第1360話 思い上がり

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 ええホントに、あの時のリュウイチ様の顔ったら今でもハッキリ憶えていますとも。ホントに生意気と言うか間抜けと言うか、まぁリュウイチ様と言えどもあの頃はまだ御若かったのよ。私も今でこそこうして笑っていられるけど、あの時はホントに腹立たしかったわ。だって仕方ないわよ、あの時は私もまだたった十八の小娘だったんですもの……大聖乳母グランディス・サンクタ・マトリキーブスリュキスカが当時を振り返り、穏やかに笑いながら懐かしそうに述懐するのは今よりはるか未来のことである。


 ギンッ!! ……リュキスカの視線がリュウイチに向けられた瞬間、そんな擬音が聞こえた気がした。リュウイチの心臓が一瞬凍り付く。


ハックィッド?」


 その声は部屋の外を流れる冬の風よりも冷たかった。リュキスカは組んでいた足をほどき、両足を床に付けてリュウイチに身体ごと真正面から向き合う。


「そんなわけないでしょ?

 兄さん、アンタ思いあがってんじゃないよ!?」


『いや、だって今現に浮気を疑って……』


 リュウイチの抗議の言葉はリュキスカが拳をテーブルに叩きつけたドンッという音に遮られた。


「そりゃ浮気は疑ったわよ!

 で、兄さんアタイが何でここに居るか忘れたのかい?」


『え……それはその……』


 答えられないリュウイチにリュキスカは心底呆れたような表情でハァーッと溜息をついて見せた。その溜息の前にリュウイチの口から出ようとしていた頼りない言葉の数々は跡形もなくどこかへ消え去ってしまう。


「アタイは、娼婦メレトリクスなの!

 ルクレティア様が兄さんに輿入こしいれするまでの間、兄さんのをすんのがアタイの仕事!

つまりっ!」


 リュキスカは腰をあげ、テーブルに手を突いてリュウイチの方へ身を乗り出すとリュウイチの鼻先に向かって人差し指を突き付けた。


「兄さん、アンタがルクレティア様以外の女に浮気しないようにすんのがアタイの役目なんだよッ!!」


 リュウイチが言葉を失い、突き付けられた指先とリュキスカの刺す様な目を交互に見比べた後、『う、うん』という消え入るような声と共にコクリと頷くと、リュキスカはフンッと小さく鼻を鳴らし、元の寝椅子クビレにゆっくりと戻り腰を落ち着ける。直後にリュキスカは嫌そうに顔をしかめ、苛立いらだちも露わに口をへの字に曲げて脚を組んだ。


娼婦メレトリクスが客に本気で惚れるわけないだろ、しっかりおしよ」


 ボソッとつぶやくリュキスカの低い声にリュウイチはシュンとなった。てっきりヤキモチを焼かれているのかと思ったのがとんだ勘違いだったわけだ。言われてみればその通りで、そもそもリュキスカはリュウイチにさらわれて連れて来られ、しかも領主や軍の都合で否応もなくここに軟禁されているのである。リュウイチには服とか身の回りの雑品やら色々貰っているが、代金を受け取ったのは攫われて来た日の一夜分だけだ。それ以降はエルネスティーネとルキウスから報酬を受け取っているのだから厳密に言えばリュウイチは客ですら無いのである。リュウイチは自分の思い上がりを自覚し、沈痛そうに眉間を揉んだ。


『ああ、その……済まなかった。

 勘違いしてた』


「ふん……まあ確かに、兄さんにはフェリキシムスとアタイの病気を治してもらったし、命の恩人さ。

 色々良くしてもらってるしさ、アタイも感謝はしてんだよ。

 兄さんが喜ぶならさ、兄さんが困ってるのが助かるんならさ、アタイもなんだってやるつもりさ。

 アタイだって恩知らずじゃないんだ。

 でもさ、それとこれとは話が別だろ!?」


『……おっしゃる通りです』


 古くからある御伽噺おとぎばなしから昨今のラノベ・漫画・アニメまで、主人公が誰かを助けたことでその人物から惚れられたり全幅の信頼を得たりといった展開は珍しくない。助けた美女と結ばれてハッピーエンドを迎える物語、逆に王子様に助けられて結ばれるヒロインの物語は最早定石といっていいかもしれない。だが、それらは全てただの幻想フィクションだ。

 現実に誰かに助けてもらった時に好意を抱くということはもちろん無いわけではない。特に生命の危険を感じるような状況、希望が見えない絶望的状況から救い出されて救いの主に好意を抱かない者など居ないだろう。遭難した者が一緒に遭難した者と、あるいは救助してくれた者と結ばれる話は現実にもある。これは互いに協力し合わねばならない相手を運命共同体と見做すことで困難を克服しやすくしようとする、社会的動物の本能のようなものだ。

 しかし、俗に吊り橋効果とかストックホルム症候群などと呼ばれるこうした心理的効果は決して永続的なものではない。困難を克服するために働く心理的効果は所詮一時的なものにすぎず、困難な状況が解消されてしまえば心理効果も解消されてしまうのが常である。一緒に遭難して互いに協力し合ってやっと救助されて結婚した二人は、現実にはその多くが日常に戻って数年と経ずに離婚するものなのだ。 

 離婚そのものが認められない近世以前のキリスト教社会や、結婚状態を維持しなければ一方が生きていけなくなるような未発達な社会ならともかく、特殊な状況下で生じた好意がその後も永続することなどまずありはしない。


 このヴァーチャリア世界のレーマ帝国も身分社会で男尊女卑社会ではあるが、女性が一人で生きることが絶対に不可能なわけではなかった。ましてリュキスカは娼婦であり、十一歳の時に母が病没してからは周囲の援けがあったとはいえ女一人で生きてきたのだ。

 ラテン語のメレトリクス【MERETRIX】は「娼婦」を指す単語だが、元々は「生計を立てるMEREO」+「~人」TRIXという成り立ちを持つ単語であり、「(男に頼らず)自立した女性」を意味してもいた。男尊女卑だんそんじょひ社会で男性に依存することなく自立した女性というのはそれだけでではあったし、貴族でもない女性が一人で生計を立てようと思ったら娼婦になるぐらいしかないという社会的背景もあって「メレトリクス=娼婦」になってしまったものだろう。もっとも、メレトリクスは本来なら複数の富裕層のパトロンを持っているような地位の高い高級娼婦に対して使われる言葉であり、リュウイチ専属になる前の食うや食わずだったリュキスカみたいな娼婦にはもっと別の単語が使われるのだが……ともあれ、一応自立した娼婦であり、まして玉の輿に乗って下級貴族ノビレスの仲間入りを果たしながら破滅した娼婦仲間の最期を見たせいで貴族社会そのものへ忌避感を抱くようになったリュキスカが、いくら命を助けてもらえたとはいえリュウイチに惚れるわけはない。仮に惚れそうになったとしても理性が全力で否定するだろう。金が欲しいのは確かだが貴族社会に飲み込まれることだけは避けたい……それがリュキスカの本心だったからだ。


「ふん、まあ分かってくれりゃいいさ。

 で、その……グルギアだっけ?

 兄さん、別のその女奴隷セルウァってわけじゃないんだね?」


『はい……それはもう、もちろんです』

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