第1331話 需要

統一歴九十九年五月十二日・朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 朝食イェンタークルムを終えるとカールは食堂トリクリニウムを後にした。日曜礼拝の前に風呂に入り、身だしなみを整えるためである。ティトゥス教会から来る聖職者たちはカールがリュウイチの魔法で回復したことを知らない。今もカールはベッドの上から動けないと思っている筈だ。それなのに朝食前に庭園ペリスティリウムを歩いて汗をかいたままでは不味いだろう。カールはいつものように詰め込み過ぎたせいでポッコリと膨らんだ胃の辺りをさすりながら、ミヒャエルに支えられるようにして風呂へ向かった。

 残された大人たちは食後のカフェをたのしんでいる。カールは事情があって早めに切り上げたが、貴族ノビリタスは食事にゆったりと時間をかけるものだ。こうして貴族が食堂でゆっくりしている間に、使用人や奴隷たちが寝室クビクルムを始め屋敷のあちらこちらを掃除させるためである。貴族が居る前で掃除だの何だのと作業をすれば、色々と面倒も多くなるだろう。互いに見られたくないし見たくないということが多々あるのだ。使用人たちがきちんと仕事をするために、家内で要らぬトラブルをおこさないために、良い貴族は食事に時間をかけるのである。

 そのことを知らなかったリュウイチは当初、食後に一人で食堂に居座り続けていることが妙に落ち着かず、食堂から自室へ帰ろうとしてしまい、奴隷たちや使用人たちを大いに慌てさせてしまったことがあった。今ではそれが却って周りの迷惑になることを理解してしまっていた。それからは食後にカフェを愉しむことを仕方が無い事だと受けいれることができるようになっていたし、今ではそれを楽しむ余裕も出来てきたように思える。今日に限って言えばルキウスとアルトリウスが同席しているので、無理にお茶を楽しんで見せているということもない。


カール侯爵公子閣下も随分と大きくなられた。

 正直、見違えましたよ」


 ルキウスが茶碗ポクルムに満たされた香茶を見下ろしながら、しみじみと語った。

 ルキウスの感想は当然かもしれない。カールは実際、比喩ではなく、身体が急激に成長しつつある。これまで病でベッドから起き上がれなくなっていたカールの筋肉はかなりやせ細っていた。それがリュウイチの魔法で病から回復し、光属性ダメージを無効化する防御魔法によって日光を浴びれるようになってから積極的に運動するようにもなっているのだ。カールの身体には急速に筋肉が付き始めており、まだ同年代の子供に比べるとかなり細いが手足の筋肉は常にパンパンに張っている。フニャフニャだった姿勢も体幹を支える筋力が強くなったことでシャンと背筋が伸びるようになっており、先月までのカールしか知らない者が見たら同一人物か疑いたくなるほど体格が発達して見えているのだ。腰痛のために一週間以上カールの姿を見てなかったルキウスからすれば、その変化は顕著に見えた事だろう。


サウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの動静、シュバルツゼーブルグの事情、あの年でああも理解が深いとは将来が楽しみですな」


 アルトリウスはルキウスの感想に相槌を打ったが、ルキウスとアルトリウスでは評価するポイントが違ったようである。ルキウスは思わず苦笑した。


「私は身体のことを言ったんだがね?

 しかし、アルトリウスおまえの言うことも、そうだな」


 一人眉を持ち上げたアルトリウスを無視してルキウスはリュウイチの方へ話を振った。


「彼の侯爵公子としての自覚は随分強くなったようだ。

 これもリュウイチ様のおかげです、御礼申し上げますぞ」


『いえそんな!

 それはさすがに買いかぶりでしょう』


 リュウイチは慌てて否定する。しかしルキウスはそのままのペースで続けた。


「先月までの彼なら、あそこまで話題が膨らむことはなかったでしょう。

 無論、彼も男の子だ。戦事いくさごとには昔から興味はありました。

 サウマンディア軍団レギオー・サウマンディアが来ていると聞けば、興奮して詳しく知ろうとはしたでしょう。

 しかし、『サウマンディアは何でそこまで助けてくれるのですか?』などという質問はおそらくしなかったはずだ。

 次代の属州領主ドミヌス・プロウィンキアエとしての自覚が出て来たことの証左……私はそう見ています」


『それは、あの家庭教師、ミヒャエル君でしたか?

 彼の教育の賜物たまものではありませんか?』


 ルキウスはフッと小さく笑い、「そうかもしれませんな」と引いて見せた。リュウイチは遠慮深い、褒められることやおだてられることに罪悪感を感じているような節さえ見える。あまり感謝を押し付けるのは得策ではない……ルキウスやアルトリウスはそのことに気づきつつあった。だからと言ってどう接するべきかはまだ試行錯誤の途中ではあったが……。

 香茶を一啜りすると、ルキウスは茶碗を降ろしてリュウイチの方へ向き直る。


「しかし、カール侯爵公子閣下が知りたがっていたことについて、我々も同じように知りたいと思っているのですよ」


『と、いいますと?』


 リュウイチは思わず身構え、香茶を啜った。


カエソー伯爵公子閣下がこれからどうするかです」


 ルキウスの示した疑問にリュウイチは苦笑いするしかなかった。


『さすがにそれは私にも分かりません』


「ルクレティア様の早期帰還についての要請は今日、早ければ昼頃に届くでしょう。

 マルクスウァレリウス・カストゥス殿もそれに間に合うように追いかけてる。

 カエソー伯爵公子閣下が今後の方針を決めるとしたら、その後になる筈……」


 リュウイチが否定するのを補佐するようにアルトリウスが横から説明した。ルキウスは顔をわずかに顰めて首を振る。


「未来に何が起きるか教えてくれと頼んでいるわけではありませんよ。

 それが出来ないのは百も承知……私としてはカエソー伯爵公子閣下がどういう決断を下すか、それを予想する材料を欲しているのです」


 ルキウスが言うとアルトリウスは口をへの字に結び、リュウイチは『それはそうなんでしょうね』などと小声でつぶやきながら頭を掻いた。


「向こうで何が起きたか……我々が知るのは早くてもその翌日です。

 グナエウス砦ブルグス・グナエイのような近場でさえそうだ。

 しかし、リュウイチ様は居ながらにして向こうの様子を知ることがお出来になる。

 いや、羨ましい限りですな」


 アルトリウスは神妙な顔つきで身体を乗り出した。


「いけません養父上ちちうえ

 リュウイチ様のその力を借りるのは、『《レアル》の恩寵おんちょう独占』になってしまいます」


 ルキウスが言ったようにこの世界ヴァーチャリアでは通信が発達していない。手紙のやり取りは主にタベラーリウスと呼ばれる飛脚……早馬に頼っている。それより早い通信と言えば伝書鳩だが、これは長文を送れない上に事故で通信が届かないことも少なくない。最速は狼煙のろし腕木通信うでぎつうしんなどだが、機密保持性に問題があるし、夜間や天候による視界不良では通信そのものが出来ない。一番堅実な早馬は速度が限定され、グナエウス砦で何が起こったかを知るだけで半日以上かかる。その点、リュウイチの念話なら一瞬だ。居ながらにして向こうの精霊エレメンタルと会話ができるのだ。

 しかしそれは大協約の禁じる《レアル》の恩寵の独占禁止に明確に抵触する。リュウイチの能力は《レアル》の恩寵そのものなのだから、それを自分たちのために利用させろと要求するのは流石に不味い。

 ルキウスは不満げにフーッと溜息をついた。


「私は『知りたい』とも言ったし『羨ましい』とも言った。

 だが、その力で向こうと通信させろと言った覚えはないよ」


「そんな言い訳はさすがに通用するわけないでしょう!?」


 アルトリウスの見るところ、ルキウスはどうも法律だの規律だのと行った者に対してところがある。今のもそうだ。後でバレれば必ず不味いことになりそうなことでも、バレなければ問題ないと割り切ってしまうのだ。


「やれやれ、駄目なようだ」


「当然でしょう!?」


 お道化て見せるルキウスにアルトリウスが不満そうに嘆息する。だがルキウスは全くこりていないようだった。さすがにこれ以上要求してくることはないが、悪びれることなくウインクしてみせた。


「しかし、リュウイチ様。

 遠くで起きたことをいち早く知るのは武器になります。

 それを知りたいものにとっては得難い商品にもなりましょう。

 憶えておいて、損はありませんぞ?」

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