第1368話 トラヤニア・レグリアの抵抗

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニ集合住宅インスラ/アルトリウシア



 ゴトゴトと玄関ウェスティーブルムの方から何やら物音がして、三人の女の声が聞こえ始める。


ごきげんようサルウェーレグリアいるぅエースネ・イービ・レグリア

 奥かしら?

 あらディアナ、アナタ履き替えたなら、ちょっと先に行って見てきて!

 ルーナも」

はいイータお母さんマテル

はーいイータ


 玄関で何かもたついているのは上履きソレアに履き替えているのだろう。レーマでは他人の家に行くときは自分で上履きを持って行き、玄関で履き替える習慣があった。とはいってもそれは富裕層での話であり、平民プレブスでは必ずしもその習慣を守っているわけではない。そもそも貧困層では履物自体をもっておらず、年中裸足で過ごす者もいないわけではなかったからだ。他人の家に来て玄関で自前の上履きに履き替えるのは、少なくとも中流以上の家の人間であるということである。


ごきげんようサルウェーレグリア伯母さんマテルテラ・レグリア

「居るぅ?

 やだ、真っ暗じゃない!」


 扉が開かれ、寝室クビクルムに二人の若い娘が入って来た。振り向かなくても誰かは分かる。


「ディアナちゃん、ルーナちゃん、ごきげんようサルウェー


 トラヤニア・レグリアは寝台クビレに腰かけたまま、力の無い微笑を浮かべて挨拶の言葉を送ると、部屋に入ってきた二人の姪は驚いたようだ。


「!?

 ごきげんようサルウェー伯母様マテルテラ!!

 母さんマテル、居たよ!?」

ごきげんようサルウェー伯母様マテルテラ

 窓開けるね!?」


 入ってきた二人の少女は入り口で部屋の住人に挨拶を返すと、一人はまだ玄関口にいる母親を呼びに戻り、もう一人はそのまま部屋に踏み込んですぐに窓を開け始める。


「もう、こんなに締め切って!

 寒いからって締め切ってると身体に悪いのよ!?

 表から見たら窓の鎧戸が閉まってる部屋ここだけだったんだから!」


 寒さにめっぽう弱いホブゴブリンだが、彼らの先祖の故郷アヴァロンニアは熱帯に近い温暖湿潤な気候だったためか、冬でも家屋の換気を重視する傾向にあり、暖房の無い室内でも着ぶくれするほど着込んで寒さに耐えながら日に何時間かは窓を開ける習慣があった。

 手探りで木戸を開け放つと光と風が注ぎ込む。アルトリウシア一帯は普段から西風が強く吹き付ける土地だが、城下町カナバエの中は建物が密集しているため、開け放たれた窓から吹き込む風は穏やかだ。窓を開けたディアナは冷たい風を胸いっぱい吸い込んで振り返る。窓を開け放った部屋は、昼間に相応しい明るさを取り戻していた。


伯母様マテルテラ、掃除するわね?

 ルーナ! 伯母様マテルテラに手を貸してあげて!

 お母さんマテル! コッチ来て、何してるの!?」


 彼女たちはトラヤニア・レグリアの弟セウェルスの妻と娘たち……つまり義理の妹と姪にあたる。親戚でもあり近所でもあることから、定期的に尋ねてきて家事を手伝ってくれるのだ。脚が悪くて歩行の難しいトラヤニア・レグリアは彼女たちに非常に助けられている。窓を開けた姉の方のディアナは十五歳、次の誕生日で成人する娘盛りで器量もいいことからボチボチ縁談も来ているらしい。妹のルーナも姉に負けず劣らず元気で気立てが良い。


「ディアナちゃん今日も元気ねぇ、ルーナちゃんもありがとう」


「いいのよ伯母様マテルテラ、あ!」


 部屋に戻ってきたルーナは寝台に腰かけたままの伯母を介助しようと近づくと、その正面に置かれた小さな円卓メンサが目に留まった。


伯母様マテルテラ、これ今朝の大麦粥プルス!?

 全然食べてないじゃない!!」


 見ると木のスープ皿と木のスプーンが置かれており、スープ皿には大麦粥が入ったままになっていた。先月から全領民を対象に食料が配給制になっており、指定された飲食店で支給された材料を調理し、それを受け取ることになっている。大麦粥はこの集合住宅インスラの一階の料理屋タベルナで作られ配給されたものに違いなかったが、既にすっかり冷めて固くなってしまっている。スプーンが全然汚れていないところをみると、まったく手を付けてないのだろう。ルーナの声で気づいたディアナも目を丸くした。


「ダメじゃない伯母様マテルテラ

 ちゃんと食べないと!!」


「ああ、いいのよ。

 なんだか食欲がないの……」


 トラヤニア・レグリアは力なく笑いながら言い訳する。ディアナとルーナは困った表情で互いの顔を見合った。二人はお互いに同じタイミングで同じように溜息をつくと、ディアナがルーナにハンドサインで伯母を連れて行くよう指示する。


伯母様マテルテラ、行きましょう」


伯母様マテルテラ、アタシが温めなおすからそっちの部屋で食べて」


 ディアナがしょうがないとでも言いたそうにそう言うと、ルーナに支えられながら立ち上がろうとしていたトラヤニア・レグリアはきっぱりと拒絶した。


「やめてちょうだい!」


 ルーナに肩を借り、もう片方の手で杖を突いたトラヤニア・レグリアの発した声は先ほどまでの穏やかな声とは全く違う。


大麦粥プルスなんてそんな物、食べる気はないわ!

 お腹は空いてないの、いいから捨ててちょうだい!」


 驚くディアナを置いてトラヤニア・レグリアはルーナに支えられながら出口に向かい始める。脚を引きずりながら、ゆっくりと……。ディアナとルーナはそれ以上何も言えなかった。トラヤニア・レグリアの境遇の知っていたからだ。


 古代ローマ人はパンが普及する以前はスペルト小麦のポレンタを主食にしていた。やがてパンが普及して麦粥の地位は脅かされることにはなったが、それでも小麦が主食でありつづけた。小麦を主食とするローマ人にとって、大麦は人間の食べる穀物ではなかった。家畜用の餌であり、同時に奴隷のための穀物だったのだ。このため古代ローマ軍には罪を犯した軍団兵レギオナリウスに大麦を食べさせる刑罰があったほどだった。

 《レアル》古代ローマから文明・文化を引き継いだレーマ帝国でもそうした価値観が残っている。レーマ帝国は多民族国家であり《レアル》古代ローマ以外の文明から降臨者を迎えた民族も多く存在するため、大麦を食べることに何の不都合も感じない民族も少なからず存在しているが、今はレーマ帝国の属州の一つとなったアヴァロンニアは古代ローマから降臨した軍人アルトリウスを始祖とすることもあり、アヴァロニウス氏族をはじめアヴァロンニアにルーツを持つホブゴブリンたちの中には大麦食に忌避感を示すものが少なくない。生まれも嫁ぎ先も軍人家系のトラヤニア・レグリアもその一人だったが、彼女の場合はさらに特別な事情があった。

 先月から行方が分からなくなった彼女のたった一人の家族、愛息子のネロがどうやら軍命に背いた罪で奴隷に堕とされてしまったそうなのだ。そしてディアナやルーナの父セウェルスによると、それは事実であるらしい。セウェルスは姉であるトラヤニア・レグリアには黙っているし、妻や娘たちにもトラヤニア・レグリアには伝えるなと厳命しているのだが、トラヤニア・レグリアは独自の伝手でそれが事実であるらしいことを突き止めてしまった。


 息子ネロが奴隷に堕とされた。

 きっとみすぼらしい恰好をさせられ、大麦を食べさせられているに違いない……

 ゆるせない、そんなの認めてなるものですか!


 トラヤニア・レグリアの大麦嫌いは以前はそれほどでもなかった。何せアルビオンニア属州の人口を多く占めるランツクネヒト族は大麦をライ麦などと共に好んで食べるし、そもそもアルビオンニア属州では気候の関係から小麦があまり採れず、大麦やライ麦の方が多く採れて安く流通しているため、レーマ人やアルビオンニアにルーツを持つホブゴブリンたちでも平民プレブス以下の者たちならば大麦を食べる機会が多かったからだ。アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアでも大麦を食べさせる刑罰というのは、軍法の中でほぼ死文化してしまっている。だがトラヤニア・レグリアは息子ネロが奴隷に堕とされたらしいと知ってから、大麦を忌むべきものとみなすようになってしまった。奴隷という制度そのものにすら憎悪を抱くようになった。

 大麦粥は配給されたものを、同居の妹であるトラヤニア・テルティアが受け取って温めなおして出したものだったが、トラヤニア・レグリアはそれが大麦だと気づいた瞬間から全く手を付けるのをやめてしまっていたのだった。それは愛する息子を奪われた母の、誰にも届くことのないささやかな抵抗だった。


 トラヤニア・レグリアに肩を貸しながらルーナが姉ディアナを振り返る。さすがに全く何も食べないというのは問題だ。ディアナは説得を諦め、肩を落とした。


「分かったわ。

 ウチから何か持ってくる……」

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