第1341話 リュキスカ動転

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 不満げに言ったリュキスカの、誰も居ない方へ向けられた顔は笑っているように見える。だがその目を見れば笑っているわけではないことは明らかだ。


『その……さっきも言ったけど、具合が良くなってから説明しようと思ったんだ。

 ホントは確かに、前もって言ったからにすべきだったんだけど、大きな事故が起きたらいけないから急いだほうがいいだろうって……』


「ああん、もういいよ!」


 リュキスカはリュウイチの言葉を遮ると手を額に当て、頭痛でも堪えているかのように顔を伏せる。


「別に怒ってるわけじゃないのよ。

 兄さんは悪くないさ、アタイだってそれくらい分かってる。

 ありがとよ、ウチの子のために精霊エレメンタル様を使ってくれたんだ。

 感謝してるよ。

 アタイも助かったさ。

 たださ……」


 まくし立てるようにそこまで言うとリュキスカは言葉に詰まってしまった。そこからしばらく無言で考え、身体を起こし、正面からリュウイチを見据える。手が降ろされて露わになったリュキスカの目は何故だか歪んでいた。瞳は潤んでキラキラ光って見える。そのリュキスカの顔がニィッと笑い、次の瞬間リュキスカは首を振った。


「アハッ、ゴメン、アタイも何言いたいのか分かんなくなっちまった」


 笑顔のまま指先で涙を拭うリュキスカにリュウイチは何と声をかけたらいいか分からなかった。そもそもリュキスカが何をどう考えていて今どんな気持ちなのかサッパリ分からない。リュウイチはボリボリと頭を掻いた。


『……すまない』


「謝らないで」


 相手が不機嫌になってどうしようもなくなるとひとまず謝ってしまうのはリュウイチの悪い癖である。が、それはリュキスカの神経を逆撫でしてしまったようだ。顔から手を降ろしたリュキスカの表情に先ほどの笑みは無い。リュウイチは反射的に謝ってしまった。


『すまん』


「謝んないでって言ってんでしょ!?」


 まっすぐ睨みつけての怒号にリュウイチは思わず目を見張る。


「兄さんは何も悪くないじゃないさ!?

 謝る必要ないでしょ!

 何で謝んのよ!?」


 目を見開いて固まってしまったリュウイチを尚も睨みつけるリュキスカに優しくそよ風が吹きつける。荒ぶる感情を落ち着かせる癒しの風……《風の精霊ウインド・エレメンタル》のスキルだ。が、気を利かせた《風の精霊》にもリュキスカは噛みついた。


「やめて!!」


 空中を漂う小さな旋風つむじかぜの塊に向かってリュキスカが吠える。


「余計なことしないで!

 今、別にそんな気分じゃないのよ!!」


 《風の精霊》がリュキスカに何を思ったかは周囲の者には分からない。不可視の風の塊から表情をうかがい知ることなど出来ないからだ。だがリュキスカに吹き付けていた風は即座に止んだ。


「何さ!?」


 リュキスカは今度はネロに吠え掛かる。理不尽に感情を爆発させるリュキスカにネロは嫌悪感を隠し切れなかったのだろう。その視線にリュキスカは鋭敏に反応したのだ。ネロは上官に叱られた兵士のように反射的に真正面に視線を向け、直立不動の姿勢をとる。

 ネロはリュキスカのことを嫌っている。リュキスカはそのことを前々から気づいていた。リュキスカのことを凄い形相で睨んでいることがよくあったからだ。が、互いの立場もあってお互いに何も言わないでいた。そして積りに積もっていた分がリュキスカをネロへの追い打ちへと駆り立てる。


 ドンッ!


「何か言いたいことがあんだろ!?

 言いなよ!

 ホラッ!!」


 拳をテーブルに叩きつけ、リュキスカがネロを挑発する。だが内心で軽蔑している異種族の女がどれほど怒って見せたところでネロがビビることはない。男が本気で怒る女を恐れるのは相手を異性として見ているからだ。ネロはホブゴブリンでヒトの女を異性として見ることはありえなかったし、また貧民街の娼婦を異性として意識することも無かった。むしろ腹の底から軽蔑していたのだ。


「何もありません!」


 ギリギリと歯を食いしばって睨み上げるリュキスカにネロは動じる風も見せずに前を見続ける。規律……それを体現して見せることがリュキスカのような自由奔放な女に対して一番の嫌がらせであることがネロには本能的に分かっているのだ。リュキスカはリュキスカでネロがテコでも動かないであろうことに気づいていた。それが余計に悔しさを増幅する。

 その時、リュキスカはもう一つの視線に気づいて部屋の入り口の方へ眼を向けた。そこにはロムルスが唖然とした表情で突っ立っていたが、リュキスカの視線が自分に向けられたことに気づくとロムルスはパッと直立不動の姿勢をとり、まっすぐ天井を見上げ、我関せずの姿勢をアピールする。ロムルスは実戦経験もある古参兵だったが、人間同士の私的な修羅場というのが苦手な小心者であり、面倒ごとを見るのは好きなくせに巻き込まれることは嫌う傾向がある。


『リュ、リュキスカ……』


 周囲の人間、誰彼構わず噛みつくリュキスカはまるで狂犬そのものだ。さすがに見かねたリュウイチが声をかけると、リュキスカは悔しそうに視線を落とし、肩を震わせる。


「ご、ごめん……」


 しばらくの沈黙の後、今度はリュキスカが謝った。


「アタイ……ホントに、兄さんは悪くないんだよ。

 分かってんだ、それは……

 ただアタイ……アタイはさぁ……」


『ああ、気が動転したんだ。

 そうだろう?

 大丈夫、気にしてないよ』


 リュウイチがそう言うとリュキスカはうつ向いたままコクンと頷いた。

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