第1348話 不測の事態への備え

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



旦那様ドミヌス!」


 リュウイチが自分で何を言おうとしたのか忘れて言葉に詰まってしまったところへ声をかけて来たのは背後に控えていたネロだった。


「申し上げにくいのですが、旦那様ドミヌスが御自ら侯爵家の皆様に魔法や聖遺物アイテムを用いるのは……」


 それまでリュウイチは自分が何を言おうとしていたか思い出そうと頭を巡らせていたのだが、ネロのその一言によって悩んでいた事自体を忘れてしまった。


『ああ、《レアル》の恩寵おんちょうか……!』


 リュウイチがこの世界ヴァーチャリアの特定の誰かを助けると、それが大協約に定められている「《レアル》の恩寵の独占禁止」に抵触してしまう恐れがある。既に聖女サクラとなってしまったリュキスカやその子ぐらいならともかく、領主貴族パトリキであるエルネスティーネや侯爵家の人々が《レアル》の恩寵に浴したとなれば問題化は避けられない。カールにしたところで侯爵家への融資の人質として人権ごと預かることによって大協約違反を回避しているのだ。それとて本当に認めてもらえるかどうかは確定しているわけではない。ここへきてリュウイチの目の前でカロリーネが健康を害したとしても、安易に手を出すわけにはいかなかった。ネロはそれを思い出させたのだった。


「そんな!

 カロリーネ様はまだ赤ん坊じゃないさ!?」


 リュキスカの抗議にネロは不快そうに顔を強張らせながら答えた。


「赤子であろうと侯爵家の立派な一員であらせられます。

 旦那様ドミヌスがカロリーネ様をお助けになられれば、侯爵家が《レアル》の恩寵に浴したと世間は見做みなすでしょう」


「じゃあどうしろってぇんだい!?

 アタイに話を断ってこいってことかい?」


 リュキスカは声を荒げたが、ネロはツーンと澄ました顔のまま努めて冷静に答える。


「そうなさるのが一番いいでしょう。

 そもそもカロリーネ様が御病気で奥方様ドミナの御乳でしか治せないとかいうような話でもありません」


 そう、ネロの言うことは正しい。そもそもエルネスティーネが欲をかいたのが今回の問題の根本原因なのだ。そして事情をよく理解していなかったとはいえ、リュキスカが安請け合いしたのが問題に拍車をかけた。最初から断っていればこんな風に悩んだり騒いだりする必要などどこにもない……今回の問題はそういう類のものだった。今からでも断ってしまえば、リュウイチの懸念もリュキスカの不安も解消される。カロリーネだってこのまま健やかに過ごすことができるだろう。

 リュキスカは口をへの字に曲げてネロを睨みつける。


 リュウイチ兄さんに言われてならいくらでも諦めっけど、何でネロコイツなんかに道理を説かれなきゃなんないんだい! ネロコイツ、子の将来を思う母親の気持ちとか分かってないんじゃないの!?


 表向きは忠実で礼儀正しい貴族様の家来を装いながらも、リュキスカには娼婦を見下すいけ好かない嫌味な客がよくするような眼を平然と向けてくるネロに、リュキスカの腹の中でフツフツと怒りがこみあげてきた。だがついさっき無様に感情を爆発させてみっともない醜態を晒したばかりだ。


『まあ、今断ったからといってそれで終わりというわけにはいかないだろ。

 一度受けた話でもあるし』


 リュキスカがネロを睨んでいることに気づいたリュウイチはネロを諫めるようにそう言った。どこか投槍な口調なのはネロの意見を正しいと認めたうえで抑えるための配慮である。が、ネロとしてはリュウイチが唐突に宗旨替えしたような印象を持ち、思わず困惑顔でリュウイチへ視線を向けた。リュキスカはそれを見て多少なりとも溜飲が下がったというわけでもないのだろうが、ネロに突っかかっていくでもなくプイッと視線を外す。


『でも神官ってどれくらい対処できるのかな?

 赤ちゃんがいきなり嘔吐とか下痢とかしても対処できるもんなの?』


 リュウイチはこの世界ヴァーチャリアの神官がどの程度の能力があるかについてよく分かっていない。リュウイチが知っている神官と言えばルクレティアしかいなかったし、そのルクレティアが神官として働くところを見た事も無い。聞いた話では自分の魔力を呼び水にして患者の魔力を動員し、患者が本来持っている治癒力を高めるそうだが、それがどの程度の効果があるのかが分からない。少なくともリュウイチの魔法で驚いているくらいだから劇的なものではないだろう。

 誰に問うでもなく漏らしたリュウイチの疑問に、ネロが困惑したまま答えた。


「それは神官フラメンによるとしか‥‥‥

 ですが、嘔吐や下痢を魔法一つで止めるというような話は聞いたことがありません」


 嘔吐や下痢をするということは、基本的に体内に入った異物……特に病原性のものを体外に緊急輩出する必要があって起こるものだ。輩出したい異物が体内から無くなるか、許容できる程度まで減れば止まるだろう。しかしヴァーチャリアで普及している魔法では体内の異物を強制的に排出するようなことはできないし、また異物を残したまま下痢や嘔吐を止めさせることもできない。まあ、そっちは仮にできたとしてもやらない方がいいだろう。有害な異物が体外に排出されるのを妨げてしまい、結果的に体調を悪化させてしまうからだ。


「チョイと!

 アタイのオッパイ飲んでカロリーネ様がお腹を壊すってのかい!?」


 いきなり大袈裟なことを言われて言いがかりでもつけられたような気分になったリュキスカが驚いたように言うと、リュウイチは首を振った。


『いやそうじゃない!

 この世界の神官にどれくらい力があるかって話さ』


 なんだか揚げ足をとられたような気になったリュウイチが弁明すると、リュキスカは口を尖らせる。


「アタイのオッパイ飲ませるだけなんだから、その心配だけすりゃいいじゃないさ!?」


『そうもいかないさ』


 リュウイチはパンッと両手を自分の両膝の上に叩きつけるように置いた。思わずリュキスカが口籠る。


『誰かがまた毒を使うかもしれない。

 それでリュキスカがオッパイあげるタイミングと毒の効果が出るタイミングが重なると、ホントは毒のせいなのにオッパイのせいで赤ちゃんが身体の具合を悪くしたってことにされかねないだろ?』


 リュウイチが嘆くように言うとリュキスカは「あぁ」と小さく声を漏らした。リュキスカも毒ロウソクや毒麦の話は知っている。カールは実際にココで何者かに毒を盛られたのだ。カールしか食べない小麦に仕込まれた毒麦はカールだけを狙ったものだったろうが、毒ロウソクの方はあの場に居たほぼ全員が被害を被っており、事実上無差別テロに近い。どこの誰がどういう理由で毒を使っているか分からない上に、他人を巻き込んでも構わないと考えている可能性がある以上、リュキスカも自分は大丈夫だなどと暢気のんきに構えてはいられない。次はどこにどんな形で毒が仕込まれるか……誰も安心はできないのだ。

 リュキスカは頭を両手で抱えるように掻くと、その手を勢いよく自分の腿の上に降ろした。


「ああーん、もうッ!

 いっそアタイも魔法使えれば簡単なのに!!」

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