第1368話 トラヤニア・レグリアの抵抗
統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐
ゴトゴトと
「
奥かしら?
あらディアナ、アナタ履き替えたなら、ちょっと先に行って見てきて!
ルーナも」
「
「
玄関で何かもたついているのは
「
「居るぅ?
やだ、真っ暗じゃない!」
扉が開かれ、
「ディアナちゃん、ルーナちゃん、
トラヤニア・レグリアは
「!?
「
窓開けるね!?」
入ってきた二人の少女は入り口で部屋の住人に挨拶を返すと、一人はまだ玄関口にいる母親を呼びに戻り、もう一人はそのまま部屋に踏み込んですぐに窓を開け始める。
「もう、こんなに締め切って!
寒いからって締め切ってると身体に悪いのよ!?
表から見たら窓の鎧戸が閉まってる部屋ここだけだったんだから!」
寒さにめっぽう弱いホブゴブリンだが、彼らの先祖の故郷アヴァロンニアは熱帯に近い温暖湿潤な気候だったためか、冬でも家屋の換気を重視する傾向にあり、暖房の無い室内でも着ぶくれするほど着込んで寒さに耐えながら日に何時間かは窓を開ける習慣があった。
手探りで木戸を開け放つと光と風が注ぎ込む。アルトリウシア一帯は普段から西風が強く吹き付ける土地だが、
「
ルーナ!
彼女たちはトラヤニア・レグリアの弟セウェルスの妻と娘たち……つまり義理の妹と姪にあたる。親戚でもあり近所でもあることから、定期的に尋ねてきて家事を手伝ってくれるのだ。脚が悪くて歩行の難しいトラヤニア・レグリアは彼女たちに非常に助けられている。窓を開けた姉の方のディアナは十五歳、次の誕生日で成人する娘盛りで器量もいいことからボチボチ縁談も来ているらしい。妹のルーナも姉に負けず劣らず元気で気立てが良い。
「ディアナちゃん今日も元気ねぇ、ルーナちゃんもありがとう」
「いいのよ
部屋に戻ってきたルーナは寝台に腰かけたままの伯母を介助しようと近づくと、その正面に置かれた小さな
「
全然食べてないじゃない!!」
見ると木のスープ皿と木のスプーンが置かれており、スープ皿には大麦粥が入ったままになっていた。先月から全領民を対象に食料が配給制になっており、指定された飲食店で支給された材料を調理し、それを受け取ることになっている。大麦粥はこの
「ダメじゃない
ちゃんと食べないと!!」
「ああ、いいのよ。
なんだか食欲がないの……」
トラヤニア・レグリアは力なく笑いながら言い訳する。ディアナとルーナは困った表情で互いの顔を見合った。二人はお互いに同じタイミングで同じように溜息をつくと、ディアナがルーナにハンドサインで伯母を連れて行くよう指示する。
「
「
ディアナがしょうがないとでも言いたそうにそう言うと、ルーナに支えられながら立ち上がろうとしていたトラヤニア・レグリアはきっぱりと拒絶した。
「やめてちょうだい!」
ルーナに肩を借り、もう片方の手で杖を突いたトラヤニア・レグリアの発した声は先ほどまでの穏やかな声とは全く違う。
「
お腹は空いてないの、いいから捨ててちょうだい!」
驚くディアナを置いてトラヤニア・レグリアはルーナに支えられながら出口に向かい始める。脚を引きずりながら、ゆっくりと……。ディアナとルーナはそれ以上何も言えなかった。トラヤニア・レグリアの境遇の知っていたからだ。
古代ローマ人はパンが普及する以前はスペルト小麦の
《レアル》古代ローマから文明・文化を引き継いだレーマ帝国でもそうした価値観が残っている。レーマ帝国は多民族国家であり《レアル》古代ローマ以外の文明から降臨者を迎えた民族も多く存在するため、大麦を食べることに何の不都合も感じない民族も少なからず存在しているが、今はレーマ帝国の属州の一つとなったアヴァロンニアは古代ローマから降臨した軍人アルトリウスを始祖とすることもあり、アヴァロニウス氏族をはじめアヴァロンニアにルーツを持つホブゴブリンたちの中には大麦食に忌避感を示すものが少なくない。生まれも嫁ぎ先も軍人家系のトラヤニア・レグリアもその一人だったが、彼女の場合はさらに特別な事情があった。
先月から行方が分からなくなった彼女のたった一人の家族、愛息子のネロがどうやら軍命に背いた罪で奴隷に堕とされてしまったそうなのだ。そしてディアナやルーナの父セウェルスによると、それは事実であるらしい。セウェルスは姉であるトラヤニア・レグリアには黙っているし、妻や娘たちにもトラヤニア・レグリアには伝えるなと厳命しているのだが、トラヤニア・レグリアは独自の伝手でそれが事実であるらしいことを突き止めてしまった。
きっとみすぼらしい恰好をさせられ、大麦を食べさせられているに違いない……
ゆるせない、そんなの認めてなるものですか!
トラヤニア・レグリアの大麦嫌いは以前はそれほどでもなかった。何せアルビオンニア属州の人口を多く占めるランツクネヒト族は大麦をライ麦などと共に好んで食べるし、そもそもアルビオンニア属州では気候の関係から小麦があまり採れず、大麦やライ麦の方が多く採れて安く流通しているため、レーマ人やアルビオンニアにルーツを持つホブゴブリンたちでも
大麦粥は配給されたものを、同居の妹であるトラヤニア・テルティアが受け取って温めなおして出したものだったが、トラヤニア・レグリアはそれが大麦だと気づいた瞬間から全く手を付けるのをやめてしまっていたのだった。それは愛する息子を奪われた母の、誰にも届くことのないささやかな抵抗だった。
トラヤニア・レグリアに肩を貸しながらルーナが姉ディアナを振り返る。さすがに全く何も食べないというのは問題だ。ディアナは説得を諦め、肩を落とした。
「分かったわ。
ウチから何か持ってくる……」
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