第1343話 乳母の要請

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 身を乗り出したリュキスカの表情はすがるようだった。リュキスカにしても自分の母乳を介してフェリキシムスが魔力を得たとしか考えられなかったのだ。魔力なんて常人には勝手の分からない問題で自分に原因があるかもしれず、しかもそのせいで子供がどうなるか分からないとなれば救いを求めたくなるのも当然だろう。リュウイチは思わず目をらせる。


『それはまだ、何とも言えない』


「だって、アタイ以外考えられないじゃないさ!?」


 迫るリュキスカにリュウイチは両手をかざして落ち着くよう促した。


『それは原因の一つかもしれないけど、全てじゃないかもしれない。

 まだ本当に何とも言えないんだ』


「だって、だってさぁ……」


『昔は必要も無いのにマナ・ポーションを飲んで魔力酔いを愉しむ貴族もいたそうだよ。

 でも、そんな貴族たちの中で魔力を得た人はいないそうだ。

 オッパイが原因だっていうなら、マナ・ポーションで魔力酔いしていた貴族たちも魔力を持ってなきゃおかしいだろ?

 いたら貴族たちはこぞってマナ・ポーションを飲んで魔力を得ようとしただろうね』


 リュキスカは半ば浮かしかけていた腰を落ち着かせる。

 リュウイチがルキウスたちに聞いた話では、マナ・ポーションで魔力酔いを起こして楽しむ貴族というのは世界大戦前は本当にいたのだそうだ。飲酒と同じような酩酊めいてい状態を味わえる上に飲酒のような健康被害も無いというので、財力にモノを言わせてマナ・ポーション・パーティーに興じた貴族の記録は世界各国に残っていたりする。だが、そうした貴族たちの中で魔力を得た者はいない。であるならば、魔力を含んだ母乳のせいで赤ちゃんが魔力を得たと決めつけるのは、リュウイチが言うように早計であろう。


『まったく無関係とも決めつけられないけど、オッパイだけが原因じゃないことは確かだと思う。

 ………えっと

 ……一応確認するけど、フェリキシムスは普通の人の子だよね?』


 リュウイチは一瞬躊躇ためらってからフェリキシムスの父親について尋ねた。


「父親のことかい!?

 ……そりゃ、客の誰かだろうからさ、分かんないけど……

 普通の人だと思うよ?

 まさかリュウイチ兄さんのほかに降臨者様なんていたってんなら話は別だけど……」


 フェリキシムスの父親は誰にも分からない。火山災害後の混乱したアルビオンニウムでまともな避妊薬リジアスが手に入らなくなっていたにも関わらず商売を続けていた時にできた子だ。その時にとった客の一人がたまたま降臨者やその末裔まつえいだったなんていくら何でも話が出来過ぎだろう。大戦争末期に降臨者はすべて《暗黒騎士ダーク・ナイト》によって駆逐されている。その多くは殺され、数少ない生き残りもゲイマーとしての力を失って只の人になりおおせていたのだ。そして戦後に生まれた降臨者の子供たちは全員がムセイオンに収容されている。にもかかわらずアルビオンニウムで誰にも知られていない降臨者の生き残りかその末裔がリュキスカを買い、その子を宿したリュキスカが出産後に最初にとった客がリュウイチだというのだとしたら、その可能性は恐ろしく天文学的数字になるに違いない。そんな非現実的な可能性など無視して良い。


『ともかく、こっから真面目に聞いてほしいんだけど……今回のことで普通の子でもリュキスカのオッパイを飲めば魔力を得るかもしれないって、貴族たちが思うかもしれないんだ』


 リュキスカは目を丸くし、背を伸びあがらせた。


「それでか!」


『何?』


 リュウイチの声に我に返ったリュキスカは目を泳がせてから躊躇ためらいがちに答えた。


「いや、さっき……朝食イェンタークルムで……」


『朝食で?』


エルネスティーネ侯爵夫人様に持ち掛けられたんだよ」


『何を?』


 リュウイチに問われるたびに身体を少しずつ縮こませながら、リュキスカは申し訳なさそうに答えた。


「カロリーネ様にオッパイあげてくれないかって……」


 リュウイチは驚き、声こそ出さなかったが目をわずかに見開いた。

 貴族たちは魔力を持つ聖貴族を増やそうとしている。この世界ヴァーチャリアで文明を発展させるには、魔力を持つ聖貴族たちの力で精霊たちを制御しなければならないからだ。鉄も、陶磁器も、ガラスも《火の精霊ファイア・エレメンタル》の協力なしには作れない。魔法薬ポーションの精製にはマンドラゴラをはじめとする魔法植物が不可欠で、その栽培には《地の精霊アース・エレメンタル》の協力の有無が大きく影響する。砂漠やその周辺地域などでは、《水の精霊ウォーター・エレメンタル》や《風の精霊ウインド・エレメンタル》の加護が無ければ生活環境を維持できないところもあった。自国に、自領にどれだけ有力な聖貴族を増やすことができるかが発展の原動力となるのだ。

 それもあってルキウスやアルトリウスなどはリュウイチに子を残してほしいとストレートに要求してきている。リュウイチにルクレティアをめとらせようとする彼らの画策はリュウイチだって気づいていた。最初はそれほど本気じゃないだろうと高をくくって時間稼ぎに徹していたら、気づいたら婚約が成立してしまっていたほどだ。今はリュキスカが居るから「他に女は要らない」と言ってこれ以上女を押し付けようとする彼らの企みを防げてはいるが、実はリュウイチの知らないところで貴族たちはリュキスカが調達するよう頼んでいる避妊薬をなんとか渡すまいと色々小細工を重ねていた。今はまだ手持ちの分があるから問題は無いが、いずれ無くなればリュキスカは遠からずリュウイチの子を宿すことになるだろう。


 そんな貴族たちがリュウイチに女をあてがわなくてもリュキスカから授乳して貰えれば自分たちの子を直接聖貴族に仕立て上げることが可能かもしれないと知ったら……リュウイチがそのことに気づいたのは昨日の、会議場で発表を行った後のことだった。おそらく貴族たちからリュキスカへ何らかのアプローチがあるだろう、それに備える意味もあって今日この場にリュキスカを呼んで話をしたわけだが、どうやら遅かったようである。

 カロリーネはエルネスティーネの末っ子で、まだ一歳にもならない乳幼児だ。リュキスカから母乳を貰って聖貴族に仕立て上げるには一番都合がいい存在だろう。


『それでその話、受けたの?』


「ああ、うん……アタイも『アタイでいいの?』って何度も訊いたんだけどさ。

 『大丈夫だから』とか言われてさ……

 その……銀貨もくれるって言うしさ?」


 赤ん坊は母親から母乳を通して知性を授かると一部で信じられており、貴族たちは自分たちの子供の乳母に教養のある女性を選ぶ。このため、高貴な貴族の乳母に選ばれるというのは女性にとって大変名誉なことだった。それもあって教養などまったく縁遠いと自覚していたリュキスカはエルネスティーネの申し出を丁重に断っていたのだが、エルネスティーネがカロリーネを連れてコチラに来ている時だけでいいから、試しに一回だけでもいいからとしつこく頼み込んできたうえに授乳のために報酬も出すと言って来たので了承していた。もっとも、報酬として銀貨を提示されてからはリュキスカもすっかり乗り気にはなっていたのだが……。


『うーん……』


「い、今からでも断った方がいいかい?」


 頭を抱えて唸るリュウイチにリュキスカが不安げに尋ねた。リュキスカにとってエルネスティーネとルキウスは保護民パトロヌスであり、忠誠の対象である。だが、彼らよりも自分と息子の命を救ってくれたリュウイチの方がリュキスカにとってはより重要だ。どちらかを選べと言われたら迷うことなくリュウイチの方を選ぶ。そのことはエルネスティーネやルキウスも承知の筈だ。

 リュキスカは知らなかったというのもあるが、銀貨を提示されてカロリーネがマニウス要塞カストルム・マニに来ている時だけ乳母を務めることを引き受けた。そのせいでカロリーネが魔力酔いを起こすかもしれないというリスクはもちろん前もって断ってある。


 大丈夫よ。魔力酔いって別に健康には影響ないんでしょ? 大丈夫、一度だけ。試しに一度だけでいいからカロリーネに御乳をちょうだい? わかった、神官を同席させるわ。それでどう? 神官に危なくないかどうか診てもらいながら御乳をあげるの。それで問題があるなら私も諦めます。もちろん私の子ですもの、どうなってもいいなんて考えないわ。大事な子よ。ええ末っ子ですもの、娘たちの中でカロリーネが一番可愛いくらいだわ。でも神官立ち合いで御乳をあげて、それで問題無ければいいでしょ? マニウス要塞こっちに来ている間だけでいいのよ。ええ、本来の乳母はちゃんと居るわよ? ただ彼女は乗り物に弱いの。馬車に揺られてこちらに来るとだいぶ参ってしまうのよ。だからリュキスカ様、こちらに来ている間だけ、彼女の代わりにカロリーネの乳母になってほしいの…… 


 そして提示された報酬が一回で銀貨二枚……八セステルティウスだ。ハッキリ言おう、破格の報酬である。リュキスカが娼婦として頑張って働いても一日で稼げるかどうかという金額だ。それを授乳一回で貰えるというのだ。どう考えてもボロ儲けである。さすがに話が美味しすぎてリュキスカも却って訝しんだものだが、断る理由もそれ以上思いつかなかったので引き受けざるを得なかった。

 今考えれば納得ではある。エルネスティーネはカロリーネを魔力持ちの聖貴族にしたいのだ。


『いや、ダメっていう理由は無いよ』


 リュウイチが逡巡しゅんじゅんの末にそう答えると、リュキスカはホッと息をついた。

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