自分が、旦那様ドミヌスの信用を得てない、そのように言われました。

 だから、奥方様ドミナ女奴隷セルウァの話をする前に、旦那様ドミヌスは自分を遣いに出して追い出されたのだと……」


 ネロの声は悔恨と憤りとでわずかに震えていた。ただ、その感情が向けられた先はリュウイチではなく自分自身であるようだ。ネロの視線はリュウイチには向けられず、むしろ避けるように逸らされ、ただ頬や唇を時折震わせている。しかしリュウイチは突然の展開に唖然とするほかなかった。


「じ、自分は、確かに、差し出がましい真似が多かったかもしれません。

 奴隷セルウスという身分をわきまえず、まして奥方様ドミナへ献上される女奴隷セルウァに口を挟むなど、出過ぎた真似でした。

 旦那様ドミヌスの信を失うのも、当然だったかと思います」


『いや、それはその……』


 確かにグルギアの問題についてネロが強硬に反対していたのは無関係ではない。リュウイチがネロが絡んできて面倒にならないようにと、リュキスカとの話の途中でネロを遣いに出したのは予防的な意味合いが確かにあった。だがそれによってネロがこんなことになるとまでは思ってもみなかった。


アルトリウス子爵公子閣下旦那様ドミヌスの信を得ることを重くお考えです。

 子爵家も旦那様ドミヌスの信を得るためであれば、手の内を晒すことも厭うべきではないと申され、自分に旦那様ドミヌスに報告することをお許しになられたのです」


『いや待って、だからって君が話したことはルキウスさんの手の内であって、君自身のことではないよね?』


アルトリウス子爵公子閣下は子爵家も旦那様ドミヌスの信を取り戻したいとお考えです」


『!……それはつまり……』


 子爵家はリュウイチの信用を失った……あるいは信用を失ったとまでは言わないまでも、信用を損ねつつあると考えているということだ。少なくとも、アルトリウスは自分が安心なり満足なりし得る程度にはリュウイチの信用・信頼を得ていないと判断しているのだろう。リュウイチは深い溜息とともに、頭を抱え得るように俯きながら右手で髪を掻きあげた。


『何でそんなことに?』

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