第1376話 姉弟喧嘩

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 エルネスティーネが出て行くと、残された子供たちはそれぞれが溜息をついた。長女のディートリンデは何かにつけ小言を言ってくる母が居なくなって緊張が解けたからだったし、ディートリンデの弟で長男のカールは眠いのに話しかけてくる母が居なくなってくれてようやく眠れそうだったからだ。そして二人の妹のエルゼは場合は単に姉ディートリンデの溜息を真似たのだった。


「カール、アナタ良かったの?

 母上ムターはアナタと御話しするの、とっても楽しみにしてたのよ?」


 エルネスティーネが居なくなったことで微睡まどろみに身をゆだねようとしていたカールは、ディートリンデの責めるような声に眉を歪める。


「ん~~いいんだよ。

 僕は眠いんだ。

 朝からいっぱい運動して、疲れてるんだよ」


 うるさそう言いながらカールは身体にかけられた毛布を引き寄せ、くるまろうとする。

 カールの言っていることは事実だった。毎朝の運動はカールの新たな日課である。壁に手を突かずに回廊ペリスタイルを一周できるようになってからは、少しずつ周回できる回数も増えて来ているのだ。今朝なんかリュウイチに光属性ダメージ無効化の魔法をかけてもらわなくても、頭から毛布を被って部屋から部屋へ自力で移動だってして見せたのだ。重たい毛布を被って歩くのは想像以上に大変だったが、しかしこれが出来るようになればそのうち魔法無しでも自由に外を出歩くことができるようになる。それはカールにとってはちょっとした冒険であり、同時にとても意義深い試みでもあったのだ。

 だがカールのその試みは普通の人にとっては冒険でも何でもない、ごく普通のことである。寒さと雨や雪から身を護るため、この時期はまるで毛布のように重たい外套をまとって出歩くのは誰でもすることだ。ましてレーマ貴族の大人ならば毛布の数倍重たい正衣トガを身に纏わねばならないのだから、毛布を被って歩くのが冒険だなんて思えるわけもない。ディートリンデもカールの冒険を理解できない一人だった。


 何が運動して疲れてるよ!?

 ただ歩いただけだじゃない!


 ディートリンデももちろんカールが先月まで歩くどころか自力で起き上がることすら出来なかったことぐらいは知っている。ディートリンデ自身もカールの介助を手伝うことはしょっちゅうあったのだ。だがディートリンデの認識では、それはカールが病気だったせいであり、その病気は既にリュウイチの魔法で治っている。なら、ちょっと歩いたからと言って疲れたというのは大袈裟おおげさではないか……ディートリンデだって病気になったことはあるし、病気で体力が落ちるのはわかる。だが病気が治れば体力なんて一週間もあれば直るはずだ。

 もちろん、ディートリンデのその認識は間違っている。ディートリンデが知っているように病気で一時的に体力が低下したのなら、戻るのも短時間で済むだろう。だがカールの場合は病気のせいで体力が低下したのではなく、元々なかったのだ。病気のせいで体力が育たなかったのだ。なので、病気が治ったからといって体力が戻るわけはなく、体力を一から作らねばならないのだ。しかしディートリンデにはそんなことは分からない。特にカールがマニウス要塞カストルム・マニに来て週末にしか会えなくなったこともあって、カールが体力を少しずつつけて来ている様子を見ていないことも理由の一つだろう。当然、カールの言っていることはただの我儘わがままにしか思えないのだった。


 いくら父上ファーター母上ムターが優しくしてくれるからって、甘え過ぎよ!!

 私がしっかり叱ってやらなきゃいけないんだわ!!


 ディートリンデは意を決した。


「そんなこと言って!

 母上ムターはカールのこと一番愛しているのに、母上ムターのこと邪険にするのは良くないわ!」


 椅子から身を乗り出して怒り出すディートリンデの声は、カールにとってはただうるさいだけだった。カールは無言のままゴロッと寝返りを打ち、ディートリンデに背を見せる。それはカールがディートリンデに見せる初めての拒絶の意思表明だった。以前のカールは自力で寝がえりを打つのも難しく、ディートリンデに背を見せるなんてしたくても出来なかったのだから、むしろそれだけ身体が強くなったのだということでもあったのだが、ディートリンデにはただただ生意気にしか思えない。


「カール!

 アナタそんな態度とっていいと思ってるの!?」


 ディートリンデは立ち上がり、声を張り上げた。その声に室内にいた家臣や使用人たちが驚いて一斉にディートリンデに注目する。急に静まった寝室の真ん中で、カールは小さく「うるさいなぁ」とつぶやきながら毛布を頭からかぶってしまった。


「カール!!」


 憤慨したディートリンデが頭から突き抜けるような声を上げると、彼女の乳母キンダーメディヒェンが慌てて駆け寄った。


お嬢様フロイライン! いけません!!」


若殿ユンカー・ヘル!!」


 同時に室内に入ったばかりのミヒャエルも慌ててカールの傍へ駆け寄る。


「放して!

 私はカールのこと許せないわ!」


「いけませんお嬢様フロイライン

 理由がどうあれ淑女が殿方にそのような!!」


 乳母がディートリンデをいさめている反対側ではミヒャエルがカールをさとし始めていた。


老師アルター、僕は悪くないぞ。

 僕が眠いのに、ディートリンデリンデがうるさくしたんだ」


 拗ねるカールにミヒャエルは努めて冷静に語りかける。たとえ身分の差がなくとも、カールのように人生経験が少ないくせに妙に賢い子を、頭ごなしに𠮟りつけるのは逆効果になることをミヒャエルは知っていた。


御婦人ダーメンというのは元よりそうしたものです、若殿ユンカー・ヘル

 ですが鳥が空を飛びさえずるのを、魚が海を泳ぎ跳ねるのを、馬がいななき野を走るのを、いったい誰が罰しようとするでしょう?」


 てっきり自分を慰めてくれると思っていたミヒャエルがどうやら味方ではないかもしれないと気づいたカールは、動揺し毛布の下でわずかに身動みじろぎながらなんとか言いつくろおうとする。


「僕は姉さんリンデを罰したりしないぞ!?

 ただうるさいから背を向け頭から毛布を被っただけだ!」


 ミヒャエルは小さく溜息をついてから続けた。


「それが罰しているというのです。

 愛する者に拒絶されるのが、罰でなくて何だというのですか?」


 カールは毛布の下でピクリと身体を動かすと、そのまま固まってしまった。


「愛には愛で報いるのが騎士リッターというものです。

 若殿ユンカー・ヘルも立派な騎士リッターを目指すなら、御婦人ダーメンに対してそのような態度をとってはなりません」


 落ち着いた様子を保ちながらミヒャエルが言うと、カールは毛布から頭を出した。


老師アルターはうるさくされても平気なのか?」


 ジトッとした目で見つめてくるカールの質問にミヒャエルは一瞬言葉に詰まり、それからニコッと微笑んで答えた。


「平気ではありませんが、ですが自分を思ってくれているのであれば、無下には出来ません。

 それは、残酷というものです。

 若殿ユンカー・ヘルも立派な騎士リッターになるのであれば、御婦人ダーメンには常に優しくせねばなりません」

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