乳母の話

第1338話 “お話し”を前に……

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 朝食の時間が終わり、ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵とその息子アルトリウス子爵公子が退出した後もリュウイチは一人で食堂トリクリニウムに残っていた。リュキスカと話をするためである。


 今日は日曜日だ。ティトゥス要塞カストルム・ティティからエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人が息子カールと日曜礼拝を共にするために家族を引き連れて昨日から来ており、昼前ぐらいにはティトゥス教会の聖職者も来る予定だ。聖職者たちはリュウイチのことを知らないので、リュウイチは彼らに姿を見られないようにする意味もあって、昼前に要塞司令部プリンキピアへ移動して週に一度の報告会に出席する。

 リュウイチはハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件の被害を受けたアルトリウシアの復旧復興に莫大な資金を無利子で融資しているため、その進捗状況について報告するというのが報告会の趣旨だ。が、それは昼食会(昼食を摂る習慣の無いレーマ貴族たちにとっては御茶会)も兼ねていて、回を重ねるごとにレーマ貴族たちとの懇談・懇親に比重が傾きつつある。

 レーマ帝国には元老院セナートスがあり一応共和制ではあるが、レーマ本国以外の属州の多くは実質的に君主制に近い政体をとる。アルビオンニア属州もほぼ君主制だ。よって、複数の官僚が同時に集まって会議を開くということはあまりなく、このような報告会を毎週催すということ自体にレーマ貴族たちはあまり慣れておらず、不慣れゆえに色々ととどこおる場面もあったために本旨ほんしである進捗状況の報告に時間をとられていたのだが、回を重ねて要領が分かって来ると報告がだいぶスムーズに行われるようになり、その分時間が余るようになったのだ。しかし、日曜礼拝のために来ている聖職者たちが帰るまではリュウイチを陣営本部プリンキパーリスに返すわけにもいかないので、余った時間は貴族たちとの雑談に費やされるようになってきていたのである。


 その場にはリュキスカも同席する。やはり聖職者の目に留まれば後で面倒なことになるとも限らないからだ。リュキスカ自身はこの世界ヴァーチャリアの人間だしアルトリウシアの領民だし別に見つかっても良いんじゃないかとは思っていたが、彼女自身は自覚してないが実はリュキスカは知らない間に有名人になっていた。

 ヒト種の中ではアルトリウシアで一番人気の娼婦ベルナルデッタと客を取り合って勝ち、そのまま客にさらわれて《陶片テスタチェウス》から姿を消した娼婦……リュキスカはアルトリウシア中の噂の的になっていたのである。もちろんリクハルド・ヘリアンソンらの努力により噂は徐々に鎮静化しつつはあるが、一時はアルトリウシアで知らぬ者の無いほど騒がれたのだ。一度広まった噂が忘れ去られるには一か月は短すぎる。ましてリュキスカは結構目立つ、特徴的な容貌ようぼうを持つ美女だ。痩せて引き締まった身体に不釣り合いなほど発達した胸と尻。ランツクネヒト族が圧倒的多数派のアルビオンニアでは少数派のレーマ人なうえ、おそらく南蛮人の血が入っていると思われ、エキゾチックな顔立ちをしている上にレーマ人女性には珍しいほどの長身。噂好きの者が見ればたとえリュキスカ本人を知らなくても「ひょっとして」と気づかれるかもしれない。

 というわけで、リュキスカもまた陣営本部からの外出は許されていなかったし、外から聖職者を招き入れる際は人目を避けるためにもリュウイチと共に要塞司令部へ移動しなければならなくなったのだった。


 とはいってもリュキスカにとって報告会の中身などあまり興味は無い。もちろん自分が住んでいた街のことは色々気にはなるが、彼女のいた《陶片》地区はアルトリウシアで最も被害を受けなかった地域だったし、そもそも話の内容がリュキスカの知りたいような内容ではなかった。物資の調達率がどうの、物価指数がどうのと言われてもピンと来ない。実に退屈極まりない。

 そして貴族たちの方もリュキスカのことは正直言って持て余していた。何せ、父親が誰かも分からぬ娼婦の娘、礼儀作法など修めているわけもないし話が通じるかどうかも怪しい。このため貴族たちもリュキスカはそれこそリュウイチ以上に腫物はれものにでも触れるように扱い、積極的に話しかけたりはしなかった。


 しかし、それも今日からは変わることが予想される。


 リュキスカは降臨者リュウイチになり、更にアルビオンニア属州で最高位の聖貴族であるルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアを上回る魔力まで得たことで、まごうことなき聖女サクラとなった。最早誰もがリュキスカを貴婦人パトリキアとして扱わざるを得なくなったのだ。それでも「勝手の分からぬ相手」として距離を置かれていたのだが、昨日リュウイチによってリュキスカの母乳で育てられた赤ん坊フェリキシムスも魔力を得たことが知られてしまう。

 フェリキシムスはリュウイチが降臨する前に生まれた子供。よって、降臨者の血を引いているはずがない。魔力無き只人ただびとの筈なのにリュキスカの母乳を飲んでいたためにわずか一か月も経たないうちに精霊エレメンタルを動かすほどの魔力を得た……それは貴族たちにとって衝撃的な事実だった。


 もしも自分の子、あるいは親戚の子にリュキスカ様から授乳していただければ、その子も魔力を得られるのでは!?


 報告を聞いた全員が頭に思い浮かべたのはソレである。

 これまで魔力を持つ子を儲けるには、降臨者やその子孫らと婚姻関係を結んで子を産ませるか、あるいは降臨者の共をして冒険するかだった。後者の方法は降臨者が居なくなってしまっていたし、今や大協約によって事実上禁じられているため現実的ではない。前者の方法もまずはムセイオンの聖貴族かリュウイチに女をあてがい、子を産ませてもらうしかないが、ムセイオンに伝手つてのある貴族などアルビオンニア属州にはルクレティアの父ルクレティウス・スパルタカシウスぐらいしかいないうえに、そのルクレティウスにしたところで聖貴族との縁談をセッティングできるほどのコネクションは無い。身近なところにはリュウイチが居るが、リュウイチはリュウイチで女はリュキスカ一人で充分と言い出す始末。

 せっかく降臨者リュウイチが手の届くところにいるのに、一族にその血を貰うことができずに困っていたところへこのニュースだ。


 リュウイチ様に子を残してもらうより、リュキスカ様に母乳を頂いた方が早い!


 おそらく貴族たちはリュキスカに積極的にアプローチし始めることだろう。成功すれば一族の中から魔力を持つ聖貴族を輩出できるのだ。そうなれば一族の繁栄は間違いない。

 だが、肝心のリュキスカ本人はまだ何も知らない。自分の息子がそんな魔力を持ってしまったことすら気づいていなかった。何も知らないまま貴族たちのアプローチを受けては流石にまともに対応できないだろう。


 よって、リュウイチは要塞司令部に行く前に、リュキスカに会ってフェリキシムスが魔力を持ってしまったことやその理由と、これから起こりうることについて話をしておく必要があった。あと、昨日申し出があった女奴隷グルギアの献上についても話しておかねばならないだろう。


 リュウイチはちょっと緊張していた。リュキスカの人生を大きく狂わせてしまっているかもしれないという自覚はもちろんあったし、グルギアの判断をリュキスカに丸投げしてしまった自分の無責任さ、卑怯さについても自覚があったからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る