子爵父子の動揺

第1363話 緊急の報告

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



「閣下!!」


 要塞司令部の二階、大会議室に隣接する控室から出たところで、アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はリュウイチの奴隷セルウスネロに出くわした。急いで来たのだろう、ネロの顔は上気し、息は荒かった。


「ネロか、こんなところへどうした!?」


 司令部プリンキピア内は走ってはならない。ネロは小走りに近い速度でツカツカと立ち止まったアルトリウスの真ん前まで来るとピタリと止まり、何やら情けない表情のままビシっと気を付けの姿勢をとると一瞬右肩を揺すってからサッとお辞儀した。癖で敬礼しようとしたのだが、自分が既に軍人ではないことを思い出してお辞儀に切り替えたのだろう。


「閣下、旦那様ドミヌスのことで、緊急で御報告すべきことがあります内密に!」


 ネロが一気に言うとアルトリウスの顔が強張った。


「下がっていろ」


 アルトリウスは一緒に控室から出てきて今もまだ隣にいたルキウスの近習に短くそう伝えると、周囲を見回した。周囲の他の控室はこの後の報告会に出席する貴族たちによって全て塞がれている。となるとネロと二人きりになるためには最寄りでは司令部内にあるアルトリウス自身の執務室タブリヌムにでも行くしかないが……そこまで考えたところでアルトリウスはネロを再び見た。


「ネロ、報告の内容は養父上ちちうえ……子爵閣下ウィケコメスにも報告すべきものか?」


 今、二人はルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵の控室の前に居る。アルトリウスは養父アルトリウスを控室まで付き添って来たところだったのだ。もしもルキウスにも報告しなければならないなら、ここからアルトリウスの執務室へ行って話を聞いてから再びここへ戻るより、最初からルキウスの前で報告を聞いた方が良いかもしれない。


「ハッ、旦那様ドミヌス子爵閣下ウィケコメスにもいち早くお伝えするようにとおおせでした」


 ネロの答えにアルトリウスは顔をしかめる。


「リュウイチ様が?

 それは伝言か何か……」


 陣営本部プラエトーリウムで何か事故や事件があったというようなことならネロがここに来る前に衛兵の誰かが先に報告に来ている筈だ。しかしそのようなものはない。ということは陣営本部で何かがあったわけではない。報告があるということはネロが何か見聞きしたかのだろうと思ったが、「お伝えするように」ということはネロ自身が報告すべき異変を見聞きしたというわけではないらしい。報告者はネロ自身ではなく、ネロを通じてリュウイチが報告しようとしているということになる。

 陣営本部で何かが起きたわけでもないのにリュウイチが何かを報告しようとしている……アルトリウスには心当たりがあった。


「まさか『勇者団』ブレーブスに関することか!?」


 アルトリウスの声にネロは思わず目を見開いて驚き、即座に首を振る。


「違います!

 旦那様ドミヌス奥方様ドミナ……リュキスカ様ドミナ・リュキスカのことであります!」


 慌てたネロが無意識に語気を強めると、アルトリウスは気圧けおされたようにわずかにり、即座に周囲を見やった。廊下にいる何人かがこちらを見ている。司令部の二階は立ち入りが制限されており、特に今日の大会議室周辺にはリュウイチの存在を知っている者しかいないはずだったが、しかし石造りの建物で天井がドーム状であることも手伝って、ネロの声は階段ぐらいまでは響きそうだった。アルトリウスはバッとネロの肩を掴み、反対側の手でルキウスの控室のドアへ伸ばす。


「こっちへ来い!」


 ネロの返事も待たず、アルトリウスはルキウスの控室へネロを引きずり込んだ。


「!!

 なんだアルトリウス、今出て行ったと思ったら?」


 驚いたのは室内にいたルキウスだ。これから事務官カッリグラプスを呼んで報告会の進行と報告内容について資料を見ながら最終確認をするつもりでいたのにノックも無く扉が開かれ、今出て行ったばかりのアルトリウスが戻ってきたのだ。


「失礼します養父上ちちうえ

 驚かせて申し訳ありません。

 ネロが大至急、報告したいことがあると申しまして……」


 そう言いながらアルトリウスは引っ張り込んだネロを部屋の中央に向けて突き出し、自身は後ろ手に扉を閉める。ネロは突き飛ばされたような勢いでよろけながら部屋の中ほどまで出ると、ルキウスに向かってびしっと姿勢を正した。


「失礼いたします子爵閣下ドミヌス・ウィケコメス!!」


 ルキウスはどこか微睡まどろんだような驚いたような、何とも状況を掴みかねたような表情でアルトリウスとネロを交互に見比べる。


「お前はたしか、リュウイチ様の奴隷セルウス?」


「ハッ!」


 ネロがルキウスの問いに勢いよく答えると、扉を閉め終えたアルトリウスがルキウスの方へ近づきながら補足した。


「ソイツはネロです養父上ちちうえ

 リュウイチ様の奴隷セルウスの一人で、リュウイチ様とリュキスカ様に関して報告すべきことがあると申しております」


 アルトリウスはルキウスの左側、ルキウスとアルトリウスとネロで正三角形を作るような位置で立ち止まり、ルキウスはアルトリウスを見上げる。


「内容は、既に聞いておるのか?」


 ネロを始めとする軽装歩兵ウェリテス八名がリュウイチの奴隷セルウスになったことはもちろんルキウスも知っていたし、リュウイチと会う際にその姿を見ている。ネロは八人のうちでルキウスが最も見る機会の多かった一人だ。

 奴隷たちはリュウイチに仕えているリュウイチの奴隷だが、同時にアルトリウスの被保護民クリエンテスでもあり、リュウイチの身辺について何かあればアルトリウスかクィントゥスに報告することになっていた。ネロがアルトリウスの所へ来たとすればそれが理由に違いない。が、それならばまずアルトリウスが報告を受け、その後アルトリウスが必要に応じてルキウスに報告しに来るのが筋である。アルトリウスとネロは主従関係クリエンテラを結んでいるかもしれないが、ルキウスとネロは何の関係も結んでいないのだ。

 しかしアルトリウスはルキウスと共に陣営本部で朝食を摂り、一緒にこの司令部に来ている。そしてこの控室までルキウスを送った後、アルトリウスは控室からつい先ほど出て行ったばかりだ。ネロからの報告を受けてからこの部屋へ戻って来たにしては早すぎる。

 アルトリウスはルキウスが怪しんだ通り、ネロの報告の内容を確認していなかった。踏むべき手順をすっ飛ばした……それはアルトリウス自身も充分自覚しているため、後ろめたさを噛み殺すようにルキウスの疑問に答える。


「いえ、未だです。

 リュウイチ様御自身が大至急報告するよう指示されたそうですので、養父上ちちうえと一緒に訊いてしまった方が早かろうと思いまして」


 ルキウスは手に持っていた杖を額に当てて目を閉じ、口をへの字にして呆れたように溜息を吐いた。


 臨機応変りんきおうへんというのは確かに大事だ。何か想定外の出来事が起きた時、柔軟に物事を判断できねば適切に対応できない。しかし、組織としての原理原則を無視し、踏むべき手順をすっ飛ばすような横紙破りはそう簡単に看過かんかして良いものではない。規律を曲げねばならぬほどの重大事態など、そもそも簡単に起こるようなものではないし、軽々しく規律を曲げるのは柔軟性ではなく単なる無法、無秩序でしかないからだ。ましてアルトリウスは一軍を率いる軍団長レガトゥス・レギオニスであり、将来はアルトリウシア子爵領の領主ドミヌス・テリットリィとなるべき貴公子なのだ。責任ある立場に与えられた権力とは、規律を破るためではなく、規律を守らせるために行使されるべきものなのである……そのことをアルトリウスはどうも軽んじているのではないだろうか?


養父上ちちうえ……」


 やはり軽率だったか……叱られる予感にアルトリウスが表情を曇らせながら呼びかけると、ルキウスは目を開け額に当てていた杖を降ろした。


「いや、良い。

 来てしまったものは仕方あるまい。

 報告したまえ」


 ルキウスはアルトリウスの方を見もせず、ネロに直接発言を許可した。

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