第1354話 リュキスカの判断

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 吊るされた女の顔を今も覚えている。恐ろしかった。人間の肌の色とは思えぬほ土気色に染まった顔。鳥についばまれて眼球を失った眼窩がんかは見開かれ、その奥にどこまでも続く闇が広がっているようだった。もはや二度と動くことの無い死体が風に吹かれて揺れる様は世を呪い、力なく開かれた口から死を吐き出そうとしているかのようであった。

 晒された死体はアンデッド化を防ぐため、腐敗が始まる前にどこかへ埋葬されたのでそれ以後人目に触れることはなかったが、リュキスカの脳裏には今もハッキリと焼き付いている。


『えーっと……リュキスカ……さん?』


 急に何かにおびえ始めた様子のリュキスカにリュウイチは戸惑いながら声をかけた。いつもならそれで我に返ったように注意をこちらへ向けてくるリュキスカだが、今回は反応らしい反応がない。


『えっと、どうかした?』


 尋ねるとリュキスカはようやく顔を上げ、リュウイチを見た。顔色が悪く、やはり何かに怯えている様子である。


『あれ、具合が悪いの?』


 リュキスカは首を振った。


なんでもないニール・エステ


『でも、何か具合が悪そうだけど……』


なんでもないったらディクシ・ニール・エステ!」


 何かを振り払うようにリュキスカは声を荒げ、驚いたリュウイチが無言のまま目を丸くしてると、リュキスカはまた感情的になってしまったことに気づき、気まずそうに小さく溜息をつき、身体を起こした。そして目を閉じ胸に手を当て静かに深呼吸をする。


「ごめん……ちょっと嫌なこと思い出しちゃって……」


『嫌なこと?』


 リュキスカのつぶやきにリュウイチが反応すると、リュキスカは小さく笑って誤魔化した。


「いや、ホント、もういいんだよ……

 それで、何だっけ?」


 リュキスカの様子に疑問を覚えながらも、本人が言いたがらないことには安易に踏み込むべきではないという遠慮をリュウイチは働かせた。


『ああ、うん……その、サウマンディアの伯爵からリュキスカにって、マルクスさんが女奴隷を一人連れて来てる。

 昨日、リュキスカに受け取ってもらうつもりだったようだけど……その、居なかったから待ってもらっているんだ』


 リュウイチが少し言いづらそうに説明すると、リュキスカは「ふーん」と溜息とも相槌あいづちともうなり声ともつかぬ小さな声を漏らし、数秒考える。


「じゃあ、この後アタイは要塞司令部プリンキピアでその女奴隷セルウァを受け取って、御礼を言わなきゃいけないのかい?」


『いや!』


 リュウイチは慌てたように手をかざし、首を振った。


『その奴隷を受け取るかどうかの返事もまだ待ってもらってて、もしも受け取りたくなければ断ってくれていいんだ』


 驚いたリュキスカにリュウイチがやや早口で説明するとリュキスカはいぶかしむように小首をかしげる。リュウイチは続けた。


『それにマルクスさんは今朝早くにグナエウス砦にったんだ。

 急用ができたとかで……戻って来るのは早くても明日だと思うから、受け取るかどうかの返事はその時でいい』


 説明を終えてリュウイチが翳していた手を降ろすと、リュキスカは怪訝そうな表情のまま傾げていた首を戻し尋ねる。


「何言ってんだい、上級貴族様パトリキの贈り物を断れるわけがないじゃないさ?」


『え?』


 てっきりリュキスカは奴隷を受け取りたくないのだろうと勝手に思い込んでいたリュウイチは予想外の言葉に呆気にとられた。その様子に部屋の出入り口の辺りに控えていたロムルスが思わず「ぷふっ」と吹き出し、慌てて口元を手で覆う。


伯爵様コメスがアタイに女奴隷セルウァをくれるって言うんならありがたくいただくさ。

 それで何か上級貴族パトリキ様を喜ばせるような御礼の口上を考えとけって話じゃないのかい?」


 我が耳を疑って固まっていたリュウイチはどうやら聞き間違いではなく、リュキスカが本当に奴隷を受け取るつもりらしいことに気づくと慌てふためき始める。


『え!?

 いや、その……いいの!?

 奴隷だよ?』


 リュキスカには逆にリュウイチが何でそんなに狼狽ろうばいしているのか理解できない。


女奴隷セルウァがどうかしたのかい?

 そりゃ、奴隷セルウス持ったら税金は取られるし食い扶持ぶち用意してやんなきゃいけないしでお金はかかるだろうけどさ、幸い今のアタイにゃ稼ぎがあるし?

 ダメなら売っぱらやいいんだろ?」


  じゃあさっきのアレは何だったんだ? ……リュウイチは愕然がくぜんとした。


「それよりもお礼だよ。

 相手が平民プレブスなら『ありがとグラティアス』の一言で済むだろうけどさ、上級貴族様パトリキとなるとそうもいかないだろ?

 なんかもっともらしい口上とか考えなきゃいけないんだろうけど、アタイがくが無いからさぁ……

 ヴァナディーズさんかルクレティア様でも居てくれりゃ相談できるんだけど……」


 リュウイチが全く想定していなかった部分でリュキスカは悩みはじめ、ブツブツ言ったかと思うと突然何かひらめいたかのように「あっ」と声を上げた。


「ひょっとして兄さん、それでネロの奴を追い払ってくれたのかい!?」


 さっきリュウイチは明らかに適当な用事を言いつけてネロを部屋から追い出した。それはきっとリュキスカが上級貴族への返礼の口上を自力で考えることも出来ず、教養の無いところを見せてネロに馬鹿にされるのを防ぐためだったのだ! ……と、リュキスカは想像したのだが、リュウイチはリュキスカの予想に反してかなり間の抜けた反応を示した。


『は?』


「……違うのかい?」


 お互いが何を言っているのかわからず二人は互いに呆気にとられる。それを見ていたロムルスがクスクスと笑い始めた。


「何がおかしいんだい!?」


 思わずリュキスカが語気を強めて尋ねる。リュキスカにとってロムルスという男はどうにも癪に障るところが多かった。


「あイヤ、すいやせんパエニテオ


 ロムルスは口先では謝るがその顔は笑ったままである。


「『すいやせんパエニテオ』じゃないんだよ!

 何がおかしいんだって聞いてんじゃないか!?」


 イライラしながらリュキスカが追及すると、ロムルスは悪びれもせずに顔に笑みを浮かべたまま答えた。


奥方様ドミナ、そう怒んねぇでくだせぇ。

 旦那様ドミヌスがネロの奴を追い出したのぁそんな理由じゃありやせんや。

 ネロの奴ぁ、奥方様ドミナ女奴隷セルウァを受け取るのに反対してやがったんで、話が面倒になると思った旦那様ドミヌスがネロの奴を追い出したんでさぁ」

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