第1378話 一時避難

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 君、ロミーといったか? 差し出口かもしれないが、気分転換のためにも、エルゼ嬢フラウ・エルゼを一度外へお連れしてはいかがかな?


 なだめても泣き止まないエルゼに手を焼く乳母キンダーメディヒェンロミーにそう言ったのは、属州宰相とでもいうべき地位にある侯爵家筆頭家令ルーベルト・アンブロスだった。彼の意見は彼自身が言っているように差し出口そのものだっただろうが、同時に耳を貸すに足る意見でもあった。


 エルゼは先週の毒ロウソク事件を思い出して泣いている……それはエルゼの訴えを聞いた大人たち全員が気づいた事実だった。

 このさほど広いとは言えない部屋の中で行われた日曜礼拝。それが半ばを過ぎたあたりから参列者たちは頭痛を覚え始めていた。それは時間と共に次第に酷くなっていき、人によっては視界が黒くむしばまれていくような暗さを感じるようになり、侍女の一人が狂ったように笑い始めたのをきっかけに全員がおかしくなっていった。人によっては幻覚や幻聴もあったようで、中には嘔吐する者もいた。まさに悪夢のような出来事と言って良かっただろう。

 それは何者かによって毒を仕込まれたロウソクの煙を吸ったせいだったことが今では分かっている。カビの一種である麦角ばっかく菌に冒された麦から作られる薬「麦角」エルゴットは摂取した者の血管を収縮させる効果があり、本来は止血のために使われるのだが、脳の血流を阻害して幻覚や幻聴を引き起こす副作用を持っていた。それが芯が空洞になっている南蛮ロウソクの中に仕込まれ、煙となって部屋に充満した毒素を吸った者が被害にあってしまったのだ。

 だがまだ三歳の幼児でしかないエルゼにそのようなことは分からないし、一週間という期間は悪夢のような出来事を忘れるには短すぎる。事件のあった同じ部屋で、事件があった時と同じような面々が集まり、事件があった時と同じように祭壇が組み立てられ始めて、事件があった時と同じ状況が再現されていく様子を目の当たりにしたのだ、嫌でも事件を思い出してしまい不安になって泣き出したのだろう。


 こういう場合、エルゼを速やかにこの場から移動させるのが最善だ。この場所が悪夢を思い出させるのだから、この場から移動させてしまえばいい。だがロミーは判断を迷っていた。理由は家臣たちの目だった。

 本来、隠されるべき子供たちが参加する侯爵家の日曜礼拝に家臣たちを参列させるのは極めて政治的な意味があってのことだ。そもそも日曜礼拝に三歳児を参加させることなんて普通はしない。大人しく座って人の話を聞いていられるくらいになって初めて参加させるのが普通だ。なのに教会から司祭を呼んで、まだ人目から隠すべき幼児を参加させてまで日曜礼拝を行い、それに家臣を参列させることで侯爵家の子供たちが礼拝している様子を見せるのは、純粋な信仰心によるものでは断じてないのである。

 そんな明確な目的があってエルネスティーネがさせている日曜礼拝の場から、エルネスティーネ本人のいないところでエルネスティーネの許可なくエルゼを連れだして良いものだろうか?

 家臣たちのいないところであればロミーも独断で連れ出せたであろうが、エルネスティーネの都合を考えると勝手な判断は躊躇ためらわれる。それを察して声をかけてくれたのがルーベルトだったわけだ。ロミーにとってはルーベルトの差し出口は渡りに船だったと言える。


「分かりましたお嬢様フロイライン、ちょっとお外へ行きましょうね」


 ロミーはそう言うとエルゼを抱え上げ、室内の家臣たちに小さく会釈しながら室外へと出た。エルゼはロミーに抱かれながらもまだスンッスンッとしばらくぐずり続けていたが、静かに降り続く雨に洗われた庭園ペリスティリウムと、そこに満ちた清浄な空気に触れることで次第に落ち着きを取り戻していく。


「バウムクーヘン食べたい……」


 回廊ペリスタイルでロミーに抱き着いたまま雨に濡れる庭園を見ていたエルゼは、ようやく泣き終わったと思ったらそんなことをつぶやいた。先週、この場所でリュウイチたちとバウムクーヘンを焼いて食べたのを思い出したのだろう。だがそれは口にしてはいけない約束だ。すかさずロミーがたしなめる。


「いけませんお嬢様フロイライン

 それは内緒の話です」


 エルゼの両肩を手で持ってロミーが優しく言うと、エルゼはムズがるように顔を顰めた。そして俯き、イヤイヤをするように大きく身体全体を揺する。


お嬢様フロイライン


 聞き分けの無い幼女の我儘わがままにロミーが語気を強めて言うと、エルゼはうつむいたまま再びスンッ、スンッ、としゃっくりでもするように肩を揺らしながら鼻を鳴らし始めた。しかしどうしようもない。

 これから間もなくマティアス司祭が到着し、カールの寝室で日曜礼拝を執り行うのだ。万が一にも、リュウイチに繋がる情報が外部に漏れてはならない。それが侯爵家の娘のせいだったなどとなれば、この場に直接いないとはいえエルネスティーネの責任まで問われかねないのだ。


「おぅっ! こんなところでどうしなすったんで!?」


 聞き覚えのある声にロミーが振り返ると、そこにいたのは見覚えのあるホブゴブリンだった。


 ……たしか、リュウイチ様の……


ゴルディアヌス様ヘル・ゴルディアヌス?」


 そこに立っていたのはリュウイチの奴隷セルウスの一人、ゴルディアヌスだった。先週のバウムクーヘンパーティーの時にリュウイチを手伝った一人で、大柄で態度は横柄だがエルゼの面倒見が良かったのでロミーの印象に残っていたのだ。エルゼも甘い飲み物を持ってきてくれたゴルディアヌスのことを憶えていたのだろう、ロミーの肩越しにゴルディアヌスを見つけるとパァっと表情を明るくし、「あ、ゴーディーッ!」と喜びの声を上げる。

 ロミーはエルゼの泣き声が貴族たちの耳に届かないようにと意識してカールの寝室から少し離れたのだが、どうやら離れすぎてしまったのかもしれない。そこは庭園を囲む回廊の中でも、リュウイチの奴隷たちが雑用のために良く通る部分だったのだ。


「おぅ、エルゼ様!?」


 ロミーからパッと離れて駆け寄るエルゼを、ゴルディアヌスは腰を落とししゃがみ込んで迎える。喧嘩っ早くて敵には決して膝を屈さぬようなこの無頼漢が、幼子には相好を崩して喜んで膝を屈するのだから見る者が見れば驚きを禁じ得ないだろう。ロミーからすればゴルディアヌスのこういう面しか見てないからむしろこれが普通ではあったが……


「いけんませんお嬢様フロイライン

 淑女が殿方にそのような!!」


 今更のように慌てて止めようとするロミーの手をすり抜けたエルゼは「ゴーディーっ!」と叫びながらゴルディアヌスの胸に飛び込む。父マクシミリアンが生きていれば嫉妬したであろう懐きようだ。ゴルディアヌスは機嫌よさそうに笑いながらエルゼを抱きとめると、ロミーに尋ねる。


「かまやしねぇぜ、ロミーさんだったか?

 こんなところで何してたんで?

 もう寝室クビクルムで待ってなきゃいけねぇんじゃねぇんですかい?」


「それがゴルディアヌス様ヘル・ゴルディアヌス

 エルゼ様フラウ・エルゼは部屋にいると、を思い出してしまうようでして……」


「先週の? ……ああ!」


 ロミーが心苦しそうに言うとゴルディアヌスはわずかに顔を曇らせた。毒ロウソク事件……あの時、ゴルディアヌスも現場に居合わせた。いや、事件直後にロムルスに呼ばれ、侯爵家の人々を毒煙の充満した部屋から助け出したのだ。幸い死者こそ出なかったが、多くの人々が苦しみ嘔吐を繰返す惨状はあまり思い出したいものではない。


 可哀そうに……ありゃあ、確かにこんな小せぇ子にゃ怖くてたまんねぇだろうぜ……


 同情したゴルディアヌスが抱き着いているエルゼを見下ろすのと、エルゼが顔を上げてゴルディアヌスの見上げるのは同時だった。


「ゴーディー! エルゼ、バウムクーヘン食べたい!!」


 ……先週の事って、そっちかよ!?

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