第1362話 先送りにされていたもの

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュウイチは困り顔で頭を掻いた。

 そう、リュウイチは自分では判断がつかないから自分で判断することから逃げたのだ。逃げた先がリュキスカだった。しかしリュウイチもリュキスカがリュウイチの意に沿うように決めるだろうことは気づいていたはずだ。何なら、それを期待していたまであるだろう。


 エルネスティーネやルキウスに断りもなくいきなり奴隷の献上を申し出てきたマルクスの行動は明らかに慣習に反している。いわば反則行為だ。それのみならず、リュウイチに受け取らせるにあたってマルクスはアルビオンニア貴族らを面罵めんばし、彼らの顔に泥を塗るような真似までした。その経緯をまったく知らない状態でならともかく、目の当たりにしながらリュウイチが女奴隷を受け取れば、エルネスティーネらアルビオンニア貴族たちの面子をリュウイチが潰すことになってしまいかねない。つまり、この話は最初から断るべき話なのだ。

 が、リュウイチはグルギアの素性を聞いてしまった。罪もなく不幸のどん底に落とされたグルギアを助けるためには、女奴隷グルギアを受け取ってやる他ない。断ればグルギアはサウマンディアに連れ戻され、その後どこかへ売り飛ばされてしまい、家族を探しだして家を再興するなど絶望的になってしまうに違いない。

 かといって受け取りもせず断りもせずアルトリウシアに長く留め置かれれば、あるいは買い取ってすぐに奴隷の身分から解放してやれば、グルギアのせいで面子を潰されたと考えるアルビオンニア貴族の誰かの手によって始末されてしまう危険性もでてくる。その時点でリュウイチにはグルギアを引き取る他選択肢は無かったのだ。


 ではどうするか? 


 アルビオンニア貴族らの面子を潰さないよう、それでいてグルギアを受け取れるようにするにはどうするか……リュウイチには何のアイディアも思い浮かばなかった。それでリュキスカに丸投げしてしまったのだ。マルクスはリュキスカに献上するためにグルギアを連れて来たんだから、受け取る受け取らないの判断はリュキスカがするべきだ。あの場に居なかったリュキスカが受け取ると言えばアルビオンニア貴族らはそう強く文句も言えまい。少なくとも貴族たちがリュウイチに面子を潰されたという事態にはならないはずだ……卑怯と言えば卑怯、無責任と言えばこれ以上ないくらい無責任な行動である。


 対するリュキスカは? これが面倒な話であることには流石に気づいていた。ロムルスが言ったようにネロが反対していたというのならリュキスカとしても断りたい。しかし、リュウイチに恩がある身としては、リュウイチの意に沿わねばとも思う。これが浮気でルクレティアでもリュキスカでもない他の情婦を調達しようという目的があるなら受け入れられないが、そうではないようだ。それでリュウイチに恩を返せるなら、多少のリスクは看過もしよう。

 しかしリスクを負う以上は得るものも得なければならない。恩を返せるなら「これで恩を返しますよ」と、ポイントを稼げるなら「これで一つ貸しですよ」と、ハッキリさせておかねば、リスクだけを負っても得るものが何も無かったなんてことになりかねないではないか。これでリュキスカが貴族だったらリュウイチのために多少のリスクを請け負うだけでも構わないが、残念ながらリュキスカはただの平民プレブスにすぎない。一応、リュウイチの手が付いて魔力も得て聖貴族になってはいるが、まだ財産もなければ他の貴族とのコネもなく影響力は平民と変わらないままなのだ。ここでリュウイチの意を確認するのが野暮なのは百も承知だが、それでも「これはリュウイチ様のためなのですからね」と明確化するのは当たり前のことだし、どうせなら少しでもリュウイチの意に沿うように細かな調整をするためにも情報を整理したがるのは当然のことだった。


「ハッキリしないねぇ」


 リュウイチの態度にリュキスカは逆に困り果てた。リュウイチの意に沿うように判断したいのに、リュウイチがどう考えているか教えてくれなければリュウイチの意に沿えないではないか……


「……もう一度確認するけど、そのグルギアって女奴隷セルウァってわけじゃないんだね?」


『それはもちろん!』


 怪訝そうに尋ねるリュキスカにリュウイチは大きく首肯した。


「アタイが受け取ったら女奴隷セルウァはアタイのなんだから、兄さんの好きには出来ないよ?」


 リュキスカがどうやら未だに浮気を疑ってるらしいことに驚いたリュウイチは一度目を大きく見開き、それから再び頷いた。


『もちろん、分かってる!

 当然だ』


 ムキになったように答えるリュウイチをリュキスカはジトーッとした目で見ていたが、浮気の線は無いと改めて確認できたのかハァーッと盛大に溜息をついた。


「じゃあ兄さん何だい、もしかしてホントにその女奴隷セルウァが家族を探すの助けるために受け取れってのかい?」


 だとすればリュキスカからすれば馬鹿げた話だ。奴隷の身元が元は高貴な身分で云々なんて話はまず信じるに値しないし、仮に本当だったとしてもわざわざ助けてやらねばならない義理は無い。濡れ衣を着せられたからとはいえ上級貴族パトリキが没落したとすればそれはその貴族の落ち度でしかないのだ。自分トコの領主でそれまで善政を布いていたというのならともかく、他所の土地の貴族でしかも神官となれば、平民プレブスには全くあずかり知らぬことである。

 リュキスカの態度から自分がどうやら相当常識はずれなことを言ってるらしいと気づき始めたリュウイチが黙っていると、リュキスカは再びハァーッと盛大な溜息をついた。


「まぁ兄さんがそれでいいってんなら別にいいけどねぇ」


 その一言にリュウイチが顔を上げる。リュウイチの目に映るリュキスカの顔は心底呆れ果てた様子で、リュウイチの方は向いていなかった。


「ホントにその女奴隷セルウァ、信用できんのかねぇ?

 アタイも変なの身近に置きたくないんだけどさぁ?」


 そっぽを向いたままのリュキスカにリュウイチは先ほどの説明を繰り返す。


『その点は多分、身元はルキウスさんたちも確認するし、大丈夫だと思うよ』


 するとリュキスカの顔がリュウイチの方を向いた。


「アタイが言ってんのはそう言うことじゃないのよ」


 リュキスカはそう言うと組んでいた足を降ろし、上体を背もたれから起こし、リュウイチの方へ顔を突き出す。


「その女奴隷セルウァ女諜報員エーミッサーリアだって話よ」


『それはさっきも言ったようにリュキスカが言えばリュキスカの言うことの方を優先すると思うけど……』


「その女奴隷セルウァの家族が実はもう見つかっていて、伯爵コメスに人質にとられてたらどうすんのよ!

 アタイの言うことより家族の心配して、伯爵コメスの言うこと優先すんじゃないの?」


『あ……』


 その可能性をリュウイチは全く考えていなかった。

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