第1356話 リュウイチが騙されてる?

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



『彼女は君の奴隷になる。

 だから君がどうしても気に入らなければ遠ざければいいだろう。

 彼女は君の下から絶対に離れたくないはずだ。

 だから彼女はそうならないよう、君の言うことは最大限聞き入れるんじゃないか?』


 何を言い出すかと思えば……リュキスカはリュウイチの考えにガッカリしたように鼻で笑った。


「そんなわけないでしょ!?

 アタイのそばに居られなくなったって、伯爵様コメスの所へ帰るだけじゃないさ!

 アタイがいくら言ったって、バレないようにやるだけさ」


 リュキスカは夜の店で生きて来た女だ。そこに集まる人間は酒を飲み、女を買い、博打を打ち、時に喧嘩する……そして心の中に溜まったおりを吐き出していくのだ。酒場には世間の奥底に流れる汚いものが集まって来るのである。そしてリュキスカはそういうものを見て、聞いて、そして実際に触れて来たのだ。そして人間は結局、どこまで行っても自分本位な存在だ。普段はどれだけ聖人君子面せいじんくんしづらしていようと、実際に内面まで清廉潔白せいれんけっぱくな人間などいない。最後の最後には本性を現して綺麗ごと全てをかなぐり捨てるものなのだ。くだん女奴隷セルウァだってどうせ同じである。

 奴隷セルウスは主人を裏切れない……貴族ノビリタスたちはそう信じているが、それは奴隷が裏切ればいつでも殺せるという自信があるからだ。生殺与奪権せいさつよだつけんを握られてそれでも歯向かってくるような奴なんていない……そう能天気に信じ込んで勝手に安心しているからだ。だが同じ人間である以上、心を完全に殺して気に入らない主人にも誠心誠意忠義を尽くせるわけはない。誰だって好きなものは好きだし、気に入らないものは気に入らないのだ。それを無視して力づくで押さえつけていれば、いつかは必ず反発が来る。

 酒場に来る人間は誰もが不満をかかえている。それを吐き出しに来る。あの野郎いつかきっと……そう思いながら今日と言う日を堪えている人間はごまんと居るのだ。毎日それを見て来たリュキスカには人が誰かに、ただそういう力関係だから、そういう立場だからという理由だけで忠節を尽くすはずがないと信じていた。サウマンディアから送られてくる女奴隷だってきっとリュキスカに無条件に忠誠を誓ったりはしない。そんなのが居たら逆に怖い。人間はそんなに便利で都合のいい存在ではなく、もっとずっとしたたかなはずなのだ。

 ならば、リュキスカがいくらサウマンディアに報告するな、サウマンディアと絶縁しろと命じたところで聞くはずはないだろう。その場限りの返事をしただけで、陰で続けるに違いないのだ。しかしリュウイチはリュキスカのそうした思い込みを否定した。


『いや、そうでもない』


「何でさ!?」


 リュキスカが食って掛かるように問い返すと、リュウイチは迷うようにはにかみながらポリポリと頭を掻き、思い切ったように続ける。


『彼女は元々上級貴族なんだそうだ』


「……へぇ」


 リュウイチが打ち明けるように言うと、リュキスカは冷笑するように口元を引きつらせた。元は高貴な生まれ……それは典型的な奴隷の売り文句であり、ほぼ百パーセント嘘である。そんことは奴隷を買ったこともないリュキスカでも知っていた。酒場には社会の裏話は流れてくるのだ。インチキ商売の裏側なんてその典型である。


 まさかそんな口車に乗ったのかい?


『だけど父親が冤罪えんざいで処刑され、彼女は他の家族と共に奴隷として売られてしまったんだそうだ』


「あぁ、よく聞く話だねぇ」


 それは貴族が没落する時の典型的なパターンだった。それで実際に没落する上級貴族なんてほとんどいないが、下級貴族ノビレスが没落する時には割とそういう話をよく聞く。一代で成り上がった新興貴族が転落する時の黄金パターンだ。成金なりきんが周囲からうとまれた挙句、罠に嵌められてそうなるのである。

 誰かを破滅させたい場合、手っ取り早くならず者を雇って襲わせて始末すればソイツは居なくなってくれるだろう。だがソイツの財産は遺族のもとに残ることになる。遺族が財産と共に残れば、遺族はその後も貴族として代を重ねていくことになるだろう。ただ嫌われただけの成金ならそれでもいいが、下手に疎まれ過ぎた場合はその程度では満足してもらえない。ただ没落させるだけではなく、財産も奪って生き残った遺族も二度と芽を出さないようにしてしまおうということになる。

 そこでならず者どもに襲わせるだけではなく、役人とも結託して罪をでっち上げ、財産を没収してしまおう(そしてその後没収した財産を山分けしよう)ということになる。リュキスカが子供の頃に見た元・娼婦の嫁ぎ先も、それと同じようなパターンで没落したのだ。

 だがこの手は上級貴族にはまず使えない。レーマ帝国の役人のうち下級役人は下級貴族の子弟や平民プレブスが勤めているで融通が利きやすいが、高級官僚となるとほぼ上級貴族か下級貴族の中でも有力な家の者が独占しており、多少の賄賂では都合よく動いてくれない。多少の賄賂で動いてくれる程度の役人では、上級貴族を相手にするには力不足なのだ。そして上級貴族は他の上級貴族に気軽にチョッカイ出してはくれない。上級貴族は上級貴族という存在がどれだけしぶとく、簡単には没落しないことを良く知っているからだ。よって、この手の工作のターゲットはどうしても下級貴族以下にならざるを得ず、上級貴族がたった一つの冤罪工作で家長が殺され家族が奴隷にされるほどの大ダメージを受けるなんて話はまずあり得ないのだ。

 リュウイチが話しているのはそういう話だ。リュキスカが呆れて鼻で笑いたくなるのも無理はない。


『それで彼女はいつか家族を見つけて再開し、一家を再興したいと思っているんだそうだ』


「ハッ!」


 リュキスカはそう短く、だが今度はハッキリと笑った。


猶更なおさらアタイに忠実になるわけないじゃないさ!

 アタイの下で真面目に働いたって大した稼ぎはやれないよ。

 それよりアタイを伯爵コメスに売った方がよっぽど金になるんじゃないさ!?」


 インチキ商売なんてものは話を聞けば必ずどこかで破綻するものだ。奴隷が元の家族と再会したいと思ってるなんて当たり前のことだ。だから金を稼いで自分の自由を買い戻し、元の家族を探したい……これもよく聞く話だ。この奴隷は忠実ですよ……そう印象付けるための作り話として実にありふれたものである。

 だが待ってほしい。その奴隷が自分の自由を買い戻すのにどれだけの大金を積まなければならないのか? 主人はそんな大金をその奴隷に支払ってやることができるのか? 主人が奴隷に払ってやる報酬でその大金を貯めるのにどれだけの年月が必要なのか? ……それを冷静に計算した時、果たして奴隷が真面目に地道に働いて金をせっせと貯め続けるだろうと期待する者がいるとしたら、それは相当にお人好しが過ぎるというものだ。

 もしもそんな何年も待っていたら離散し奴隷にされた家族はおそらく死んでいるか、生きていたとしても他の奴隷と結婚させられて子供を儲けるかしているだろう。奴隷に子供を産ませるのは最も安くもっとも手軽に奴隷を増やす方法だからだ。複数人の奴隷を所有するだけの財力のある金持ちならほぼ間違いなくそうして奴隷を増やそうと試みる。であるならば、自分の家族がそうなってないと期待するのは無理なのである。そして、そうなってしまった元・家族を見つけたとして、その元・家族を奴隷の身分から解放させようと思ったらその家族たちも一緒に解放してやらねばならなくなる。自分一人を解放するだけで何年も働き続けねばならなかったのに、再開した元・家族とその家族を数人分の代金を貯めようと思ったら、普通に考えても一生かかったって足りるわけがない。

 リュキスカも同じだ。いくら今、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムと同じくらいの報酬を約束されているからと言って、奴隷を何人も解放してやれるほどの大金を貯蓄出来るくらいの報酬を払ってやる余裕など出来はしない。仮にその奴隷を使って商売をして金を稼いだとしても結果は同じだろう。


 つまり、リュウイチは奴隷商の典型的なセールストークに騙されてしまっているのだ……リュキスカは最早そう判断するほかなかった。

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