第1346話 リュウイチのせい?

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュキスカは自分の早合点はやがてんからリュウイチを過度に責めてしまったのではないかと慌てた。リュウイチの態度に面白くないものを感じていたのは確かだが、だからといってリュウイチを傷つけるつもりなど無かったのだ。


「何で兄さんが悪いことになんのさ!?

 兄さん関係ないだろ!?」


『いや』


 リュウイチは目を閉じ、思い出したくないことを思い出すように眉間を揉みながらかぶりを振る。


『初めてあの子を連れてきた時のこと、憶えてる?』


「兄さんがフェリキシムスを治してくれた時のこと!?

 そりゃ憶えてるさ!

 あの子はもう死にそうだったのを、兄さんが魔法とポーションで治してくれたんだ!」


 それはリュキスカが絶望の淵から救われた決定的瞬間だった。顔がすっかり土気色になり、呼びかけても全く反応せず、ただ力なく手足も首もしな垂れさせるフェリキシムスが、リュウイチの魔法を受けて生気を取り戻した瞬間は思い出すと今でも目頭が熱くなる。

 生まれた時からフェリキシムスは小さく、他の赤ん坊と比べても酷く弱々しかった。生まれてさして時を経ずして病気にかかり、力の無い咳を繰り返してはただでさえ弱い体力を削っていく様は見ていて苦しかった。他の子は日に日に大きくなっていくというのに、フェリキシムスだけは一向に成長しない。何とかしてあげたい……そう思い続けながらも何も出来ない。借金を重ねながら古くなったポーションを安く譲ってもらい、それを母子で分け合う毎日。それが半年以上も続いたのだ。

 このままではジリ貧だ……それは分かっていた。借金生活だっていつまでも続けられるわけじゃない。エレオノーラの厚意に甘えていられるのも限度がある。せめて借金に頼らなくてもいいようにと、出産後初めての生理が収まった翌日からリュキスカは商売を再開した。それでも金が稼げる保障があったわけではないし、金が稼げたとしてもまずは借金返済……フェリキシムスのために良い薬を買えるのはずっと先になったことだろう。その前にフェリキシムスが、あるいは自分自身が死んでしまう可能性も確実にあった。リュキスカの境遇は絶望の只中にあったのだ。

 それがリュウイチに買われたことで一気に解消された。治る見込みの無かったはずの労咳ろうがいを母子そろって治してもらえ、死神の手に渡りかけたフェリキシムスを取り戻すことができたのだ。リュキスカはそのことを忘れたことなど無い。

 リュウイチは誰にも目を合わせることなく、考え事にふけるように視線を落としたまま話を続けた。


『あの時、赤ちゃんは死にかけてて、病気を治してもそれだけじゃ足らなそうだったんだ。体に体力が残ってなかったから、病気が治っても……。

 だから魔法で魔力を分けてあげようとしたんだ』


「えっと、あの……それって……」


 リュキスカはそれに心当たりがあった。フェリキシムスに魔法を一度かけ終えた後、リュウイチが再び魔法をかけ始めた。その時、フェリキシムスの身体が何回か膨らんだり縮んだりを繰返して見えた。


『うん……マナ・ドレインっていう魔法で、相手から魔力を吸い取ったり、逆に魔力を譲ったりできる。

 ただ、赤ちゃんの身体には私の魔力は強すぎたみたいで、チョットだけ分けるつもりでも赤ちゃんの身体には大きすぎて却って破裂しそうになって、それで慌てて引っ込めたら今度は引っ込めすぎてまた死にそうになって……それを何回か繰り返してしまった……』


「そ、それが原因かもしれないって、ことなのかい?」


 リュウイチが顔を上げてリュキスカを見、互いに目が合う。


『それだけが理由じゃないと思う。

 それが理由なら赤ちゃんが魔力を持つようになるのはもっと早く、多分回復するのと同時くらいに魔力を持っていたと思うんだ。

 ただ、それが理由で赤ちゃんの身体に魔力が宿る下地が出来てしまったのかもしれない』


「じゃ、じゃあアタイのオッパイは関係ない?」


 それを問うリュキスカはどこか拍子抜けた感じだ。もしもリュウイチが言う通りでリュキスカの母乳で魔力を得たわけではないのだとしたら、乳母の話もすぐに立ち消えになるだろう。なんだかんだ言ってリュキスカも良い収入源だと期待していたのだが、効果が無いとなればわざわざリュキスカから我が子に母乳を貰おうとする貴族ノビリタスなど現れはすまい。赤ん坊は母親から母乳を通して知性を譲り受けるという迷信を信じてる者はレーマには少なくないのだから、教養のない貧民街の娼婦を乳母にしようなんて発想なんか出てくるはずもないのだ。エルネスティーネの娘カロリーネに数回授乳して、銀貨数枚稼いだだけで終わるに違いない。

 リュウイチはしかし、真面目くさった顔で首を振る。


『まったく関係ないってことは無いと思うよ。

 さっきも言ったみたいにアレで下地が出来て、そこへ魔力酔いを起こすほど魔力の混ざったオッパイを飲むことでそうなった……ってことじゃないかな?

 ……予想だけどね』


 リュキスカはリュウイチの目を見つめたまま浮かない表情で背もたれへと身体を預けた。

 いずれにせよ、その予想が正しければリュキスカが乳母をやっても授乳した赤ん坊が魔力を得る可能性は低そうだ。リュキスカの乳母業が頓挫するであろうことは確実らしい。


『ただ、それでも赤ちゃんが魔力酔いをするのは確実だ。

 それに健康被害がないとは限らない。

 お酒だって大人が飲むのと子供が飲むのは意味が違うからね』


 リュキスカはハッとして身体を起こした。


「それって、カロリーネ様がどうにかなるってことかい!?」


 そうだ。効果があろうがなかろうがリュキスカがカロリーネに授乳することは決まっている。もしもそれでカロリーネの身に何かあれば、場合によってはリュキスカも面倒なことになるかもしれない。それ以前にフェリキシムスと同じ歳の赤ちゃんが自分の母乳のせいでどうにかなってしまうという可能性の方が、リュキスカにとっては堪えがたかった。もしカロリーネの身に害が及ぶのが確実だというのなら、多少の銀貨など諦めて今からでも話を断らねばなるまい。


『分からない。

 ただ、ノーリスクってことは無いと思う』


エルネスティーネ侯爵夫人様はオッパイ飲ませる時は神官フラメンを同席させるって言ってたよ!?」


 リュウイチは背もたれに上体を預け、呆れたように溜息をついた。


『それだけ覚悟を決めて試したのに結果が出ませんでしたって、大丈夫なのかな?』

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