第1353話 リュキスカの不安

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュキスカは話の理解が追い付かず、唖然となった。呆けたように口を開け、ポカーンとリュウイチを見る。


「……奴隷セルウス?」


『そう、それも女性の奴隷』


女奴隷セルウァ……」


 リュキスカが呆気にとられるのも無理はない。奴隷というのは高価な買い物だ。安い奴隷でもただ買うというだけで平民プレブスの平均的な年収に匹敵するほどの値段がする。《レアル》現代の価値感覚からすれば自動車を買うようなモノだ。おまけに維持費がかかる。

 《レアル》から人権主義・人道主義といった考え方がある程度伝わってきているために奴隷の待遇については一定水準を保たねばならず、給料だって支払うことが義務付けられている。税金も含めた維持費は普通に人一人を雇うのと大差なく、それでいて扶養義務が生じて怪我や病気になれば治療してやらねばならないため、場合によっては普通の自由民を雇う方が安くつくほどだ。このため並の平民ではまず入手できず、下級貴族ノビレス以上の富裕層か、あるいは下級貴族には及ばないまでも少し裕福な平民が無理をしてようやく手に入れられるような存在である。当然、リュキスカのような貧民パウペルに手が出る代物ではない。

 そんなものを見ず知らずの伯爵コメスが譲ってくれるなどと言われて、即座にハイソーデスカなどと受け入れられる者などまずいないだろう。今のリュキスカのように我が耳を疑うのが当然だ。


『実はもう連れて来られてる』


「ええ!?」


『昨日見たんだ。

 マルクスさんが連れてきててね』


「ちょ、ちょっと待っておくれよ!」


 過呼吸を起こしそうになったリュキスカは慌ててリュウイチの話をさえぎると、自らの胸に手を当てて息を整える。


『いい?』


「待って!

 な、何でそんなことになってんのさ!?」


 リュキスカが落ち着くのを待ってリュウイチが話を進めようとすると、リュキスカは逆に質問を浴びせた。リュキスカからすれば何で隣の属州の伯爵様が自分に奴隷なんてものを譲ろうとしているのか理解できない。

 奴隷というのは一般には人間とはみなされない。喋る家畜であり、自分で考えて行動できる道具……いわば自律労働機械である。が、それは平民以上の、実際に奴隷を所有する可能性のある人たちにとっての話だ。

 リュキスカにとっては、というよりリュキスカのような貧民にとっては認識が全く違ってくる。社会の最底辺に生きる貧民にとって奴隷は導具でも家畜でもない。誰か金持ちにとっては所有物であり家畜であり道具であるかもしれないが、貧民にとっては同じ人間だ。何故なら自分が生きるだけでも精一杯な貧民に奴隷を所有することなど出来ないし、最底辺の仕事をさせられるという点では奴隷も貧民も同じである。奴隷と貧民の違いは言ってみれば仕える主人がいるか居ないかの違いだ。場合によっては奴隷の方がいい暮らしをしていることだって珍しくは無いのだ。

 奴隷は人間じゃないから自分たちより下の存在だ! ……と考え、ストレスをぶつける対象にしようとする貧民が居ないわけではないが、実際にそれをやれば奴隷の所有者である主人を怒らせることになるため、まともな感性の持ち主ならまずやらない。同じ職場で働く仲間の何人かが雇用主の奴隷……というパターンも当然のようにあるため、奴隷に対する差別のようなものは貧民の間ではほぼ無い。正社員と臨時雇用のフリーランスの関係に似ているだろうか?

 いずれにせよ、奴隷という存在を誰かの専属になっただけの同じ人間として見る癖がついてしまっているリュキスカには、奴隷を売買や譲渡するという感覚自体がピンと来ないのだ。それどころか、自分が成りたくないと思っている貴族に近づいている状況に、どこか不安を覚えずにはいられない。


『さっき言ったろ?

 君は既に聖貴族で上級貴族なんだから、自前の使用人の一人や二人は持っていないとおかしいって話になったんだ』


 リュウイチの説明にリュキスカは再び過呼吸を起こし始めた。手で胸を抑え、うずくまるように身をかがめる。


「待って……待ってよ……

 アタイ、上級貴族パトリキなんてそんな……いや、そうなんだろうけど……」


 切なげに絞り出すようなリュキスカの声にリュウイチは言葉に詰まった。同居していた従兄の子の訃報を継げるためにオンラインゲームにログインしただけのはずが思いもかけずにこの世界ヴァーチャリアにやってきて貴族として扱われるようになってしまったリュウイチには、客に買われただけのはずなのに突然貴族に祭り上げられてしまったリュキスカの気持ちは分からなくはない。

 民主主義、自由主義、人権主義、平等主義といった考え方が根付いた社会に生まれ育ったリュウイチには貴族制度も身分制度も奴隷制度も馴染めない。歴史の授業やゲームや漫画といった創作作品の中で触れる程度で曖昧なイメージしかない制度にいきなり順応することを求められても、そもそも理解が追い付かないというのが正直なところだ。リュウイチが子供の頃はまだ年功序列が当たり前だったから人の上下関係という感覚はわからなくはない。極端なまでに自由主義や平等主義に突っ走ったような社会であっても、年長者や経験者には相応の敬意が払われるのは当然なのだ。だがそれでも中学生高校生だった頃、たった数か月生まれが早かっただけで一学年上になっただけの先輩が後輩に対して暴君のごとく振る舞うのを理不尽に感じていたリュウイチからすると、生まれが違うだけで命の値段まで違ってくる社会には疑問を禁じ得ない。まして奴隷制度なんて無くなって当然なものだと信じている。

 しかしだからといって社会の方を変えることなど出来ない。リュウイチはいずれ《レアル》に帰る身だし、すぐに居なくなる余所者がその社会に変化をもたらすなど、どう言い訳しても独善でしかないし無責任だと思うからだ。社会の変革はその社会の住民たちによってなされねばならない。一人の人間が力づくで起こす変革など、たとえそれが良い社会への変革だったとしても、やっていることは独裁でしかなく、本質的に奴隷の所有者の所業でしかない。

 ならばどうするのか? 社会に理不尽を感じながらも社会を変えることができないならば……自分が順応するか出て行くしかないのだ。リュウイチの場合はいずれ出て行くことが確定している。そして、それまでの間は順応するしかない。それはもちろん精神的苦痛を伴うものだが、リュウイチの場合はまだ周囲が常に気を使ってくれるため、まだ鬱憤うっぷんを蓄積させるようなことにはなっていない。


 ではリュキスカは? ……それを思うとリュウイチとしては心苦しい。彼女は今でこそ聖女サクラだ貴族だと言われているが、平民出身でしかも娼婦という社会の最底辺の女性である。リュウイチには好意的な貴族たちもリュキスカ相手だとどこかぎこちなく、腫物に触れるように扱われているのは目に見えて明らかだ。リュキスカ自身、貴族たちよりオトを始めネロ以外の奴隷たちにむしろ親近感を抱いているようでもある。自分たちの都合で実質的に誘拐し軟禁状態に置くリュウイチや貴族たちに悪感情を抱き、奴隷たちに親近感を抱くリュキスカが奴隷を喜ぶとはリュウイチには思えない。


 もっとも、そんなものはリュウイチの勝手な思い込みにすぎなかった。リュキスカの心配の素はただただ自分が知らない間に貴族に祭り上げられていくことであり、リュキスカの脳裏には浮かんでいたのは玉の輿に乗って下級貴族ノビレスになったものの、屋敷ドムスを襲撃されて夫と家人を殺され、濡れ衣の罪で処刑された元・娼婦の死に顔だったのだ。


 ア、アタイもいつかあんな風に……

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