ネロをとりまく暗雲

第1387話 返事を持って帰ってきたネロ

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 陣営本部プリンキピアに来たリュウイチとリュキスカはあてがわれた控室でくつろいでいた。建造当初より上級貴族パトリキのために作られた部屋だけあって内装は豪華そのものだ。廊下は壁の下部こそ腰板が張られているが、それより上は天井まで石材がむき出しになっていていかにも軍事施設といった武骨なおもむきだが、扉を開けて一歩部屋に入ればまるで別世界である。壁の腰板は廊下のものと違ってきめ細やかな装飾が成されていた。その上の壁も天井もフレスコ画で飾られており、城や宮殿というよりもまるでどこかの宗教施設の様だ。描かれているのはどうやら歴史画のようであるが、リュウイチには良く分からない。描かれている戦場で戦っているのがホブゴブリンたちなのだから、この世界ヴァーチャリアでの歴史上の合戦の様子を描いたものなのだろう。興味深くはあるが、残念ながら美術館と違って絵画に関する説明文のようなものはどこにもなかった。

 なお、これらの壁画はもうすぐ隠されることになっている。石造りの建物は冬はとても冷えるからだ。床暖房ハコポーストは要塞司令部にもあるし今も使われているから温かいのだが、冬が本格化すると暖房能力が不足して来るのだそうだ。まぁ、地下で燃やした火の熱で二階まで暖房するのは無理があるのだろう。せめて断熱性を高めて暖房効率を上げるため、壁には壁画の上から壁掛けタペストリーを張り、せめて壁から熱が逃げるのを防ごうというのである。


 そこまでしなきゃいけないほど冷えるのかな?

 でも、ルキウスさんとか、ホブゴブリン……でいいんだよな?

 ネロたちも寒いのは大の苦手だって言ってたから、それで余計なのかもしれないな。


 リュウイチがやけに淡い色調の天井画を見上げながらそんなことを思っていると、扉の方でコツコツと遠慮がちなノックの音が響いた。扉のところで立っていたロムルスがそそくさと扉を開け、ノックした張本人とニ、三言葉を交わすとリュウイチに向かって報告する。


旦那様ドミヌス、ネロが戻りました」


『ああ、入れてあげて』


 返事を聞いたロムルスが扉を開けるとネロが入って来る。ネロの表情はどこか暗く沈んでおり、神妙な顔つきだった。そのままリュウイチの傍までくることなく、部屋から入ってすぐのところで立ち止まり、リュウイチの方を向いて直立不動の姿勢をとる。


旦那様ドミヌスルキウス子爵閣下アルトリウス子爵公子閣下の返事をいただいてまいりました」


『はい、こっちに来て報告して下さい』


 リュウイチがそう命じるとネロはその場で何か躊躇ためらうような様子を見せ、それから何かを諦めたようにリュウイチの前まで進み出た。そして「御報告します」と言って小脇に挟んでいた紙を広げる。リュウイチはラテン語が分からないのでネロが読み上げ、念話で理解してもらうしかないのだ。


 返事の内容としてはリュキスカに魔道具マジック・アイテムを与えるのは慎重にしてほしいということと、ルキウスたちからの正式な返事は侯爵家との調整が済むまで待ってほしいとのことだった。返事を読み上げたネロは「以上です」と言って、目の前で広げていた紙を再び畳んで小脇に抱え、リュウイチをジッと見つめた。その目は何やら救いを求めているかのようだが、ネロが何でそんな様子なのかはネロ以外のこの部屋にいる誰にも分からない。


『ルクレティアにあげた時はルキウスさんが全て判断してたみたいだったけど、今回はエルネスティーネさんと相談しなきゃいけないの?』


 リュウイチはひとまずネロの様子は置いといてネロが読みあげた返事に対して思った疑問を口にした。ルキウスのことだから二つ返事で了承してくれるだろうとリュウイチは勝手に期待していたのに、アテが大きく外れてしまっている。

 ネロはどうやらリュウイチが抱くであろう疑問に応えられるよう、予め答えを用意していたようである。胸を張り、顔を引き締めてリュウイチの疑問に応え始めた。


「ハッ、ルクレティア様はスパルタカシウス家の御令嬢……立派な貴婦人パトリキアであらせられます。

 それに比べリュキスカ様は領民であらせられ、また、子爵閣下と侯爵夫人の両方と主従関係クリエンテラを結んでおられます。

 リュキスカ様は御二方の庇護を受けられる身であらせられますから、領主であり保護民パトロヌスでもあられる子爵閣下と侯爵夫人閣下の両方に了承を得るべきであると、子爵閣下はお考えのようです」


 ネロの返事を聞いたリュウイチは小さく「ああ」と声を上げ、チラリとリュキスカの方を見た。


 そういえばそんなこと言ってたっけ……


 リュウイチにはクリエンテラという慣習には馴染みがない。日本語では「主従関係」と訳されることの多い「クリエンテラ」だが、厳密に言うと日本人がイメージするような「主従関係」とは異なっている。リュウイチもリュキスカやネロ、そしてルクレティアなどからクリエンテラについて多少の説明は受けたが、知識としては知ることができたが理解できたかと言うと自信は持ちかねた。感覚的に理解することができないのだ。

 そして、理解が出来ないからこそ、それが理由だと言われると「そういうもんか」と納得せざるを得なくなる。リュウイチのどこか間の抜けた反応は、なんだかよく分からないけどとりあえず返事しとくかというような、極めて日本人的な反応だった。


 うーん、しかし不味いな。

 ちょっと早まったか?


 生返事を返したリュウイチの顔が急に曇り始める。すっかりルキウスから二つ返事で了承してもらえると思っていたリュウイチは、リュキスカに請われるままに魔導具の一部を先に譲ってしまっていたからだ。エルネスティーネとも話をしてから返事をするなどと、おおよそ今までのルキウスからは想像しがたい対応を返されたとなると、もしかしたら魔導具を渡すのを認めてもらえないかもしれない。リュウイチは今更ながら己の軽卒を悔いた。


「どうかされましたか?」


 ネロが怪訝そうに尋ねる。さきほどまでのどこか縋るような様子はいつの間にかネロの表情からは消えていた。リュウイチはチラッとリュキスカの方へ視線を走らせる。リュキスカは何も聞こえてなさそうな様子で部屋のはじっこの方で息子と遊んでいた。多分、距離的には聞こえている筈なのだが、聞こえないふりをしているのか、それとも息子との遊びに夢中で本当に聞こえていないのか……


『いや、実はルキウスさんはすぐに了承してくれるだろうと思っていたから、リュキスカに先に魔導具の一部を渡してしまったんだよ。

 「お試し」ってことで……』


 リュウイチは言いづらそうに言った。ネロのことだからきっと反発するだろうと覚悟していたのだが、意外にもネロの反応は冷静そのものだった。


「子爵閣下は旦那様ドミヌス奥方様ドミナ魔導具マジック・アイテムをお渡しになるのを御諫おいさめすることはできないとおっしゃっておられました。

 返事を待ってほしいというのは、侯爵家に話を通す時間がほしいということで、返事の内容自体はすでに決まっていることでしょう」


『認めるってことかい?』


「ルクレティア様が御受け取りになられたのにリュキスカ様が受け取りになるのを認めないわけにはいかない……そうおっしゃっておられました」


『そうか……』


 ネロの説明にリュウイチは胸を撫でおろした。同時にネロに対して急に疑念が沸き起こって来る。今、ネロが言ったのはおそらくオフレコにすべき情報だ。それなのにネロはリュウイチにほぼ丸ごとバラしてしまっている。しかも、発言者自身の身分を具体的に上げてルキウスがこう言ったと断言してしまったのだ。本来の貴族社会では、そんなことはあり得ないはずである。

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