第1355話 女奴隷のリスク

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「ええ!?」


 リュキスカは思わぬ方向からの情報に一瞬呆気あっけにとられ、次いでリュウイチとロムルスを交互に数度見比べた。ロムルスは己の立場と役割を忘れたかのようにヘラヘラと笑っていたが、リュウイチは頭痛でも覚えたかのように目を閉じ眉間を揉んでいる。

 ロムルスは卑屈なところのある男だ。他人の、特に偉そうな人物の醜聞を好む類の人間である。この世界ヴァーチャリアでの最大の娯楽は噂話ゴシップであり、誰でも有名人ノビリタス醜聞スキャンダルには目がないものだが、ロムルスの場合は身近な人間をそうした娯楽の対象としてしまうのだ。普通の人間ならその後の付き合いや人間関係に配慮し、身近な人間の醜聞を聞いても聞き流すか打ち消そうとするかし、その相手が恥ずかしい思いをしたりせずにすむよう、少なくとも自分がその噂の対象に恨まれたりしないよう気を使うものだが、ロムルスは相手の弱みを握ることで相手の優位に立とうとする癖があるのだ。ゆえに、嫌いな相手の醜聞ほど熱心に、そして相手にとってダメージになる醜聞ほど積極的に、後先考えずに話そうとしてしまう。当然、そんな人間のことなど誰も信用しないし仲良くなろうとなんかしない。いい歳して下士官セスクィプリカーリウスにもなれずに、問題児ばかり集めたネロ隊に回されていたのも、そうした彼自身の人間性が原因だった。

 リュキスカもロムルスの軽薄な性格には気づいていた。だからこそ嫌悪もしていたし、普段からあまり近づかないようにもしている。当然、ロムルスの言うことなど軽々しく信用しようとは思わない。


「それホントかい?

 なんでネロさんが反対してんのさ!?」


 ロムルスの顔が卑屈な笑みにいやらしく歪む。


「それが奥方ドミナ、聞いてくださいな。

 あの野郎、伯爵コメスから送られてきた女奴隷セルウァがサウマンディアの女諜報員エーミッサーリアだって言うんですよ」


女諜報員エーミッサーリア?」


 リュキスカが不快そうに尋ね返した。


奥方様ドミナの下で働きながら色々情報を集めて伯爵コメスに報告する女スパイエーミッサーリアでさぁ。

 もしかしたら奥方様たちドミナエを害するための女工作員スペキュラートリクスかもしれねぇとまで言ってやしたぜ!?」


 言いながらロムルスは腹を抑え、痙攣でもするように身体を震わせ始めた。笑いを堪えているのだ。だがリュキスカからすれば冗談ではない。


「な、何でアタイが伯爵様ドミヌス・コメスに殺されなきゃいけないのさ?!」


 リュキスカの声には怯えの色が滲んでいた。その声に気づいてリュキスカの表情を見たロムルスは、まるで通じなかった冗談を弁明するように宥める。


「そんなわきゃありやせんや!

 奥方様ドミナを害して得する奴なんかどこにもいるもんですかい!

 なのにネロの奴ぁ女工作員スペキュラートリクスだの女諜報員エーミッサリアだの馬鹿なこと言いやがるから、旦那様ドミヌスも困ってネロの奴を追い出したんじゃねえですかぃ!?」


 ロムルスが同意を求めるようにリュウイチを見ると、リュウイチは静かに睨んでいた。


 もういい、お前はもう黙れ……リュウイチの静かな意志をその視線から感じたロムルスは一瞬で固まってしまう。


「し、失礼しました!!」


 ロムルスはひっくり返った声でそれだけ叫ぶように言うと、気を付けして出入り口の番に戻った。リュキスカはロムルスのその様子を唖然としたまま眺めていたが、リュウイチの溜息が聞こえると我に返り、リュウイチの方へ向き直る。


「で、さっきの話、どうなの?」


 リュウイチはリュキスカの視線から逃れようとするかのように顔を逸らし、改めて大きな溜息をついてから答えた。


『伯爵が君を傷つけようとしているってことは無いから安心していい』


 そこまで言ってリュウイチはリュキスカに向き直り、続ける。


『ただ、君の下で働いて得た情報を伯爵に報告するってことはあると思う』


 リュウイチの返事を聞いたリュキスカは特に表情も変えず、そのまま鼻から大きく息を吸い込みながら上体を伸びあがらせた。


「じゃ、じゃあ何?

 この話、断った方がいいの?」


『いや……それは君次第だ』


 リュウイチがまた目を逸らせて答えるとリュキスカは顔をしかめる。


「何でさ、その女奴隷セルウァはアタイや兄さんのこと、伯爵コメスにベラベラしゃべっちまうんだろ?」


 そう尋ねるリュキスカは少し不機嫌そうだった。実際のところ、リュウイチの言い様はリュキスカには理解しにくいのだろう。リュウイチは困ったとでも言うように俯き、束の間、少し身を屈めてから顔を上げてリュキスカを見た。


『何をどこまで伯爵に報告するか……それはある程度制限できると思う』


「そんなの分かんないじゃないさ!

 その女奴隷セルウァ伯爵コメスの手下なんだろ!?

 アタイがこれは言っていいけどこれはダメとか言ったって、伯爵コメスの得になると思ったらそっちを優先しちまうんじゃないのかい?」


 リュキスカは声を張った。リュウイチが得にもならないのに一方的なリスクを自分に押し付けようとしているとしか思えなかったからだ。自分の身の回りのことを外へバラすような者を、何で身近に置かねばならないのか!? リュキスカは理不尽を黙って受け入れるような素直さは無い。「雌オオカミ犬リュキスカ」という名は誰が相手でも容赦なく立ち向かい、噛みつき、暴虐を跳ねのける強さの象徴でもあるのだ。

 そして今、リュキスカに理不尽を押し付けようとするリュウイチはリュキスカの牙にひるむかと思いきや、今度は視線を逸らさなかった。


『そうでもないと思うよ』

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