第1344話 不安と不満

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



『それにしても、エルネスティーネさんが……』


 リュウイチは両手を顔の前で合わせ、俯くようにその指先で眉間を揉んだ。貴族たちがリュウイチに女をあてがおうと必死になっていたように、おそらくリュキスカにも相応の要求があるだろう……それはもちろん予想はしていたが、リュウイチが対応する前にいち早くエルネスティーネが自ら仕掛けて来ているとは思わなかった。こういうことはてっきりルキウスかアルトリウスの領分だと思っていたからだ。


 カール君のことで既に充分こっちに借りを作ってるだろうに……

 いや、リュキスカは別口ってことなのか?


 侯爵家にはアルトリウシア復興のためにインフレが起きるほどの資金を融資し、カールを病魔から救った。それはエルネスティーネにとってリュウイチからの大きな“借り”になっている筈だ。大きな“貸し”があれば無茶な要求はしてこないだろう……リュウイチがエルネスティーネやルキウスに莫大な銀貨を融資したのは、そうした打算も多少はあった。実際、エルネスティーネからのリュウイチに対する要求はルキウスに比べるとずっと弱い。それはカールを救ったリュウイチへの遠慮ゆえだろうと思われた。が、実際はそうでもない。

 もちろんエルネスティーネは既にリュウイチに恩義を感じていたのは事実だし、エルネスティーネからリュウイチにああして欲しいこうして欲しいといった話が持ち掛けられることはほとんどない。が、ではそれがエルネスティーネがリュウイチに遠慮していたせいかというとそうでもない。単にリュウイチへの対応の多くをルキウスに任せていたに過ぎないのだ。


 エルネスティーネは属州女領主ドミナ・プロウィンキアエであるのと同時に四児の母である。早逝そうせいした次男を含め五人の子を産んでいる。が、夫に先立たれた未亡人でもあった。まだ三十歳で地位も財産もあるから再婚しようと思えばできるだろう。リュウイチは肉体こそ二十歳かそこらの青年だが、それは《暗黒騎士ダーク・ナイト》の肉体を借りているからであって中身は四十過ぎの中年だという。三十歳の未亡人の再婚相手としては充分にあり得る組み合わせだ。

 そんなエルネスティーネがリュウイチに過度に密接になれば色々と噂が立つことは避けられないだろう。それはエルネスティーネにとっても、侯爵家家臣団にとっても決して望ましいものではなく、むしろ絶対に避けなければならないことだった。


 エルネスティーネにとって一番大事なのは息子カールに侯爵家の家督を譲ることである。亡夫マクシミリアンが遺した全てをカールに引き継がせ、立派な侯爵家の跡取りに育て上げる……それがエルネスティーネの最大の目標だ。男尊女卑社会のレーマ帝国で女の身でありながら属州領主として属州の運営に携わっているのはそれがあるからこそである。それなのにエルネスティーネがリュウイチと過度に親密になったとしたらどうだろうか?

 大協約体制下のこの世界ヴァーチャリアでは降臨は絶対に防がねばならない禁忌だ。仮に降臨が起きれば、降臨者には速やかに《レアル》へ御帰還願うことになっている。それなのにその降臨者と女属州領主が過度に親密になれば、降臨者の力を利用して鴻鵠の志を抱いているなどと疑われても仕方がないだろう。

 エルネスティーネの属州女領主という地位はあくまでもカールが成人して家督を継げるようになるまでの暫定的なものでしかない。侯爵家の出身母体であるハッセルバッハ一族の中でもエルネスティーネが侯爵家当主となることに否定的な者は少なくなく、その地位は決して盤石ではないのだ。そのエルネスティーネが帝国に二心を疑われるようなことになれば、その地位は容易に揺らいでしまうだろう。ただでさえ健康面から将来を不安視されているカールに侯爵家を継がせることなど夢のまた夢となりかねない。

 ゆえに、エルネスティーネとしてはリュウイチとの接点を自ら制限し、その対応をルキウスに任せざるを得ないという背景があったのだ。


 しかしリュキスカはリュウイチとは違う。リュキスカは降臨者ではなくヴァーチャリア人であり、属州領民でありアルトリウシア子爵領領民でもある。そして何といってもエルネスティーネの正式な被保護民クリエンテスだ。リュウイチの聖女内縁の妻である以上、過度に我儘を押し付けてリュウイチに不快を催させるようなことは流石にできないが、そうならない範囲でならエルネスティーネがリュキスカに遠慮する必要など全く無いのである。

 そしてリュキスカもそうである以上、嫌とは言えなかった。エルネスティーネは女領主であり、上級貴族パトリキであり、女保護民パトローナだ。被保護民は保護民の頼み事は基本的に断れない。


「や、やっぱり不味いのかい?」


 一回八セステルティウスという報酬は魅力的だ。今のリュウイチの夜伽よとぎを務める専属娼婦として貰うことになっている日当の半分に匹敵するのだから、毎日やれれば収入が一・五倍になる計算だ。まあ、週末に侯爵一家がマニウス要塞カストルム・マニに来ている時だけという話なので毎日とはならないだろう。

 しかしエルネスティーネが乳母を頼んできたということは、他の貴族からも同じ要請があることが期待できる。エルネスティーネが一回八セステルティウス払うと既に約束しているのだから、他の貴族だって同じ金額を払わざるを得ないだろう。幸い、リュキスカは母乳の出は良い方だ。フェリキシムスは毎回ゲップが出るまで飲んでるが、それでも出し切らなくてある程度自分で絞って捨ててるくらいなのである。一日一回余分に授乳することになっても乳が出なくて困ることにはならない気がする。

 だいたいフェリキシムスは離乳食を始めなければならない月齢なのだ。労咳ろうがいわずらっていたせいで成長が遅れているが、それでももうすぐ乳離れしなければならなくなる。だったらこのまま貴族たちの赤ん坊の乳母を務めれば、リュキスカのもう一つの収入源になるだろう。

 話を聞いているうちに内心で夢を膨らませはじめていたリュキスカだったが、そのリュキスカとしてもリュウイチの気持ちを裏切るつもりはない。リュキスカは貧乏だったが金への執着はそれほど強くなかった。店でもチップも取らずに給仕をすることもあったし、困ってる友達のために金を使うことを躊躇とまどったことだってないのだ。リュウイチが嫌だというのなら今からでもエルネスティーネの申し出を断るつもりはある。

 リュキスカの印象では、リュウイチは自分の考えを……特に自分が不満に思っていることを積極的に言おうとしない。内心では嫌だと思っていても、口では「いいよ」と言ってしまうことがある。表には出さないリュウイチの気持ちを汲んでやるのは、自分に託された役目の一つであるようにリュキスカは考えていた。だからリュウイチが嫌がりそうなことはただ訊くだけではなく、慎重に見極める必要がある。


『いや、それはホントにいいんだ。

 ただ、魔力酔いするかもしれないオッパイを貰って赤ちゃんの方は大丈夫なのかなって……気になってね?』


 リュウイチは顔を上げて答えたが、その視線は誰も居ない方へ向けられていた。


エルネスティーネ侯爵夫人様は神官を同席させて様子を見るって言ってたよ?

 試しに一回だけオッパイ飲ませて、それでもしもダメそうならそれ以上はやらないって……」


『……それじゃ実験じゃないか……』


 リュウイチは嘆くように言った。


 そんなに魔力が欲しいのか!?


 自分の子供が……それも生まれて一歳にもならない赤ん坊が健康被害を被るかもしれない実験をする神経がリュウイチには分からない。


 やっぱリュウイチ兄さんは不満なんだ!


 リュキスカは確信するとリュウイチに問い直した。


「や、やっぱり断ろうか!?」

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