第1347話 迷走
統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐
リュキスカはゴクリと
「ア、アタイが責められるってのかい?」
リュウイチの
リュキスカの母スキッラは娼婦だった。太ってはいなかったが独特の妖艶な踊りを得意とするダンサーでもあり、多芸で人当たりが良かったため人気はあった。そのライバルであり友人でもあった一人の娼婦がある日、
貴族の
だがその貴族の栄華は長くは続かなかった。貴族同士の抗争に巻き込まれたか、ある日屋敷を武装した集団が襲い、貴族は家人ごと殺されてしまった。スキッラの友人で貴族の妻になった元・娼婦の女は、生き残った他の家人たちと共に何かの罪で逮捕され、間もなく公開処刑されてしまった。あれだけの栄華が、あれだけの富が、成功が、たったの一夜で崩壊してしまった……無残に処刑され、ボロボロになったまま晒され続けた元・娼婦の遺骸は、それを目の当たりにしたリュキスカの価値観に決定的な影響を及ぼしてしまったのだった。何よりもリュキスカにとってショックだったのは、生前は気前よく振る舞ってくれた元・娼婦にあれだけ
その一件からリュキスカは社会そのものに対して不信感を抱くようになった。身分や名声をむしろ恐ろしいものと考えるようになった。
リュキスカは
そんなリュキスカもリュウイチに買われた結果、今や
そして今、何の準備もないまま踏み込んでしまった貴族社会の罠の気配をリュウイチに指摘された。今はリュウイチが、エルネスティーネが、ルキウスが、そしてルクレティアが、おそらく味方になってくれている。だが彼らとて“絶対”じゃないだろう。ルクレティアとは和解はしているが一度は激しい嫉妬の炎を燃やされているし、その原因となった状況は今も変わらない。ルクレティアは今でこそ味方だが、いつ敵になってもおかしくない。そして末娘カロリーネの乳母となるよう頼んできたエルネスティーネ……アルビオンニア属州最高権力者の彼女との距離が狭まりつつあるが、同時に一歩間違えばその憎悪を向けられるかもしれない可能性があることを示されたのだ。リュキスカが本能的に戦慄を覚えたのは自然なことと言えた。
『悪い結果が出れば、誰かが責めを負うことには、なりそうな気はする』
リュウイチの言っていることは当たり前と言えば当たり前だが、具体性がない以上何を言っていないにも等しい。要はリュウイチ自身も何かを分かっていて言っているわけではなかったのだが、そうした曖昧な物言いは時に話を聞く相手の不安を
「わ、悪い結果って?」
『………』
「魔力酔いはするだろうけど、
『いやそのぅ』
「何だい、言っとくれよぅ!」
リュキスカに急かされ、リュウイチは頭を掻いた。
『何も起きないってのが、そもそも“悪い結果”になってしまうんじゃない?』
リュキスカはリュウイチの顔をまっすぐ見たまま固まり、怪訝な表情を見せた。リュウイチの背後でネロが不快そうに小さく溜息をつく。
「な、何言ってるか分かんないよ。
何も起きなきゃそれでいいんじゃないのかい?」
数秒の沈黙の後で声のトーンを落としたリュキスカの疑問はリュキスカとリュウイチの想定する「悪い結果」がそもそも違っていることを示していた。
『いや、その、エルネスティーネさんは赤ちゃんに魔力を持たせたくて、オッパイを貰うんだよね?』
「……まぁ、そうだろうね……」
『それでオッパイ貰って、魔力が得られなければ、それはそれで失敗ってことにならない?』
「……」
『赤ちゃんってのは大切だと思うんだ。
特に貴族の赤ちゃんってなると余計だろうね。
その赤ちゃんに魔力を持たせたいと思ってリュキスカからオッパイを貰うんだけど、そこにはその、色々リスクはあると思うんだ。
多分、エルネスティーネさんもそのリスクは考えてて、だから神官に見てもらうってことになったんだと思う。
ただ、君が言ったようにフェリキシムスちゃんは大丈夫なわけだし、赤ちゃんが君のオッパイを飲んだせいで具合が悪くなるっていうような心配は、そんなにしなくていいのかもしれない。最悪、私も近くにいるわけだし……』
そこまで言ってリュウイチは話を止めた。話しているうちに自分が何を言いたいのか分からなくなったのだ。
カロリーネにリュキスカの母乳を与えた場合、どんな影響があるかはまだ誰にも分からない。フェリキシムスのように魔力を得られるかもしれないが、得られないかもしれない。魔力酔いは想定されているが、それ以外の健康被害は生じないとも限らない。言ってみればこの試みは人体実験だ。
もしもそれを行い、目論見通りカロリーネが魔力を得られればいいが、魔力を得られなければ、たとえ健康被害が何も無かったとしても
エルネスティーネや家臣団たちはもちろんその責任を回避しようとするだろう。その時、回避された責任は誰の下へ行くだろうか? ……こういう場合、最も立場の弱い人物のところへ向きがちだ。すなわち、それがリュキスカに向くのではないか……リュウイチとしてはそう指摘するつもりだったのだが、言葉を慎重に選びながら話を続けているうちに分からなくなった。特に最悪の場合自分が近くにいるのだからと言ったところで、魔法や
あれ……心配することなんて何もないってことか???
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます