第1361話 リュキスカにとってのこの問題

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 フゥーーーーッ……


 リュキスカは脚と腕は組んだままであったが、ひとまず安心したとでも言うように鼻から長く息を吐き、体重を背もたれに預けた。


 男の性欲のタイプは大きく二つに分けられる。一つは一度抱いた女には興味を失くしてしまうタイプ、もう一つはそれまで興味がなかった女でも身体を重ねるごとに情がわいてくるタイプだ。もちろんきっぱりこの二つに分けられるというわけではなく、ほとんどの男はこの二タイプの中間に位置している。

 娼婦という立場からするとどちらのタイプであっても極端なのは困る。一度抱いた女に興味を失くすタイプは固定客になってくれず、その後の稼ぎに繋がらないからだ。どちらかといえば後者の後から情が湧いて来るタイプの方が固定客となってくれるので後々まで安定的な稼ぎに繋がる。

 しかし、後者のタイプも極端になると娼婦に入れ込んでしまい、身を持ち崩してしまうこともある。長く安定的に稼がせてもらいたいのに、勝手に暴走して金や物を貢ぎだし、無理して貢いだ挙句に身を持ち崩されたらその客からの稼ぎはそれで終わってしまう。その後の男の人生に娼婦は責任など持てはしないのだから、そこまで入れ込まれても困るのだ。

 そういう過度に入れ込んでくる客の中でも酷いのになると娼婦を自分の恋人や女房と勘違いし、独占欲を発揮して貞操を求めてくるような者もいる。その結果、暴力を振るってきたり、商売の邪魔をしたりするようなこともあるので過度に入れ込んでくる客は大変危険だ。男は想いを募らせているのだろうが、娼婦の側にそれに答える義務はない。そもそも、娼婦に入れあげるような男など、たとえ娼婦自身の立場からしても女としては御免被りたいというのが本当の所なのだ。通いこんだり貢いだりすれば娼婦が好きになってくれると思っている男は、それは間違いなく勘違いだから目を覚ました方がいい。愛想と愛情は全く別物……特に娼婦にとってはそうだ。

 しかし残念なことにそういう娼婦に入れ込み過ぎる男と言うのは、どの時代、どの国でも珍しくないというのが実情だ。だから娼館には必ず用心棒が居るし、娼婦たちも身の安全を確保するために色々工夫しなければならない。客をひっかけるために恋人のような言動を装うことはあるが、かといって過度に入れ込み過ぎないように調整するのが娼婦にとっては大事な技術となる。もっとも、最初から金を巻き上げて荒稼ぎすることを目的にとにかく男に入れ込ませようとする質の悪い娼婦も居るが、リュキスカはそういうタイプではない。


 リュキスカの見るところではリュウイチは後者の傾向が強いタイプだ。後から情がわいてくるタイプだが、傾向がそうというだけで身を持ち崩すほど過度に入れ込んでくるタイプでもない。結婚して家庭でも持たない限り長くご愛顧給われそうな理想的な客だ。

 リュキスカが女奴隷セルウァについて色々確かめている時に「いてんの?」と訊いて来るリュウイチは、別にリュキスカのことを本気で恋人と見做みなしていたわけではないだろうし、リュキスカが本気でリュウイチに好意を抱いていると思っていたわけでもないだろう。おそらく冗談半分だったはずだ。リュウイチとリュキスカの関係だけを見るならば、リュキスカもあんなに激しく怒って見せる必要など無かったのだ。しかしリュキスカはリュウイチとリュキスカの二人の関係だけを考えていればいいわけではない。リュキスカがリュウイチと接する時、常に忘れてはならないのはルクレティアの存在なのだ。


 ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチア……リュウイチの聖女サクラになるはずの貴婦人パトリキアである。降臨者スパルタカスの末裔とされるスパルタカシウス氏族宗家の一人娘、上級貴族パトリキの中の上級貴族だ。

 今年十六になるルクレティアは本人も周囲もリュウイチに嫁ぐ気満々だった。しかしレーマ帝国では十六で成人であるにもかかわらず、《レアル》では十八が成人だからとリュウイチがルクレティアを受け入れず、あろうことか誰にも見つからないようにこっそり街に娼婦を買いに出てしまった。その結果買われたのがリュキスカだったわけだが、おかげでリュキスカはかなり奇妙な立場に立たされている。

 リュウイチの手が付いた以上はリュキスカは聖女であり、リュウイチに抱かれたことで魔力まで得てしまった現在では押しも押されぬ聖貴婦人コンセクラータだ。社会の最下層の女が一足飛びどころではない大跳躍だいちょうやくでルクレティアを上回る立場へと駆け上ったことになる。

 だがそれをルクレティアやその周辺が簡単に受け入れられるわけがない。まして相手が社会の最下層、貧民パウペルの娼婦なのだから、上級貴族たちの、特にスパルタカシウス家の人々のプライドはズタズタになってしまったはずだ。第一聖女プリムス・サクラという立場を加味したとしても、リュキスカはいつ暗殺されてもおかしくは無い。

 貴族には力がある。そして力がある者は、そんなつもりは無くても無防備で無力な者に対して致命的な一撃を放ってしまいかねない。そしてスパルタカシウス家は帝国でも有数の実力者なのだ。スパルタカシウス家が動けば本人たちはただ脅すだけのつもりだったとしても、その手先となった者たちが功名心から暴走して致命傷を与えかねない。スパルタカシウス家とリュキスカの間にはそれだけ絶対的な力の差がある。


 だからこそリュキスカはルクレティアに最大限の配慮をせねばならない。自分をあくまでもルクレティアが輿入れするまでの代役と位置づけ、ルクレティアがリュウイチに確実に嫁げるように協力する。そう約束し、かつ実際にそれを果たすことこそがリュキスカにとって唯一の生きるみちなのだ。

 そんなリュキスカにとってリュウイチに他の女が迫るなど看過できなかったし、同時にリュウイチとの関係が過度に深まり、ルクレティアの嫉妬を買うことなどもあってはならない。


「それで、兄さんはどうしてほしいんだい?」


『えっ!?』


「何だい、まさか本気でその女奴隷セルウァをどうするかアタイに決めさせるつもりだったのかい!?」


「……ぷふっ」


 リュウイチの反応にリュキスカが呆れた声を上げると、何故か出入り口のところで直立不動の姿勢を保っていたロムルスが噴き出す。思わずリュウイチとリュキスカがロムルスの方を見ると、ロムルスは不味いと思ったのか身体を揺すりながら「申し訳ございません!」と言い、姿勢を正した。リュキスカとリュウイチは再び向き合う。


「ネロの奴がダメだっつったんだろぅ?

 アタイだって身の回りの事、よそ様にベラベラしゃべる奴なんざ身近に起きたかないよ。

 なのに兄さん、大丈夫だとか信用できるとかやけに売り込むじゃないさ。

 兄さん、アタイにその女奴隷セルウァを受け取らせたいんじゃないのかい!?」


 ネロが言ったことは大袈裟おおげさだが、しかし間違っているわけではない。ネロがああも大袈裟に騒ぎ立てるのは、ネロ自身の真面目さがあったからこそだ。リュキスカもネロのことは嫌いだが、ネロがクソ真面目な青年であることは理解している。ただ、クソ真面目が過ぎるせいで融通が利かないだけなのだ。そのネロがリスクを訴えているのなら、それはリュウイチか、あるいはアルトリウスのためを思っての事だろう。貴族たちとの関係を複雑化させたくないリュキスカとしては、無視して良い警告ではない。

 しかしリュウイチが望むのであれば話は別である。リュキスカはフェリキシムスと自身の命を救ってもらった恩があり、それを返したいと思っているのは事実なのだ。そのリュウイチがしきりに女奴隷をアピールし、リュキスカに受け取らせようとしているように見える。女奴隷を受け取るのはリスクがあるが、だがリュウイチの性格からして、それを受けることでリュキスカとフェリキシムスが破滅するようなことを求めはしないだろう。リュキスカとフェリキシムスに看過できないリスクがあるなら、リュウイチだってリュキスカの下へこの話を持って来る前に断ってしまっていたはずだ。


 つまり、あとは……


『え、いいの!?』


「言ったろ?

 それが兄さんの望みなら、兄さんが助かるならアタイはそうするよ。

 そりゃアタイも出来ることと出来ないことはあるけどね。

 兄さんがアタイに女奴隷セルウァ受け取らせたいんなら少しくらい面倒でも受け取るし、逆に断ってほしいならそれがアタイの欲しいモンでも断るさ」


『いや、私のためってのは……』

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