レグルス家

第1367話 昼なお暗い部屋

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニ集合住宅インスラ/アルトリウシア


 古代ローマ建築を代表する建物と言えば何といっても円形闘技場コロッセウムが挙げられる。現在もなお残るその姿が示す威容は二千年前のローマ帝国が如何に偉大な文明だったかを目にする者全てに雄弁に物語ってくれる。他の文明では類を見ないほど優れた建築技術を誇ったローマ帝国だが、その建築物で最もポピュラーだったのは集合住宅インスラであった。

 世界中から集中して来る膨大な人口は、やはり膨大な量の建築需要を生み出した。しかしローマは七つの丘に囲まれた盆地であり、湿地帯だった。土地は限られ、数十万もの人口を収容するための十分な土地面積などない。そこで生み出されたのが高層集合住宅だったのである。平屋なら一世帯しか住めなくても、二階三階と上に階を重ねて行けば、それだけ多くの世帯を収容できる。結果、古代ローマには六階建てや七階建てといった高層集合住宅が軒を連ねることとなった。悪徳業者による手抜き工事のために倒壊事故が起きたり、あるいは火災発生時の破壊消火作業(火が燃え広がる前に予め建物を壊すことで延焼を抑える消火方法)の困難さなどから建物の高さは制限されることとなったが、しかしそれでも高層集合住宅はその後も長きにわたってローマの住宅需要に答え続ける存在だった。


 そんな《レアル》古代ローマから文明・文化を引き継いだレーマ帝国においても集合住宅は建築の世界で極めて重要な位置を占めている。どの時代、どの社会であろうとも人は便利な都市部に住みたがるものであったし、人口の集中しやすい都市部ではどうしても土地面積が不足してしまう。高速交通手段が存在しない以上、職場に通勤可能な範囲はどうしたところで狭くならざるを得ないからだ。労働力を集約しなければならない職場があれば、たとえその周辺に土地が余っていたとしても、住宅需要は職場の近辺に集中せざるを得ない。そして軍事基地カストルムは、労働人口を集中させる最たる職場だった。

 

 要塞カストルムは通常一個ないし二個の軍団レギオーを収容する規模があり、収容される軍団はレーマ軍の標準的編成ならば五千人もの軍団兵レギオナリウスによって構成される。要塞の周囲は火砲による防御火網を最大限に発揮する稜堡りょうほ型となっており、複数の砲座を備えた稜堡が全体をぐるりと囲む。当然、そこには防衛に携わる兵士が常駐し、すべての部署を定員で満たせば要塞の守備兵力はやはり五千人規模にはなるだろう。要塞は少なくとも一万人以上の兵士と言う労働力を集約する職場たりうるわけだ。

 当然、その職場の通勤圏内には兵士らの家族が住む。それだけで四~五万人にはなるだろう。それだけの人口が集中すれば、その生活を支えるための様々な需要が生じ、それに応えるために商人たちが集まる。その結果、軍そのものの補給を支える必要もあって要塞の前には城下町カナバエが生まれるのだ。

 しかも火力による防御を重視した稜堡型城塞では射界の確保が要求される。つまり敵が攻めてくることを想定される方向には、建物などはもちろん樹木や岩石なども含めいかなる障害物も存在していてはならない。このため、要塞が火砲を向けるべき方向はあらゆる建物の建築は禁じられ、城下町の建設は敵が攻めてこないであろう方面のみに制限される。おかげで城下町を形成できる面積はかなりな制限が課される。徒歩による通勤時間も考えれば住める範囲はより一層狭くなり、狭い範囲での住宅需要を満たすためには集合住宅は必須の存在となるのだった。


 そういうわけで、マニウス要塞の北側に広がる城下町も集合住宅が林立している。とはいっても、要塞の防御正面ではないとはいえ防衛上の都合から城砦の堡塁ほるいよりも高い建築物の建設は禁止されているため、城下町にある建物は基本的に三階建てまでだ。多くは一階が店舗となっており、二階と三階が住居……そのほとんどが賃貸住宅。

 集合住宅の二階から上には上下水道は無く、エレベーターもエスカレーターも存在しないため上の階ほど生活には不便だ。このため三階よりも二階の方が人気で家賃も高い。特に表通りウィークスに面しているような部屋なら景色もいいし通勤や生活にも便利というので人気は最高だ。


 そんな人もうらやむような表通りに面した集合住宅の二階にトラヤニア・ウィビア・アヴァロニア・レグリアは住んでいた。百人隊長ケントゥリオ以上の高級将校一家が使用人と共に住むことを想定した物件は充分に広く、窓から身を乗り出せば要塞正門ポルタ・プラエトーリアも見える好立地が自慢である。このような物件に住めるのはウィビア自身も彼女の亡夫も軍人一族であり、筆頭百人隊長プリムス・ピルスを務めたこともある舅の口利きがあったからこそだ。

 三日前に三十八歳になったこのホブゴブリンの未亡人は、窓から表通りを見下ろすのが好きだった。表通りでは親族の多くが所属するアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの軍団兵が毎日行進しているのだ。その中に息子の姿を見つけ、窓から手を振るのが彼女の最大の楽しみだった。小さいころから誰よりも優しく、真面目な頑張り屋さん。それがやっと成人し、軍人を志し、祖父、父、そして兄と同じ軍団へ入隊した。真新しい軍装に身を包み、誇らしげに胸を張る姿はとっても輝いて見えた。亡夫の忘れ形見、家族の中でたった一人生き残った最愛の息子……ネロ……。


 だがトラヤニア・レグリアはもう窓を開かなくなった。先月から窓からどれだけ探してもネロの姿を見ることが出来なくなってしまったからだ。アルビオンニウムへ行った遠征隊は帰還したはずなのに、ネロの姿はいつまで経っても戻らない。ネロだけじゃなく、ネロが所属していた百人隊ケントゥリアも表で見ることが無くなってしまった。

 レグリアは悪い脚を引きずって表へ出ては、通りがかる軍団兵に声をかけるようになった。第一大隊コホルス・プリマは、帰還したはずのアルビオンニウム遠征隊はどうしてるの!? ……しかし返って来る答えはかんばしいものではなかった。いわく、わからない……曰く、外出禁止令が出てるみたいだ……曰く、陣営本部プラエトーリウムの警備に専従している……

 そのうち悪い噂が耳に入り始める。


 アルビオンニウムで軍命に背き、奴隷セルウスに堕とされた十人隊コントゥベルニウムがいるらしい……


 色々な人から話を聞いていくうちに、次第にそれがネロの十人隊らしいことが分かってきた。


 嘘よ……真面目なあの子が軍命に背くなんて!

 きっと何かの間違いだわ!


 特殊な作戦に就いている……ネロからの手紙にはそう書いてあった。だが実際には奴隷にされていたのだ。


 奴隷セルウスにされたなら、買い戻して解放してあげなきゃ!

 ネロ、待ってなさい!!

 母さんが必ず、アナタを自由にしてあげますからね!!


 しかしテルティア・レグリアに残された財産は多くは無かった。入隊するネロを十人隊長にするために方々へ使ったで、残されていた財産の多くを使ってしまっていたからだ。テルティア・レグリアは金策に走ったが、集められた金はわずかなものだった。親戚たちからはネロが入隊する時に借りてしまっていたから、これ以上は借りられない。金貸したちも女性には金を貸してくれない。男性の保証人が付かなければ貸してはくれないのだが、テルティア・レグリアの保証人になってくれる男性の知り合いは見つからなかった。


 残されたのは、御先祖様が遺してくれた農園だけ……


 アヴァロニウス・レグルス家には小さな農園があった。軍団兵は満期除隊するとまとまった退職金か土地を貰うことができる。レグルス家は代々軍人の家系で、先代以前の当主が満期除隊した際に拝領した農地が今も残されていたのだ。そしてその農園は随分前から人に貸しており、そこから納められる地代だけがテルティア・レグリアの今の収入になっていた。


 御先祖様が遺してくれた農園だけど、もう手放すしかない……

 でもいいの、そうでなければネロあの子を助けられないのだから……

 そうしさえすれば、ネロあの子は助かるんだから……


 テルティア・レグリアは決意を固めた。土地を失えば収入源も無くなる。しかし、ネロを奴隷に落としたまま生きながらえて何になろうか? たとえその後の生活がどうなろうと、自分がどうなろうと、ネロさえ自由にできればそれでいい!


 親戚の反対を押し切って決めた農園の売却だったが、まだ買い手は見つからない。弟のウェルス・アヴァロニウス・ウィビウスが手を回し、買い手を探すフリをしながら時間を稼いでいるからだった。時間が来れば、リュウイチの降臨が公表されれば、テルティア・レグリアも急いで農園を手放す理由が無くなることを知っていたからだった。

 しかしそうした事情はテルティア・レグリアには伝わっていない。彼女は窓から愛息子の姿が見えなくなった部屋に閉じこもり、ただひたすらに待ち続けていた。固く木戸を閉ざされた窓からわずかな光が差し込むばかりの部屋は、陽が昇ってもなお夜のように暗い。

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