第1374話 陣営本部に来たヘルマンニ

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ回廊ペリスタイル/アルトリウシア



 一緒に退屈を分かち合っていたロムルスの声にリュウイチが顔を上げると、西の中庭アトリウムの方からヘルマンニが従者を連れて歩いてきているのが見えた。ヘルマンニの方もリュウイチに気づいて一瞬立ち止まると、何やら意を決したようにリュウイチの方へまっすぐ歩いて来る。そしてほんの二メートルほど手前まで来て立ち止まるとペコリと頭を下げた。本来ならひざまづかねばなるまいが、ヘルマンニは最も最初にリュウイチと出会った貴族の一人だけあって、リュウイチがそうした大仰おおぎょうな礼を嫌がることを知っており、あえて軽い挨拶に留めている。


ごきげん麗しゅうサルウェー、リュウイチ様」


 ヘルマンニの声は大きい。船で部下を指揮しているうちに自然と声が大きくなったというのもあるが、歳のせいか自身の耳が遠くなっており、相手にも少し大きい声を出してもらわねば聞こえなくなってきたからというのもある。だが念話で話すリュウイチに声量は関係なく、そのままの声で話してヘルマンニとの会話に困ったことは無い。


『おはようございますヘルマンニさん。

 こっちへ来るなんて珍しいですね』


 ヘルマンニはセーヘイムを治める郷士ドゥーチェだが、同時にアルビオンニア艦隊クラッシス・アルビオンニイを統べる提督プラエフェクトゥスでもある。このため毎週要塞司令部プリンキピアで開かれる報告会にも参加していたので要塞に来ること自体は珍しくも無かったが、リュウイチのいる陣営本部の方へ顔を出すことはあまりなかった。ヘルマンニの治めるセーヘイムはアルトリウシアで最もハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件の被害を受けなかった地区だが、海軍基地カストルム・ナヴァリアやその門前町カナバエは文字通り壊滅的な被害を被っていた上、エッケ島に籠ったハン族の監視と補給物資の輸送、さらに水兵たちの多くをアンブースティア地区の復旧復興支援に派遣しなければならないとあって多忙を極めていたのだ。


「恐れ入ります。

 ちっと侯爵夫人マルキオニッサに至急、御報告申し上げねばならぬことがありましてな。

 要塞司令部プリンキピアに行く前にこちらへ寄らせていただいた次第で」


 リュウイチはヘルマンニのことは嫌いではない。むしろこの世界であった貴族の中で彼がリュウイチに見せる好々爺然こうこうやぜんとした態度には一番親近感を抱いていた。そのため退屈しのぎの相手が来たと無意識に期待していたのだが、リュウイチの淡い期待はヘルマンニの説明によって現実へと引き戻される。


『ああ、それはすみません。

 ひょっとして、エッケ島で何か?』


 ヘルマンニは小規模だがアルビオンニア属州の海軍の総司令官だ。その彼が急ぎで属州女領主ドミナ・プロウィンキアエであるエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人に会いに来たとなると一番の可能性はやはりエッケ島に籠ったハン族だろう。

 だがリュウイチに予想をヘルマンニは笑って否定する。


「いやいや、そんな大層なこたぁありゃしません。

 それに今日、エッケ島にはせがれが行っとりますで、そっちの方で報告することなぞなんもありゃしませんわぃ」


 ヘルマンニは本当に気にしてないという風にニコニコと笑い、七つの三つ編みに結んだ顎髭をさすりながら束の間の立ち話に興じた。こういう人当たりの良さがリュウイチの気に入ってる点であるが、ヘルマンニがこうした人の好さを見せる相手は限られているため、もしもリュウイチがヘルマンニは人当たりが良いと言っても多くの人は賛同しないだろう。


『そうですか。

 でもお急ぎなら引き留めない方が良かったですね?』


「いや、お気になさらず。

 報告会の前に話を通しておきたいことがあっただけでしてな。

 リュウイチ様こそ、てっきりもう司令部プリンキピアの方へ向かわれたのかと……」


『ああ、いやリュキスカが化粧を……』


 リュウイチが困ったように笑うとヘルマンニはカカと笑った。


女子おなごの化粧好きはどうしようもありゃしませんな。

 じゃがリュキスカ様ほど御若けりゃ飾り甲斐もありましょう。

 ウチのなんぞもう婆さんだっちゅうに未だに……おお、来られたようですな」


 ヘルマンニの言葉に振り向くとリュキスカが階段を降りてきたところだった。両腕で赤ん坊を抱え、背後にオトを連れている。リュキスカ本人はというとメイクもバッチリ決めたうえ、衣装も着替えている。食堂トリクリニウムに着て来たようなゴテゴテと見苦しいまでに重ね着した格好ではなく、リュウイチから貰ったロングドレスに、やはりリュウイチに貰った真っ赤なローブを羽織っており、まるで別人のようだ。

 リュキスカは階段の上でリュウイチと共にいるのがヘルマンニだと気づいて脚を止め、驚いたようにわずかに目を見開いてから緊張した様子で降りて来た。そしてリュウイチやヘルマンニたちのいるところまで来るとリュウイチと普段接している時とは思えないほどしとやかに一礼する。


「ヘルマンニ様」


 え、リュキスカってこんなキャラだったっけ?


 リュウイチが思わず目を見張り、ロムルスは何故かニコニコと笑みを浮かべながら興味深そうにリュキスカやリュウイチ、ヘルマンニを盛んに見比べている。


「いやぁこれはリュキスカ様、大層な御召し物で」


 ヘルマンニが相好そうごうを崩して会釈すると、リュキスカはややぎこちなく笑い、「ありがとうございますヘルマンニ様」などと礼を言った。

 リュキスカはそもそも貴族ノビリタスに苦手意識のようなものは持っていたが、侯爵家や子爵家との接点はこの半月でそれなりにあったのである程度慣れ始めていたのに対し、ヘルマンニとはほとんど接点がなかった。そして侯爵家や子爵家、そしてスパルタカシウス家が上級貴族パトリキでどちらかというと雲の上の存在と言う距離感があったが、セーヘイムのヘルマンニと言えば下級貴族ノビレスの頂点に立つ存在であり、心理的にも物理的にも上級貴族より距離が平民プレブスに近い分、強大な権力のある絶対者という印象が強かった。まあ、兵士にとっては将軍よりも軍曹の方が怖いとか、新米社員にとって社長よりも指導役の先輩社員の方が怖いとか、一国の首相よりも自分ちの父親の方が怖いとか、そういった感覚であろう。

 ヘルマンニはリュキスカの態度に何か壁のようなものを感じたというわけでもなかったが、リュキスカが来たことでリュウイチがこの場に留まる理由が無くなったと判断したのだろう。「では奥方様ドミナもいらっしゃったようなので、私はこれで失礼します」と丁寧に挨拶するとその場を後にする。

 ヘルマンニを見送ったリュキスカはホッと息をついた。


「ヘルマンニ様ぁ何でこっちに来られたんだい?」


 リュウイチが「行こうか」と今まさに言おうとしたタイミングでリュキスカが尋ね、リュウイチは喉まで出かかっていた言葉を飲んだ。


『いや……なんかエルネスティーネさんに報告することがあるって』


「てことはエッケ島のハン族が何かやらかしたのかい?」


『いや……そうじゃないって言ってたよ』


 気づけばリュキスカから緊張した様子が消えていた。リュキスカは元々レーマ人らしく目鼻立ちのクッキリした顔立ちだが、南蛮人の血が入っているらしく肌の色がレーマ人より明るい。化粧を決めると整った顔立ちがより際立って思わず見とれそうになってしまう。リュキスカはリュウイチが自分をジッと見下ろしているのに気づき、少し動揺した。


「あ、そう言えばゴメン、待った?」


『いや、ヘルマンニさんと立ち話してたし……じゃあ行こっか?』

 

 リュウイチは適当に返事を返すと、何故か間が持たなさそうな気まずさを感じ、すぐに移動を促した。

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