第1369話 来客

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニ集合住宅インスラ/アルトリウシア



「あらディアナ、どこへ行くの!?」


 ディアナ・アヴァロニア・ウィビアは伯母トラヤニア・レグリアの寝室クビクルムから玄関オスティウムへ向かう途中で母親に呼び止められた。ベローナ・カピティア・アヴァロニア・ウィビア……マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ要塞司令官付き事務官カッリグラプス・プラエフェクチ・カストロルムとして働くセウェルス・アヴァロニウス・ウィビウスを夫に持つホブゴブリン女性であり、二男二女の母でもある。間もなく成人を迎える二人の娘の花嫁修業を兼ね、義姉であるトラヤニア・レグリアの世話に通っていた。以前は五~六日に一度のペースで通っていたのだが、ネロが奴隷になったことが分かってからトラヤニア・レグリアの落ち込みを心配したセウェルスの意向にり、先月末ぐらいから二~三日に一度の割合で顔を出すようになっている。


「ちょっと一度ウチに帰って来るわ」


「えっ、何しに!?

 忘れ物でもしたの?」


「見てよ母さんマテル伯母様マテルテラったらホラ!」


 驚くベローナにディアナは寝室から持ってきたスープ皿を見せた。窓を開けても光の入らない部屋を掃除するためにベローナが用意していたランプの灯りに照らされた皿には手つかずの大麦粥プルスが丸ごと残っている。ディアナがわざと皿を傾けても粥は冷えて固まってしまっているので、ゆっくり垂れては行くもののその動きは極めて遅くほとんど動いているように見えない。


「まぁ、義姉さんプリマダメじゃない、ちゃんと食べないと!!」


 ベローナは奥に居るはずのトラヤニア・レグリアに向かって声を張ると、奥から同じように声を張ってトラヤニア・レグリアが返事をしてきた。


「いいのよそんなもの!

 私は食べないわ!

 要らないから捨てて頂戴!!」


 ディアナは傾けすぎて粥が零れそうになった皿を水平に戻し、上目遣いで母の顔を見る。娘と目を見合わせたベローナは溜息をついた。


「せっかく子爵様が領民のために御用意くださったのに……」


「コレ、どうしたらいい?」


 捨てるのは流石に勿体もったいない。配給によって領民の多くが飢えずに済んでいるとはいえ、配給食は量も質も必ずしも食べる人を満足させるような内容ではない。飢えずに済む程度の代物なのだ。ペローナたちのような平民プレブスに近い下級貴族ノビレスなら配給食に自費で何か付け加えてな食事にできているが、平民プレブスの多くはそれすら難しいのが今の状況だったりする。何せ配給食自体は無料タダでも、それ以外の食品は軒並み価格が高騰しているからだ。

 特に今年は塩や香辛料の貯蔵施設がハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件の被害にあったため、塩と香辛料の供給量が激減が予想されたことからこの冬を越すための保存食品生産に必要な分を領主が強制的に接収……そのせいで市場に出回る分が余計に激減してしまい、半月ほど前から値段が一気に高騰。そのあおりを受けて食品という食品の価格が上がってしまっていたのだった。これで配給食が無ければ領民の多くが飢餓に陥って今頃暴動が起きていた事だろう。

 こうした状況をかんがみると、粗末極まる大麦粥でも簡単に捨てて良いような気にはならない。この一杯の大麦粥でも欲しいという者はいくらでもいるだろうし、そうした人たちがいる中で大麦粥を食べずに捨てたりすれば……なおかつそれを人に知られでもすれば、相応の非難はまぬがれないに違いなかった。


「いいわ、蓋でもして置いときなさい。

 きっとテルティアさんが温めなおして食べるわよ」


 ベローナは小さく首を振りながら言った。テルティアとはトラヤニア・レグリアと同居している妹である。一度は結婚して家を出たのだが、一昨年の火山災害で家族を失ったのを機に実家へ出戻ってきたのだ。嫁ぎ先の姑との折り合いが悪く、夫も子供も居なくなったのに同居を続けたくはなかったのだそうだ。

 このテルティア、末娘だけあってベローナから見ると中々奔放ほんぽうな性格で、外の人と接している分には普通の女性なのだが家族に対してはまるで遠慮というモノがなく、長姉であるトラヤニア・レグリアに対しても少々当たりが強いというか、とにかく大雑把おおざっぱだ。

 トラヤニア・レグリアの性格も状況も分かっているクセに、本人が食べたがらないであろう大麦粥を貰ってきてそのまま出すあたりからもその無神経っぷりが伺えよう。しかも大麦粥を出して食べてもらえなかったのは今回が初めてではないのだ。ベローナも一度テルティアに注意したことがあるのだが、テルティアは一向に気にする様子もなくあっけらかんと言ったものだ。


 大麦が入ってるから食べない?

 そんな我儘わがままなんて無視していいのよ。

 お腹が空けば嫌でも食べるでしょ……


 以来、ベローナもテルティアにトラヤニア・レグリアの世話を期待するのは止めてしまった。現に今も居ないではないか……というか、ここに来る前に工房に出かけるテルティアとすれ違っている。テルティアの方は洗濯物を抱えていたのでベローナたちに気づかなかったようだが……。


 ディアナはベローナに言われた通り、近くの円卓メンサに皿を置くと、上から蓋代わりに戸棚から出した別の平皿をひっくり返して被せた。


「じゃあ、ちょっと行ってくるね」


「ええ、お父さんパテルが貰って来た軍用パンパニス・ミリタリスがあったはずだから持ってきて。

 アレなら食べるだろうし、今は食べなくても日持ちするから……」


 夫のセウェルスは仕事先の要塞から余った軍用パンをよく貰って来ていた。貰って来た軍用パンは家では誰も食べないのだが、セウェルスにも何人か被保護民クリエンテスがおり、時々表敬訪問サルタティオに来るのでその時に『贈り物スポルトゥラ』として渡しているのだ。無発酵で焼く固焼きパンなのでそのままでは固くて食べられない代わりに数日たっても傷まない。トラヤニア・レグリアは蜂蜜入りのワインが好きだから、軍用パンが置いてあれば勝手にワインに浸して食べるだろう。


わかったわベーネ


 ディアナはそう言って玄関へ行き、扉を開けた。外に出る前に上履きソレアから外履きのサンダルに履き替えねばならないが、扉を開けて外の光を入れないと玄関は暗くて履き替えるのに難儀なのだ。


 ギイッ……ディアナが履物を履き替えていると、半開きにしていた扉が鳴って影が差す。何だろうと思って見上げると、見知らぬ男が立っていた。


ごきげんようサルウェーお嬢さんプエッラ

 こちらはアヴァロニア・レグリアさんのお宅であってるかな?」

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