第1375話 理不尽の醸成

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ・カールの寝室/アルトリウシア



「ヘルマンニ卿が!?」


 突然の来客にエルネスティーネは最早貴重となっていた愛息カールとの時間を中断させられることとなった。


「はい、奥様ダム

 是非、報告会の前に奥様に御報告申し上げておきたいことがあると……」


 ヘルマンニの来訪を告げた衛兵隊長のゲオルグは申し訳なさそうに頭を下げる。朝食を終えてからマティアス司祭が到着するまでの時間、それはエルネスティーネがカールと過ごせる数少ない機会である。カールの方は最近そうでもなくなってきているが、エルネスティーネはただでさえ週末にしか会えなくなったカールと過ごすこの時間をとても大切に考えていたのだ。家臣たちもそれが分かっているから、カールのベッドの横に腰かけるエルネスティーネからはずっと距離を置き、なるべく話しかけないようにしている。その神聖な時間が侵されようとしている……エルネスティーネは表情を曇らせた。


「何かしら、ヘルマンニ卿がわざわざ自分で来るなんて……」


 ヘルマンニの立場は少しばかり複雑だ。彼はアルビオンニア艦隊提督プラエフェクトゥス・クラッシス・アルビオンニイとしては侯爵家に仕え、セーヘイムの郷士ドゥーチェ・セーヘイミイとしては子爵家に仕えている。その彼がエルネスティーネに報告したいというのであれば、艦隊司令プラエフェクトッゥス・クラッシスとしての立場で来たのだろう。

 ただ、このタイミングで何故ヘルマンニ自身が来るのかと言うとちょっと分からない。エッケ島で何かがあったとか緊急事態というのであれば、ヘルマンニが来る前に伝令が急報を告げたはずだ。それが無いということはハン支援軍アウクシリア・ハンが新たな動きを見せたとか、そういう類の緊急事態ではないのだろう。


「いかがなさいますか奥様ダム?」


 ゲオルグの問いにエルネスティーネは頭を振って迷いを断ち切った。

 ヘルマンニは元々、現在アルトリウシアと呼ばれている地域がレーマ帝国に併合される以前からこの辺り一帯に定住していたブッカたちの族長である。下級貴族ノビレスとして扱われている彼だが、本来ならば領主貴族パトリキとして扱われて当然な人物だ。そしてアルビオンニア属州の海軍を纏める最高司令官でもある。いかな属州女領主ドミナ・プロウィンキアエと言えども粗略に扱うわけにはいかない。


「もちろん会わないわけには参りません。

 部屋を用意していただけるかしら?」


 ヘルマンニが緊急の用件というのだから誰にでも聞かせていいような話題ではないはずだ。エルネスティーネは別室に移動することにした。「ただちに」と短く答えたゲオルグは一旦退室する。

 室外へ立ち去っていくゲオルグを見送るとエルネスティーネはベッドに横たわるカールを振り返った。カールは母エルネスティーネの方ではなく、使用人たちが組み立て式の祭壇を運び込む様子をトロンとした眠そうな目でボンヤリ眺めている。


「カール、ごめんなさい……」


「大丈夫だよ」


 カールは表情を変えず、エルネスティーネが言い終わる前に先回りして返事を返してきた。


「ヘルマンニ卿はきっと大事な話だよ。

 急いで行った方が良いよ」


 それは今までのカールからは想像できないそっけない態度だった。

 これまでのカールはエルネスティーネに限らず家族にべったりだった。介助無しではベッドから起き上がることも出来ず、ベッドの上で過ごすしかなかったカールは誰かと一緒に居たいと思っても向こうから来てもらわなければならない。そしてその対象は母エルネスティーネか姉ディートリンデ、妹エルゼしかいない。ミヒャエル・ヒルデブラントの前の家庭教師は授業以外ではカールの相手をしたがらなかったし、乳母は流行り病で既に他界している。その他の専属侍女たちはエルネスティーネからカールと距離を置くように厳命されていたため、カールが甘えたくても相手をしてくれない。貴族は使用人が自分の子供と過度に仲良くなることを嫌う傾向があり、エルネスティーネもその一人だったからだ。

 ともあれ、常に孤独に置かれていたカールは家族が誰か来てくれれば際限なく甘えようとしたし、自分が疲れて眠ってしまう前に家族が去ろうとすると引き留めたがるのが普通だったのだ。ところが今回、それがない。むしろエルネスティーネに早くどこかへ行ってほしそうな気配さえする。エルネスティーネは息子カールの突然の変化に困惑を隠せなかった。


「そ、そうね。

 じゃあ、行ってくるわ」


 エルネスティーネは戸惑いながらも椅子から立ち上がると、カールにキスをしてその場を後にする。部屋の出口で振り返ってみたが、やはりカールの表情に変化はなかった。


 眠いのかしら……


 溜息をつくエルネスティーネが抱いた想いは未練だった。認めたくないのだ、愛息カールに反抗期が来ていることを……そう、カールは急速に反抗期を迎えていた。

 今までベッドの上から動くことが出来ず、外の世界を窓から見ることすら敵わなかったカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子だったが、今は病を魔法で治してもらいベッドから自力で出ることができるようになっていた。しかも光属性ダメージ無効化の魔法をかけてもらうことで日中でも室外へ出ることができるようになり、おまけにミヒャエルという家庭教師もできた。カールの世界はこの半月あまりの間に急速に拡大していたのだ。反抗期が来ない方がおかしい。

 エルネスティーネも実は心の奥底深いところではそのことに気づいていたが、しかし愛息を溺愛する母としてはそれを認めたくない。というより変化があまりにも早すぎて心がついて行かないというのが正解だろうか。受け入れたくない息子の変化にエルネスティーネの心は現実を拒否し、別の理由を探しはじめる。その一つがカールの体調であり、また別の一つがカールを取り巻く周囲の人間……最近登場した新任の家庭教師グヴェルナンテミヒャエル・ヒルデブラントの影響だった。カールの寝室から出たエルネスティーネがたまたま入れ違うように回廊を歩いていたミヒャエルを、どこか胡散臭うさんくさそうににらんでしまったのはそうした理由からだった。


 そういえばミヒャエルこの子、アロイスが連れて来たのよね……

 カールと騎士ごっこみたいなことしてるみたいだし、本当に大丈夫かしら?


 思えばカールが騎士物語や英雄譚に耽溺たんできするようになっていったのは、エルネスティーネの弟でカールの叔父にあたるアロイス・キュッテルが、ベッドの上で過ごすしかないカールにせめてもの慰みにとアロイス自身が子供の頃にハマった本の数々を譲ったのがきっかけだった。子供の頃、アロイスの騎士ごっこ遊びにはエルネスティーネも眉をひそめることが幾度となくあったし、カールに同じようになってほしくないとは思ったが、それでもカールが読み書きを覚えるのに役立つかもしれないと容認したのだが、今となってみれば間違いだったのかもしれない。今やカールは会う人会う人すべてに騎士物語や英雄譚の趣味を期待することが目立つようだ。趣味を基準に人を選好みするようになったら、領主としてはやっていけないだろう。今のカールの騎士道趣味は行き過ぎだ。家庭教師のミヒャエルにはカールの趣味をいさめるように働きかけ、立派に侯爵家を継げるようにしてもらわねばならないというのに……やはりアロイスが連れて来た子だからか、カールにおもねってカールの趣味に付き合ってしまっているようだ。


 いつか、ハッキリ釘を刺しておかなければいけないわね……


「!?……」


 さっと壁際によって気を付けの姿勢をとったミヒャエルには、何故自分がエルネスティーネに睨まれたのか、まったく見当もつけられなかった。しかしそれは仕方のないことだったろう。

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