第1344話 不安と不満
統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐
『それにしても、エルネスティーネさんが……』
リュウイチは両手を顔の前で合わせ、俯くようにその指先で眉間を揉んだ。貴族たちがリュウイチに女をあてがおうと必死になっていたように、おそらくリュキスカにも相応の要求があるだろう……それはもちろん予想はしていたが、リュウイチが対応する前にいち早くエルネスティーネが自ら仕掛けて来ているとは思わなかった。こういうことはてっきりルキウスかアルトリウスの領分だと思っていたからだ。
カール君のことで既に充分こっちに借りを作ってるだろうに……
いや、リュキスカは別口ってことなのか?
侯爵家にはアルトリウシア復興のためにインフレが起きるほどの資金を融資し、カールを病魔から救った。それはエルネスティーネにとってリュウイチからの大きな“借り”になっている筈だ。大きな“貸し”があれば無茶な要求はしてこないだろう……リュウイチがエルネスティーネやルキウスに莫大な銀貨を融資したのは、そうした打算も多少はあった。実際、エルネスティーネからのリュウイチに対する要求はルキウスに比べるとずっと弱い。それはカールを救ったリュウイチへの遠慮ゆえだろうと思われた。が、実際はそうでもない。
もちろんエルネスティーネは既にリュウイチに恩義を感じていたのは事実だし、エルネスティーネからリュウイチにああして欲しいこうして欲しいといった話が持ち掛けられることはほとんどない。が、ではそれがエルネスティーネがリュウイチに遠慮していたせいかというとそうでもない。単にリュウイチへの対応の多くをルキウスに任せていたに過ぎないのだ。
エルネスティーネは
そんなエルネスティーネがリュウイチに過度に密接になれば色々と噂が立つことは避けられないだろう。それはエルネスティーネにとっても、侯爵家家臣団にとっても決して望ましいものではなく、むしろ絶対に避けなければならないことだった。
エルネスティーネにとって一番大事なのは息子カールに侯爵家の家督を譲ることである。亡夫マクシミリアンが遺した全てをカールに引き継がせ、立派な侯爵家の跡取りに育て上げる……それがエルネスティーネの最大の目標だ。男尊女卑社会のレーマ帝国で女の身でありながら属州領主として属州の運営に携わっているのはそれがあるからこそである。それなのにエルネスティーネがリュウイチと過度に親密になったとしたらどうだろうか?
大協約体制下の
エルネスティーネの属州女領主という地位はあくまでもカールが成人して家督を継げるようになるまでの暫定的なものでしかない。侯爵家の出身母体であるハッセルバッハ一族の中でもエルネスティーネが侯爵家当主となることに否定的な者は少なくなく、その地位は決して盤石ではないのだ。そのエルネスティーネが帝国に二心を疑われるようなことになれば、その地位は容易に揺らいでしまうだろう。ただでさえ健康面から将来を不安視されているカールに侯爵家を継がせることなど夢のまた夢となりかねない。
ゆえに、エルネスティーネとしてはリュウイチとの接点を自ら制限し、その対応をルキウスに任せざるを得ないという背景があったのだ。
しかしリュキスカはリュウイチとは違う。リュキスカは降臨者ではなくヴァーチャリア人であり、属州領民でありアルトリウシア子爵領領民でもある。そして何といってもエルネスティーネの正式な
そしてリュキスカもそうである以上、嫌とは言えなかった。エルネスティーネは女領主であり、
「や、やっぱり不味いのかい?」
一回八セステルティウスという報酬は魅力的だ。今のリュウイチの
しかしエルネスティーネが乳母を頼んできたということは、他の貴族からも同じ要請があることが期待できる。エルネスティーネが一回八セステルティウス払うと既に約束しているのだから、他の貴族だって同じ金額を払わざるを得ないだろう。幸い、リュキスカは母乳の出は良い方だ。フェリキシムスは毎回ゲップが出るまで飲んでるが、それでも出し切らなくてある程度自分で絞って捨ててるくらいなのである。一日一回余分に授乳することになっても乳が出なくて困ることにはならない気がする。
だいたいフェリキシムスは離乳食を始めなければならない月齢なのだ。
話を聞いているうちに内心で夢を膨らませはじめていたリュキスカだったが、そのリュキスカとしてもリュウイチの気持ちを裏切るつもりはない。リュキスカは貧乏だったが金への執着はそれほど強くなかった。店でもチップも取らずに給仕をすることもあったし、困ってる友達のために金を使うことを
リュキスカの印象では、リュウイチは自分の考えを……特に自分が不満に思っていることを積極的に言おうとしない。内心では嫌だと思っていても、口では「いいよ」と言ってしまうことがある。表には出さないリュウイチの気持ちを汲んでやるのは、自分に託された役目の一つであるようにリュキスカは考えていた。だからリュウイチが嫌がりそうなことはただ訊くだけではなく、慎重に見極める必要がある。
『いや、それはホントにいいんだ。
ただ、魔力酔いするかもしれないオッパイを貰って赤ちゃんの方は大丈夫なのかなって……気になってね?』
リュウイチは顔を上げて答えたが、その視線は誰も居ない方へ向けられていた。
「
試しに一回だけオッパイ飲ませて、それでもしもダメそうならそれ以上はやらないって……」
『……それじゃ実験じゃないか……』
リュウイチは嘆くように言った。
そんなに魔力が欲しいのか!?
自分の子供が……それも生まれて一歳にもならない赤ん坊が健康被害を被るかもしれない実験をする神経がリュウイチには分からない。
やっぱ
リュキスカは確信するとリュウイチに問い直した。
「や、やっぱり断ろうか!?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます