第1357話 女奴隷の出自

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュウイチはリュキスカとの間にズレを感じ始めていたが、その理由に思い当っていた。グルギアがリュキスカに忠実な女奴隷セルウァになるだろうとリュウイチが思うのは、百年ぶりの降臨者リュウイチの聖女サクラとなったリュキスカの奴隷という立場がグルギアの家族を探すうえで有利だと考えているからだ。だがリュキスカは女奴隷が主人に忠実な理由は報酬だと考えている。自分の自由を買い戻し、家族を解放するための金を稼ぎたいから女奴隷が主人に忠実に仕えるというのであれば、本来の主人であるリュキスカよりも元・主人で金持ちなプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵の方に忠実でありつづけるはずではないか……その理屈は理解できるが、リュキスカは肝心なところを見落としている。金がいくらあったところで家族を見つけられなければ買い戻せないということだ。

 リュキスカはもしかしたら女奴隷は自分の家族をすでに見つけていると考えているのかもしれないが、実際は家族の誰がどこへ売られていったのかすら分かっていない。だから女奴隷グルギアはまず自分の家族を探し出すことから始めねばならないのだ。そのためには金を稼いでいち早く女解放奴隷リーベルタになるよりも奴隷のままリュキスカに仕え続け、聖女リュキスカの身内として世間に認知された方が有利になる。リュキスカに取り入ろうとする者たちがリュキスカの忠実なしもべの家族に関する情報を勝手に持ち寄って来ることも期待できるからだ。買い取る金の問題は見つけてから考えればいい。何ならリュウイチが肩代わりしてもかまわない。金の問題など、金を持っている者にとっては障害にはなりえないのだ。そして今、リュウイチのストレージには数えきれないほどの金がある。そのほんの僅か一部を二人の領主に貸しただけで、帝国南部にインフレを起こしてしまったほどの金がだ。奴隷数人分の代金など、苦になるはずがない。


『いや、お金の問題じゃないだ。

 単にお金の問題だって言うなら……』


「兄さんさぁ、多分騙されてるよ」


 リュウイチはリュキスカの誤解を解こうとしたが、言い切る前にリュキスカによって遮られてしまった。


『騙されてる?』


「実は高貴な生まれだったとかいうのはよく聞く話さ。

 そんなの真に受けてたら、世の中貴族様だらけになっちまうよ」


 リュキスカの声に、表情に浮かんでいたのはまさに冷笑だった。インチキ商人に騙されそうになっているリュウイチを憐れんでいるのだ。


 人間の価値というのは、結局どういう影響をもたらしてくれるかによって決まる。その人が得難い知識や経験、技能を持ち、それを役立ててくれるなら生活や職場の環境は大きく改善されるだろう。技術、経験、学歴、技能、資格、そう言ったものが就職する際に重視されるのは、それだけの影響を、働きを期待されているからだ。それは奴隷も同じで、ブドウの世話が出来る奴隷をブドウ園で働かせれば、より高品質のブドウを栽培できるだろう。収穫量だって増やせるかもしれない。学がある奴隷を子供の家庭教師にすれば、子供に高い学識を持たせることができるだろう。計算が得意な奴隷に経理をやらせれば、売掛金の回収を滞りなくやってくれたり、無駄な出費を抑えてくれたりするかもしれない。馬の世話のできる奴隷ならば、ジャジャ馬を調教して思い通りに動く素直な働き者の馬にしてくれるかもしれない。体力のある奴隷ならば、力仕事をこなしてくれるだろうし、ボディーガードとしても役立ってくれるだろう。当然、そうした期待に応えてくれそうな奴隷には、そうではない奴隷よりもずっと高い値が付く。ブドウの世話に長けた奴隷なら、通常の奴隷の二倍もの価格が付くのだ。


 元は高貴な生まれだった……そうした触れ込みもまた同じである。レーマ帝国は貴族社会、身分社会だ。そして身分階級の格差は非常に大きく、貴族ノビリタス平民プレブスの間には生活水準には大きな隔たりがある。それでいて平民と下級貴族ノビレスの間では頻繁に人の入れ替わりが起こり、上級貴族も稀にだが転落することがある。典型的な身分社会ではあるが、同時に誰もが今よりも高い階層へ駆け昇るチャンスもある社会なのだ。そして人は誰もが今よりも良い生活を送りたいと思うものなのである。だが自分より上の階層に憧れはするものの、その階層の生活がどういうものかは誰も知っているようで知らない。

 そうした社会において「高貴な生まれ」という触れ込みは人々に大きな期待を持たせてくれる。高貴な生まれ、自分がいつかたどり着きたいと思っている世界から来た住民を傍に置けば、自分の身の回りの生活環境を上の階層の水準に引き上げてくれるのではないか……そういう期待を持たれるのだ。


 もちろん実際はそんなことはない。上流階級の人間は自分では何一つしない……そうした生活の雑事はすべて使用人がやってくれるからだ。中には財産の管理・運用や自分のスケジュール管理も全て使用人に任せ、自分はただ遊んでいるという貴族だって珍しくない。むしろ、働かないことこそ、上流階級セレブレティの証なのだから、「自分は〇〇が出来る」というのは自慢にすらならないのだ。むしろで終わる。

 そんな上流階級出身者が奴隷として、使用人として付いたとして、果たして役に立つだろうか? まず役に立たない。そこには〇〇が不足していて誰かがこうすべきだ……と頭で分かっていたとしても、普段から自分が率先して働く習慣を持たない人間にはそれが自分の役目だとは気づけないのだ。だから当然言われるまで動かない。典型的な「指示待ち人員」にしかなれないのだ。

 が、平民たちは上流階級がそういう役立たずの巣窟だとは誰も知らない。だから「実はコイツはどこそこの国の王族でね」なんて愚にもつかない売り文句が飽きることなく繰り返されるのである。


上級貴族パトリキなんてのは下級貴族ノビレスと違って簡単には没落なんてしやしないのさ。

 元・上流貴族プレ・パトリキとか元・王族プレ・レギウムなんて、実際の貴族ノビリタスの名前ださなきゃ好き勝手に自由に語れるからね。

 少しでも高く売りつけようなんてインチキ商人に奴隷セルウスなんか扱わせりゃ、そりゃいくらでも嘘を重ねるだろうよ」


 話を信じようとしないリュキスカにリュウイチは困り顔で首を振った。


『いや、そっちは問題ないんだ。

 だいたいその奴隷はサウマンディウス伯爵がタダでくれる奴隷で、私たちに売りつけようとしているわけじゃない。

 それにその奴隷の身元はルキウスさんたちも確認しているから、そこは疑ってもしょうがない』


子爵様ウィケコメスが!?

 侯爵夫人マルキオニッサは!?」


 驚き目を丸くするリュキスカの勢いにリュウイチは驚き、気圧される。


『いや、エルネスティーネさんも同じだよ。

 確認しているといっても、身元を証明する証拠をマルクスさんがルキウスさんたちに渡して、これから確認するって流れだけど、伯爵が用意したって言うんだからほぼ間違いないんじゃないかな?

 聞いたことあるかな、ヘルミニア……ラ、ラ……ロムルス、何だっけ?』


「ヘルミニア・ラリキアでさぁ、旦那様ドミヌス


 グルギアの姓名が名前が思い出せず、その場にも居たはずのロムルスに尋ねると、ロムルスは部屋の出入り口で鯱張しゃちほこばったまま端的に答えた。その名を聞いたリュキスカが驚く。


「ヘルミニウス・ラリキウス!

 ちょっとそれホントかい!?」


 リュキスカの声は驚きすぎてひっくり返っていた。 

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