第1377話 泣き出したエルゼ

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 ディートリンデとカールの喧嘩はそれぞれの乳母キンダーメディヒェン家庭教師グヴェルナンテが即座に介入したことによって大事になる前に納まりつつあった。しかし、二人の喧嘩の影で、もう一つの騒動が同時進行で持ち上がろうとしていた。その主役は二人の妹、エルゼである。何故か唐突に表情を曇らせ、背後に立っていた乳母のロミーのスカートに顔をうずめるようにして静かに泣き始めたのである。

 当初、カールとディートリンデと唐突に始まった喧嘩に呆気に取られていたロミーだったが、エルゼが急に脚に抱き着いてきたことで注意を引き戻される。ロミーはエルゼが自分の脚に抱き着いてスカートに顔をうずめてシクシクとなき始めていたことに驚き、慌ててエルゼを抱き上げるように自分の脚から引きはがしながら腰を落とした。


お嬢様フロイライン、どうなさったのですか?

 どこか痛くなりましたか?」


 尋ねるロミーにエルゼはフルフルと首を振る。そして一度振り返って組み立て中の祭壇を見、涙をたたえた瞳をロミーへ向ける。


「うっぅ~~ロミぃぃ」


 ポロポロと大粒の涙をこぼしながらエルゼはロミーに抱き着いた。ロミーは周囲を見回すが、エルゼが泣きだすような原因となるものは見つからない。ベッドの上ではカールがミヒャエルから、反対側の部屋の隅ではディートリンデが乳母からそれぞれ懇々と説教を受けており、壁際に立っている家臣たちは所在無げに侯爵家の子供たちの様子を見て見ぬふりをしていた。


 彼ら家臣団も一応下級貴族ノビレスであって使用人などではないし、家族の一員などでもない。本来なら貴族の子供は余所様の目の届かないところに隠されるものだ。礼儀作法はおろか最低限のしつけさえ行き届いていない子供を他人の目に晒したところで一家の恥にしかならない。それどころか何か間違いがあれば他の貴族とのトラブルさえ起きかねないからだ。ゆえにごく一部の例外を除き、貴族の子供たちは人前に出しても大丈夫な程度に礼儀作法や言葉遣いなどを身に着けるまで人前には出されず、ある程度の年齢になって最低限の教育が出来てから初めて人前に“お披露目”される。当然だがエルゼはもちろんカールもディートリンデも正式には“お披露目”前であり、人前に出せるような状態にはなっていない。

 にもかかわらず家臣たちをカールの寝室に入れ、子供たちを晒してしまっているのは、それだけ家臣たちがエルネスティーネと親密な関係を築いているから……というわけではなかった。むしろ逆であり、子供たちをあえて晒すことで、それだけお前のことを信用していると印象づけて侯爵家の陣営に引き込もうとするが故だった。エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人は商家出身であり、ランツクネヒト族を束ねる侯爵家の当主にはふさわしくないと考える貴族は、アルビオンニア属州の中だけを見ても決して少なくなかったのだ。

 ただ、エルネスティーネや実家のキュッテル商会に対しては「侯爵家を乗っ取ろうとしている」と否定的に見ている貴族たちも、前領主マクシミリアンの遺した子供たちのことは崇敬の対象としている。である以上、ランツクネヒト貴族たちの侯爵家への支持を取り付けるには、子供たちの存在を利用するほかない。エルネスティーネ自身がどれだけ頑張って活躍して実績を積み上げたところで、ランツクネヒト貴族たちの目にはエルネスティーネとキュッテル商会による侯爵家の乗っ取り工作にしか映らないからだ。このため、エルネスティーネは属州運営に携わる重臣たちには、“お披露目前”ではあっても子供たちと直接接する機会を認めざるを得ない。

 特にカールの場合、アルビノという体質ゆえに悪魔憑きの噂が立ち、一時はアルビオンニア属州を二分してしまうほどの騒動になってしまったのだから、悪魔憑きの噂を払拭する意味でも侯爵家以外の家の貴族たちの目を入れるのは必須だった。


 もちろん、だからといって子供たちをすることはできない。今日は仕事のためにマニウス要塞カストルム・マニに来た重臣たちが、日曜礼拝をするために侯爵家の礼拝に便乗させてもらうというというかたちになっている。

 だから家臣たちは侯爵家の子供たちの様子は見ながらも、子供たちに話しかけたりはしないし、子供たちが何か粗相をしたとしても見て見ぬふりをせねばならない。次代の侯爵家を担う子供たちを見せてもらえる信用・信頼に応えるためには、そこで見聞きしたことは安易に外へ漏らしてはならない。もしも漏らせば「侯爵夫人が特に信用して特別に見せていたのに、その信用を裏切った」という評判が立つことになるだろう。ここにいる貴族たちは特別信用のおける忠臣だからここにいるのではなく、ここに入ることを許されたことによって特別な信用で結ばれた忠臣にされてしまった者たちなのだった。


 しかし、そんな忠臣たちであっても、子供たちのあまりよろしくない場面を見せて良いわけではない。カールやディートリンデについてはひとまずそれぞれの教育係による適切な教育を受けていることをいるわけだが、エルゼの場合はどうすべきか……子供が泣くことがあるのは当然だし、それにどう対処するのが正解なのかは状況や泣く理由によりけりだろう。ロミーは貴族たちの眼前で、エルゼの教育が正しく行われていることを見せねばならないのだ。


お嬢様フロイラインお嬢様フロイラインにはロミーがついておりますよ。

 いったい、何故に泣きになられるのですか?」


 エルゼはロミーにしがみついたまま肩を震わせる。何か言っているが、ロミーの肩に顔をうずめながらしゃべっているので声がくぐもってしまい、何を言っているのかさっぱりわからない。


「さあお嬢様フロイライン、ロミーに教えてください。

 きっとお嬢様フロイラインを安心させて差し上げますとも」


 ロミーはエルゼの身体を一旦引き離し、正面からエルゼの泣き顔に微笑みかけた。エルゼはまだ身体ごとヒックヒックと震わせていたが、口を半ば尖らせて訴えかける。


「怖いの」


「怖い?

 何がですか?」


「怖いのが来るの。

 ロミー、ここに居ちゃいけないわ。

 お外出たい」


 ロミーは一瞬眉をひそめ、それから入り口に控えている衛兵や壁際の家臣たちを見た。彼らももちろん何のことだかわからず困惑の表情を浮かべる。


「大丈夫ですよお嬢様フロイライン

 ロミーがしっかりとついております。

 強い衛兵も守ってくれます」


 エルゼを励ますべくロミーが再び微笑みかけるが、エルゼは涙を湛えた瞳でロミーをまっすぐ見つめたままフルフルと首を振った。


「ダメなの。

 ロミーも衛兵も、みんなおかしくなっちゃうの。

 だからお外出るの。

 お願いロミー、ここはいやぁ」


 最後の方は言葉に泣き声が混ざってしまいよく聞き取れなかったが、エルゼは再び大粒の涙をボロボロと溢し始めた。

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