幕間の陣営本部

第1373話 出かける前の……

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ回廊ペリスタイル/アルトリウシア



 一日分の汚れ物が運び込まれた汚れ物部屋ソルディドルムに部屋まるごと浄化魔法をかけるという唯一の“仕事”を済ませたリュウイチはロムルスと共に階段の下でリュキスカを待っていた。リュキスカは中である。


 結局、女奴隷セルウァをどうするかはリュキスカに任せることになった。リュキスカに献上される女奴隷グルギアが家族を人質に取られてたらどうするのか? その疑問にリュウイチは答えることが出来なかったが、答えを出せずに困惑するリュウイチを見たリュキスカは何かを察したのか、あるいは何か勘違いしたのか分からないが訳知り顔で「ふーん、分かったよ。じゃあアタイに任せときな。悪いようにはしないよ」などと言ったので、リュウイチは不安を抱きながらも任せることにしたのだった。まあ、元々リュキスカに贈られる奴隷なのだから、本来リュウイチが口を挟むようなことではない。最初からリュキスカの専権事項だったのだ。


 話の後、リュウイチはリュキスカに魔道具マジック・アイテムを渡した。本当ならルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵に一度話を通してからとは言っていたが、リュキスカが浄化魔法だけでも今すぐ使ってみたいと言い出したのだ。


「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいからさぁ。

 何なら一度返すし、子爵様ウィケコメスに話通してから改めて貰うってことでさ?」


 意外かもしれないがリュキスカがしなを作ってリュウイチに媚びてくるのは実は二度目である。一度目はリュキスカと初めて出会った『満月亭』ポピーナ・ルーナ・プレーナで娼婦として売り込みをかけている時であるから、リュキスカがリュウイチの聖女サクラになってからは初めてのことだった。

 この世界の住民ヴァーチャリア人が降臨者に魔導具を強請ねだっているのだら単純に考えれば大協約違反になる。おそらくネロがこの場に居れば間違いなく怒っていたことだろう。ただ、リュキスカはヴァーチャリア人とはいえ聖女であり、魔導具を持つことに法的な規制が明確にあるわけではない。黒ではなく、グレーなだけだ。

 リュウイチとしてもルキウスに筋を通す必要は認めていたが、一度は「問題ないはずだ」と断言してしまっていたし、リュキスカに初めて甘えられたということもあり、ひとまず『聖なる光の杖』ワンド・オブ・ホーリー・ライト『魔力共有の指輪』リング・オブ・マナ・シェアリングだけ渡してしまった。どちらもルクレティア・スパルタカシアに与えたのと同じ物だ。


 リュキスカは使い方を教わるや否や、早速自分に向かって浄化魔法をかけた。その直後、その目で効果も確かめないうちからパアッと表情を明るくする。リュキスカの満面の笑みの理由はリュウイチとロムルスには分からなかった。リュキスカも言うつもりはない。先ほどリュウイチと話しをするために寝椅子クビレに腰かけた瞬間に腰巻スブリガークルムにしこたま仕込んだ布巾スダリオが潰され、そこから染み出た下り物が尻の下に広がっていた嫌な感触が一瞬で消えたなどと言えるわけもない。


 やった!?

 すごい!

 下り物が消えた!?

 ひょっとして毎日これかけてりゃこれから一生下り物で困らなくなるんじゃ!?


 それは閉経まで続く女性の悩みの解消、すべての女性の羨望の対象たり得る成功をリュキスカが手にした瞬間だった。だが世の中全てがそう便利になるわけではないようだ。

 最初、リュキスカの笑みの理由が分からず困惑していたリュウイチとロムルスだったが、二人の表情はある瞬間を境に次第に別の困惑へと色を変えていく。そして二人は互いの目を見合ってから、リュウイチが言いづらそうに言った。


「リュキスカ……その、司令部に行く前に化粧直しをしとこうか?」


 浄化魔法はリュキスカの化粧も落としてしまっていたのだった。


 そんなわけでリュキスカは二階の自室クビクルムへ戻っている。この世界ヴァーチャリアではガラスが普及していないため、鏡と言えば磨かれた金属板だ。よほど精巧に磨かなければ歪んだり曇ったりで鮮明には映らず、鏡を見ながら一人で化粧をすると仕損じることがままある。このため貴族ノビリタスなら専属の侍女たちに化粧させるわけだが、リュキスカにはそんなものはいない。元々娼婦だから化粧なんて自分でやるのが普通で、仕上がってから仕損じがないか娼婦仲間や店の下働きに確認してもらう。今、リュキスカにはその確認作業をやってくれる仲間もいないわけだが、リュキスカはリュウイチから巨大なガラス鏡のついた化粧台や手鏡をもらっていたので一人で問題なく出来る。


 金属鏡しか知らなかった女がガラス鏡を目の当たりにした時の感動を想像できるだろうか?


 それ以降、リュキスカの化粧にかける時間と化粧の完成度は各段にアップしている。リュウイチも鏡を渡した翌日からリュキスカの顔が別人のように変わったのには随分と驚かされた。が、それから遠い記憶の彼方から思い出と共に世の男性諸君が共有する不可解極まる事実を再認識させられるはめになった。女というのは化粧にやたらと時間をかけるという事実をだ。田所龍一リュウイチの母も、父に出かけるぞと言われてからいつもタップリ三十分は化粧に時間をかけていた。もうあまりにも昔過ぎて忘れていたが、少年だったリュウイチはいつもヤキモキしながら母を待っていたものだった。それが女性にとって必要不可欠な身だしなみだと知るのは大人になってからだったが、幸か不幸か独身のままで居続けた田所龍一は社会人になって以来、女の化粧を待つという男にとって修行じみた時間を過ごさずに済んでおり、そんな当たり前のこともすっかり忘れ去っていたのだった。

 今、リュウイチはリュキスカに鏡をあげてしまったことに対する小さな後悔と、アルビオンニウムから帰ってきたルクレティアにも同じ鏡をあげなければならない事、そしてその時に起こるであろう騒ぎとを考えながら、ロムルスと共にリュキスカを待ち続けている。


 まだかなぁ、司祭が来るまでに行かなきゃいけないのに……


 この世界にはスマホはもちろんネットも無い。ラジオもテレビも無い。本を読もうにもあるのはラテン語かドイツ語か英語の本だけでリュウイチには読めない。したがって待つというのは本当にただひたすら何もしないということだ。リュウイチが何度目になるか分からない溜息を噛み殺した時、ロムルスふと顔を上げて呼びかけて来た。


「お! 旦那様ドミヌス、ヘルマンニ様ですぜ!?」

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