第1371話 負け犬

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニ集合住宅インスラ/アルトリウシア



 パヌはディアナを振りほどこうとしたが出来なかった。ベローナを両手で掴んでもみ合ってバランスを崩したところをディアナに踏み込まれたせいで肩を突いた壁に体重を半ば預ける形になっており、両足に体重が乗ってない。それでいてディアナは左手首全体で掴んだパヌの襟を巻き込むようにして左ひじをパヌの首に押し付け、同時に右手に持った小剣プギオーの切っ先をパヌの鼻先に突きつけていた。態勢を立て直そうにもいつの間にかディアナに正衣トガの裾を踏まれていて正衣全体で床に縛り付けられているような感じになってしまっている。態勢をそのままに突き付けられた切っ先だけでも避けようとしても、首をがっちりキメられているので動けない。無理に動こうとすれば鋭い切っ先がパヌの鼻を容赦なく切り裂くだろう。


「お、おいおい、無理すんなよ!

 女がそんなもん振り回すもんじゃねぇぜ?

 嫁の貰い手が無くなっちまうぞ!?」


「祖父も父も親戚も全部軍人です!

 小剣プギオー短剣グラディウスも使い方は小さいころから教わってました。

 軍人一家の女なら、これくらい当たり前です!」


 ディアナの小剣を持つ手に力が加わり、切っ先がパヌの小鼻を押しつぶした。切っ先の食い込んだ小鼻から血が流れ始める。


「ふ、ふりゃけん

 オリェにこんにぇて、タむとおみょ!?」


 片鼻を塞がれたせいで発音が変になるが誰も笑わない。むしろ興奮を増したのかディアナの視線が殺気走り、パヌは脅すどころが逆に威圧され始めた。


「ふざけてません。

 早く母さんマテルを放しなさい!

 さもないと、その鼻を削ぎ落としますよ!?」


 どう見ても本気なディアナの目にパヌはウッと息をのんだ。威勢のよさはどこへやら、今や意気消沈し怯えに震え始める寸前だ。しかし男が女にやられたとなれば立つ瀬がない。レーマ帝国では男にはどこまでも男らしくあることが求められ、臆病だの卑怯だのといった風評はある意味死よりも恐れられるのだ。パヌは両手に掴んだベローナの服を放す寸前だったが、ギリギリのところで踏みとどまり、服を掴む両手に力を込めなおす。


「やっひぇ

 おんらてぃかあおえてぃブッカを刃物はもおで殺ひゅのなん無理むいだぞ!?」


 ブッカは生物学的にはゴブリンの亜種とされる種族であり、海辺の環境に適応した種族だ。ゴブリンは体毛も皮下脂肪が少ないが、ブッカは水中での活動に適応するために全身を覆う体毛と豊かな皮下脂肪を持っている。特に冬毛になると体毛の密度が高まり、密生した体毛と脂によって空気の層を作るため、冬場に水に落ちても体温を奪われないし溺死することもほとんどない。そんな身体だから当然、刃物が利きにくい。

 脂っ気の強い体毛は刃物に対しても有効で、そのうえ豊かな皮下脂肪があるために刃物で切ったり刺したりすると、刃に脂がのって切れ味が極端に下がるのだ。このためブッカやコボルトは刃物では殺傷しにくいことが良く知られていた。

 パヌはそのことを挙げてディアナを威嚇したわけだが、それはディアナを委縮させるどころかむしろ火に油を注ぐ結果にしかならなかった。ディアナが切っ先をパヌの鼻に食い込ませたまま小剣の持ち方を変え、剣身に角度を付ける。


「殺すつもりはありません。

 でもこの鼻は削ぎ落としましょう。

 鼻を削ぎ落とされた顔でアナタはこれからの一生、人前に出る勇気があるんですね!?」


 ディアナの冷たい声と鼻の傷みはパヌを震え上がらせるには十分だった。所詮はチンピラである。


「わ、わかってゃ!」


 パヌはひときわ大きい声で言うと、ベローナを掴む手からゆっくりと力を抜く。ベローナは男の手が離れたのを見計らうとバッと身を引き、はだけて着崩れた長衣ストラ外套パエヌラ手繰たぐり寄せる。ベローナが落ち着きを取り戻し、パヌを無言で睨み、次いで助けてくれた娘ディアナを見ると、ディアナはようやくホッと小さく息をついた。


「な、なぁオレぁ放したぜ?

 そっちも、放してくれるだろ? なぁ? おっ!?」


 ディアナが気を抜いたと思ってパヌが話しかけると、ディアナはサッと我に返り、パヌを押さえつけていた両手に体重を込めてパヌを壁にこすりつけるように外へ向かって押し出し始める。


「お、おい! 話が違うじゃねぇか!?」


「アナタには、家から出て行ってもらいます!

 放すのは、それから!!」


「お、おい! よせ!!

 くそ、お前何でそんなに怪力なんだよ!?」


 パヌは壁にズリズリと擦りつけられるように押され始めた。押しているのは自分の半分くらいしか体重がなさそうなホブゴブリンの娘!? あまりのことに理解が追い付かない。実際のところはディアナにそれだけ怪力があったわけではなく、元々態勢を崩して力が入りにくい姿勢だったために踏ん張りが利かず、ディアナにもいいように押されてしまっているだけだったのだが、すっかり気が動転してしまったパヌにはそのことに気づけない。結局パヌは混乱から立ち直れないまま玄関から外へ押し出されてしまった。すっかり着崩れてしまった正衣に足を取られたこともあり、そのまま敷居につまづいて廊下でみっともなく尻もちをついてしまう。


「あ、イテッ!!

 く、クソ手前ぇ俺にこんなことして!

 俺に恥かかせやがって!

 ラウリの親分が只じゃ置かねぇぞ!?」


 満足に立ち上がれもしないくせに、パヌは偉そうに威張って見せる。ラウリの威光を着れば相手がビビるとでも思っているのだろうが、ディアナたちの親戚は皆が皆軍人ばかりの軍人一族……背後に居るのはアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアだ。アルトリウシアの一郷士ドゥーチェの子分の名前なんかにビビるわけがない。


「ならラウリ様を連れてきてごらんなさい!

 私の父はマニウス要塞司令プラエフェクトゥス・ブルギ・マニの副官ですよ?!

 ラウリ様が相手になるというのなら、その時こっちは軍団レギオーが相手です!」


「う、嘘つけ!

 軍団レギオーがお前みたいな小娘のために動くもんか!!」


 するとディアナの背後からベローナが出てきて、ディアナ越しにゴミムシでも見るような目でパヌを見下ろしながら冷たく言い放つ。


「嘘ではありません。

 この子の父、そして私の夫はセウェルス・アヴァロニウス・ウィビウス……今も確かにマニウス要塞カストルム・マニ司令プラエフェクトゥスの副官として奉公しております。

 嘘だと思うなら要塞カストルムに行って訊いてみるが良いでしょう。

 なんなら、一緒に行って口を利いて差し上げてもよろしくてよ?」


 これにはさすがにパヌもビビった。こんな集合住宅インスラの住人が軍団を動かせるなんて想像もしてなかったのだ。


「なっ!?

 ひ、卑怯だぞ! 軍団レギオーなんか引き合いに出して!!」

 

「アナタだって無関係な人の名前をかたったでしょ!?

 女だと思って馬鹿にして!!」


「無関係じゃねぇ!

 俺ぁホントに……」


 玄関先で言い争っている間に階段の方が何やら騒がしくなり、ドタドタとけたたましい足音を立てて誰かが掛けてくる。気づいたパヌがそちらへ向いた。


「あ、兄貴!

 助けてくだせぇ、コイツらオレのことを……」


 パヌが表情を一瞬明るくして援けを求めたと思いきや、次の瞬間パヌは突然現れた男に顔面を蹴り飛ばされていた。

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