第1380話 融資申し込みの承認
統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐
エルネスティーネは深い溜息をついた。ただでさえひっ迫している財政に致命傷を与えかねない問題が今頃になって明らかになったのである。
「わかりました。
報告をありがとうございますヘルマンニ卿」
何かを振り払うようにエルネスティーネは毅然とした態度を取り戻して言った。しかしヘルマンニはその場から動かず、ジッと女主君を見つめている。まだ話が終わったわけではないことを理解しているからだ。
「それで、アナタはどうなさるおつもり?」
「それを相談したいんじゃよ」
エルネスティーネは呆れたように首を振った。
「そうでしょうとも。
でも問題そのものをどうするかは、この場では何とも言えませんわ。
私が一人で処理するには、問題があまりにも大きすぎますからね。
アナタもそのことは分かっておいでのはずよ?
私が尋ねたいのは、問題をどうするかではなく、アナタがこれからどうするつもりだったのかですヘルマンニ卿」
詰め寄るような様子のエルネスティーネにヘルマンニは
「ワシの首で済むなら……」
「そうではなくてよ!?」
ヘルマンニの答えをエルネスティーネは遮る。
「私が訊きたいのは今日、この後アナタがどうなさるおつもりかです!
報告会が始まる前に私に報告をしに来られたということは、報告会でこのことを話し合われるおつもりなのではないですか!?
その時、どう報告なさって問題をどう処理するように持っていこうとなさっておいでなの?」
エルネスティーネの語気はどうやらヘルマンニの予想を上回っていたようだ。ヘルマンニはやや目を丸くし、小さく仰け反ってエルネスティーネを凝視している。そのことに気づいたエルネスティーネは貴婦人としてあるまじき態度だったと気づき、気まずそうに咳ばらいをした。
「そもそもヘルマンニ卿は近いうちに引退なさるご予定だったではありませんか!
そんなアナタが職を辞されたところで、私にも
エッケ島攻略までは頑張っていただくつもりでおりましたのよ?
逃げ出されては困ります」
「そうは言われてものぅ……」
本当はヘルマンニは真摯に相談するつもりでいたのだ。だがヘルマンニの報告に衝撃を受けたエルネスティーネの反応はヘルマンニの予想以上だった。もちろんヘルマンニだってアルビオンニア属州の、侯爵家の内情について知らないわけではない。エルネスティーネがどれだけ衝撃を受けるかは予想していた。正直に言えばエルネスティーネの反応はヘルマンニの予想を超えるものではなかったのだが、ただそれを実際に目の当たりにするとエルネスティーネの受けた衝撃がヘルマンニの予想を上回っているかのように思えてしまったのだ。予想を超える衝撃を受けていたのは、実際にはエルネスティーネではなくヘルマンニの方だったのである。
結果、内心で大きく動揺してしまったのはエルネスティーネ自身よりもヘルマンニの方だった。そしてエルネスティーネの受けた衝撃を大きさからヘルマンニは自分の責任を今更ながらに痛感し、今後について真摯に相談するよりは自分で何とか解決してエルネスティーネの負担にならないようにしようという気になってしまったのである。結果、エルネスティーネの「どうするつもり?」という質問に対して
エルネスティーネはまるで万策尽きたとでも言いたげな態度のヘルマンニに、自らの予想をストレートにぶつける。
「リュウイチ様に融資をお願いするおつもりではありませんか?」
頭を掻くヘルマンニの手がピタリと止まる。エルネスティーネは盛大に溜息をついた。
「それぐらい予想は付きますよ!
予定を強引に詰めて報告会の前に私に相談しにこられたんですもの。当然ヘルマンニ卿はこの後の報告会でお金の不足をどうするか、解決方法につながる話をなさるおつもりに違いありませんわ。
今、百八十万セステルティウスものお金を三か月以内に調達できる貴族は属州にはいません。ええ、キュッテル商会だって難しいでしょうね。
そんな大金、ポンと出せそうなのは報告会に出席される中で御一人だけ……」
エルネスティーネが予想をヘルマンニに付きつけると、ヘルマンニは観念したように頭にやっていた手を膝の上にポンと戻した。
「御見それしやした
まったくその通りで!!」
ヘルマンニが思い切ったように白状すると、エルネスティーネは呆れたように溜息を繰返す。
「
ワシが自分の器量で借金を頼んでみます。
どうか認めてやって下せえぇ!」
ヘルマンニは古くから族長としてレーマ貴族と付き合って来たことからレーマ貴族にふさわしいラテン語を身に着けていた。が、ふと気が抜けた瞬間や今回のように感情を昂らせると、素の訛りが出てしまう。
「リュウイチ様が担保や人質をお求めになられたらどうなさるの!?」
「ワシの器量で用意できるもんならいくらでも!」
「そんなこと言って!」
「百八十万セステルティウスはワシでも返せねぇ額じゃありゃせん!
ただ、昨今の景気じゃ銀貨を都合つけるのが難しいってだけじゃ」
「それはリュウイチ様も同じです!
リュウイチ様が御持ちなのは《レアル》の金貨!
それは大変な価値のあるものですが今は使えません。
銀貨や銅貨に両替するには、手間も時間もかかるのですよ!?」
そう、リュウイチは膨大な金を持っているが、それは使うことのできない金貨だった。市場で使えるようにするには銀貨や銅貨などに両替する必要があり、数千セステルティウスもの大金を両替しようと思ったら数か月単位の時間が必要になる。つまり、仮にリュウイチから借りれたとしてもヘルマンニが実際に動かせる資金を手に入れるまでには数か月のタイムラグがあり、結局必要な時に間に合わなくなる可能性の方が高いのだ。それならリュウイチから借りずに自分たちでどうにか都合つける方がマシだ。ヘルマンニが言ったようにヘルマンニ自身の財力でも百八十万セステルティウスは払えない額ではなく、ただ三か月以内に用意するのが難しいというだけなのだ。
「それでも、リュウイチ様からの融資という後ろ盾がありゃ、信用取引がしやすくなりやす。
見せ金でもあるのとないのじゃ、随分違う」
公共事業のような大規模財政出動に現金は必ずしも必要ない。そもそも銀貨であれ銅貨であれ貨幣一枚で三スクリブルム(約三・四グラム)ほどの重量がある。それが百万枚もあれば総重量は百六タレントゥム(約三・四トン)もの重さになってしまうのだ。それも貨幣だけの重量であって、運搬や保管のための容器の重量は含まれていない。それだけの大量の貨幣を一度に運ぼうとすれば、二頭立ての荷馬車で三~四台は必要になるだろう。
たった一度の取引でそんな大量の貨幣をイチイチやりとりしてはいられない。手間が無駄だし盗まれるリスクも高くなる。当然、信用取引で書類上だけでお金をやり取りし、決算の時に過不足分だけを貨幣で処理することになる。
ところが、
ヘルマンニもそうした貴族の信用低下の影響を受けている
このうえ海軍の資金が散逸したとなれば、信用の失墜は免れなくなるだろう。このまま信用取引に応じてもらえ無くなれば、取引のたびにイチイチ現金を用意しなければならなくなる。そうなっては、これまでのような自由な活動は行えなくなってしまうだろう。資金がショートすれば、いかなヘルマンニと言えども一巻の終わりだ。破産は免れない。
そのような状況に陥るのを避けるためにも、まだ信用が残っているうちに融資を受けて見せ金を用意し、商人たちの信用を保たねばならない。そのためには自分と同じように信用が低下しつつあるアルビオンニア貴族から借りるのではなく、リュウイチから借りる必要があるのだ。もちろんリュウイチの存在は秘されねばならないから、リュウイチから受けた融資を見せ金として使うのは商人たちではなく、他の貴族たちに対してになるだろう。
エルネスティーネは元々商家の娘だけあってヘルマンニの言わんとしていることは理解している。男尊女卑社会のレーマ帝国で女ながらに属州領主が務まっているのは、経済感覚という強みがあるからというのも理由の一つだった。
「わかりました」
エルネスティーネの答えにヘルマンニの表情がわずかに明るくなったが、エルネスティーネは釘を刺すのを忘れない。
「ですが、報告会の場でいきなり申し出るのはおよしなさい。
属州財務官や子爵家の財務官らとも相談する必要があります。
いくらお借りするのか、いつ、どう使うのか……じゃないと、今のインフレに拍車をかけることになってしまいますからね」
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