第1347話 迷走

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュキスカはゴクリと固唾かたずを飲み込んだ。


「ア、アタイが責められるってのかい?」


 リュウイチの聖女内縁の妻となり、並の神官フラメン聖貴族コンセクラトゥムたちを上回る魔力を持つにまでなったリュキスカだが、それでも自分自身が貴族ノビリタスになることに消極的なのは理由がある。子供の頃のとある経験があったからだ。


 リュキスカの母スキッラは娼婦だった。太ってはいなかったが独特の妖艶な踊りを得意とするダンサーでもあり、多芸で人当たりが良かったため人気はあった。そのライバルであり友人でもあった一人の娼婦がある日、新興貴族ノビレスの一人に見初みそめられ玉の輿に乗る。貴族は一代で財を成したいわゆる成り上がりで財力は自身でも持て余すほどあったが、その財力に見合うような交友関係は無かった。いくら財力があっても貴族同士の横の繋がりが無ければ真の貴族とは言えない。そこで成り上がり者が良くやるように他の貴族を招いては饗宴コミッサーティオを開き、知名度と交友関係を拡大しようと躍起やっきになっていた。その饗宴の席で客に出し物を見せて喜ばせるためにスキッラもダンサーとして呼ばれ、気前の良さをアピールする意味もあってかリュキスカも同伴させられた。

 貴族の屋敷ドムスは別世界だった。夜だというのに昼間のように灯りが煌々こうこうと焚かれ、まるで星空が地上に降りて来たかのようにきらびやかだった。そこには見た事も無いような料理が山のように積まれ、川になって流れだしそうなほど酒が運ばれた。寝椅子クリナに横たわる貴族たちは絵の中でしか見れないような綺麗な服を身にまとい、食べきれないほどの御馳走を楽しんでいる。誰もが食うや食わずで常にすきっ腹を抱えて座り込み、どこかの物陰に入れば誰かが死んでいるような貧民街からは想像もつかない栄華……母スキッラが喝采を浴びながら貴族たちの前で踊っている間、控室の小窓からその様子を眺めていたリュキスカは自分もそうなりたい、いつか金持ちの男と結婚してそうなるんだと強く憧れていたものだ。

 だがその貴族の栄華は長くは続かなかった。貴族同士の抗争に巻き込まれたか、ある日屋敷を武装した集団が襲い、貴族は家人ごと殺されてしまった。スキッラの友人で貴族の妻になった元・娼婦の女は、生き残った他の家人たちと共に何かの罪で逮捕され、間もなく公開処刑されてしまった。あれだけの栄華が、あれだけの富が、成功が、たったの一夜で崩壊してしまった……無残に処刑され、ボロボロになったまま晒され続けた元・娼婦の遺骸は、それを目の当たりにしたリュキスカの価値観に決定的な影響を及ぼしてしまったのだった。何よりもリュキスカにとってショックだったのは、生前は気前よく振る舞ってくれた元・娼婦にあれだけおもねっていた娼婦仲間たちが、一斉に彼女の悪口を言い出したことである。元・娼婦の死を悲しみ、惜しむ者は誰も居なかった。むしろザマア見ろ、いい気になって調子に乗っているからだと嘲笑あざわらう者たちが多かったのだ。


 その一件からリュキスカは社会そのものに対して不信感を抱くようになった。身分や名声をむしろ恐ろしいものと考えるようになった。

 リュキスカは雌オオカミ犬リュキスカという名前のせいで幼いころからよく揶揄からかわれた。それをリュキスカは持ち前の負けん気と腕力で跳ねのけてきた。目の前にいる悪い奴、気に入らない奴は実力でぶちのめしてやるという気概は今でもある。だが目に見えない相手にはどう対処したらいいかわからない。まして世の中全部が、社会全体が“敵”になれば、あらがう間もなく殺され“食われて”しまうだろう。世間が、社会全体がいつの間にか“敵”になっているなんてまさに地獄ではないか……世間を、社会を敵に回さないようにしなければなならない。そのためには人々のねたみやそねみを買うようなことは避けなければ……金はもちろん必要だ。ある程度有名になって人気があった方が金は稼ぎやすいだろう。だが、稼ぎすぎれば、有名になり過ぎれば、目立ちすぎれば、いつか“食われる”ことになる……貴族という身分だってきっと、“絶対”じゃない。


 そんなリュキスカもリュウイチに買われた結果、今や上級貴族パトリキの仲間入りだ。望んでなったわけではない。もちろんフェリキシムスを助けてもらったことは感謝している。リュウイチ一人を相手にするだけで軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムと同じだけの報酬を得られることは素直に喜んでいる。だが、貴族という身分、立場には不安しかない。

 そして今、何の準備もないまま踏み込んでしまった貴族社会の罠の気配をリュウイチに指摘された。今はリュウイチが、エルネスティーネが、ルキウスが、そしてルクレティアが、おそらく味方になってくれている。だが彼らとて“絶対”じゃないだろう。ルクレティアとは和解はしているが一度は激しい嫉妬の炎を燃やされているし、その原因となった状況は今も変わらない。ルクレティアは今でこそ味方だが、いつ敵になってもおかしくない。そして末娘カロリーネの乳母となるよう頼んできたエルネスティーネ……アルビオンニア属州最高権力者の彼女との距離が狭まりつつあるが、同時に一歩間違えばその憎悪を向けられるかもしれない可能性があることを示されたのだ。リュキスカが本能的に戦慄を覚えたのは自然なことと言えた。


『悪い結果が出れば、誰かが責めを負うことには、なりそうな気はする』


 リュウイチの言っていることは当たり前と言えば当たり前だが、具体性がない以上何を言っていないにも等しい。要はリュウイチ自身も何かを分かっていて言っているわけではなかったのだが、そうした曖昧な物言いは時に話を聞く相手の不安をいたずらに煽ってしまう。


「わ、悪い結果って?」


『………』


「魔力酔いはするだろうけど、神官フラメンだって近くで見ていてくれるっていうしさ、フェリキシムスは平気なんだしさ……他に何があるって言うんだい?」


『いやそのぅ』


「何だい、言っとくれよぅ!」


 リュキスカに急かされ、リュウイチは頭を掻いた。


『何も起きないってのが、そもそも“悪い結果”になってしまうんじゃない?』


 リュキスカはリュウイチの顔をまっすぐ見たまま固まり、怪訝な表情を見せた。リュウイチの背後でネロが不快そうに小さく溜息をつく。


「な、何言ってるか分かんないよ。

 何も起きなきゃそれでいいんじゃないのかい?」


 数秒の沈黙の後で声のトーンを落としたリュキスカの疑問はリュキスカとリュウイチの想定する「悪い結果」がそもそも違っていることを示していた。


『いや、その、エルネスティーネさんは赤ちゃんに魔力を持たせたくて、オッパイを貰うんだよね?』


「……まぁ、そうだろうね……」


『それでオッパイ貰って、魔力が得られなければ、それはそれで失敗ってことにならない?』


「……」


『赤ちゃんってのは大切だと思うんだ。

 特に貴族の赤ちゃんってなると余計だろうね。

 その赤ちゃんに魔力を持たせたいと思ってリュキスカからオッパイを貰うんだけど、そこにはその、色々リスクはあると思うんだ。

 多分、エルネスティーネさんもそのリスクは考えてて、だから神官に見てもらうってことになったんだと思う。

 ただ、君が言ったようにフェリキシムスちゃんは大丈夫なわけだし、赤ちゃんが君のオッパイを飲んだせいで具合が悪くなるっていうような心配は、そんなにしなくていいのかもしれない。最悪、私も近くにいるわけだし……』


 そこまで言ってリュウイチは話を止めた。話しているうちに自分が何を言いたいのか分からなくなったのだ。

 カロリーネにリュキスカの母乳を与えた場合、どんな影響があるかはまだ誰にも分からない。フェリキシムスのように魔力を得られるかもしれないが、得られないかもしれない。魔力酔いは想定されているが、それ以外の健康被害は生じないとも限らない。言ってみればこの試みは人体実験だ。

 もしもそれを行い、目論見通りカロリーネが魔力を得られればいいが、魔力を得られなければ、たとえ健康被害が何も無かったとしてもカロリーネ侯爵家令嬢を人体実験に投じたという結果だけは残ってしまう。もしもこのことが明るみになれば、エルネスティーネはその責任を追及されるかもしれない。リュウイチは知らないがエルネスティーネに政敵が居るのなら、それはエルネスティーネ攻撃の好材料となりうるだろう。

 エルネスティーネや家臣団たちはもちろんその責任を回避しようとするだろう。その時、回避された責任は誰の下へ行くだろうか? ……こういう場合、最も立場の弱い人物のところへ向きがちだ。すなわち、それがリュキスカに向くのではないか……リュウイチとしてはそう指摘するつもりだったのだが、言葉を慎重に選びながら話を続けているうちに分からなくなった。特に最悪の場合自分が近くにいるのだからと言ったところで、魔法や万能薬エリクサーを使える自分が居る以上心配する必要はないのではないかと思いつき、それがについての危惧をリュウイチの頭の中から押し流してしまったのだった。


 あれ……心配することなんて何もないってことか???

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