混迷の醸成
イェンタークルム
第1322話 リュキスカの目覚め
統一歴九十九年五月十二日・早朝 ‐
長くなり始めた初冬の夜はまだ明けきらない。陽は
早朝というよりは深夜から働き始めるパン屋、まだ暗いうちから働き始める農家や漁師、空が白みだす頃に起き出して主人の朝の準備を始める奴隷や使用人たち……人々の営みを支える彼らの仕事は、彼らによって生活を支えられている人々が起き出すよりも前から始まるのだ。
そんな朝早くから仕事を始めねばならぬ立場の一人……オトは
水盤の水は中庭の
「ぶふぅ~~~、冷てぇ!」
思わず唸るように独り
寒冷なアルビオンニア属州では例外的に温暖なアルトリウシアとはいえ、五月も中旬となった今では水も身を切るように冷たかった。目を覚ますにしても冷たすぎるほどである。同じゴブリン系種族でもブッカやコボルトなら苦にもならない程度だそうだが、ホブゴブリンのオトには堪えがたい。ただ顔を洗っただけでもう指が
オトは一瞬で指の動きの鈍くなってしまった手で首にかけた
「おはようございます、オトさん」
仲間たちを憂いながら未だにゴルディアヌスとアウィトゥスが眠っているであろう奴隷部屋の扉を眺めて重い溜息をついていたオトに背後から声がかかった。振り返るまでもなく、ルクレティアの使用人たちである。
「ああ、おはようございます」
オトが振り返って挨拶すると予想通りの女たちが立っていた。まだ互いの顔をハッキリと見分けられるほど明るくはないが、オトと共にリュキスカの身の回りの世話をすることを命じられた者たちで、これまでも何度も一緒に仕事をしているから顔がハッキリ見えなくても何となく見分けがつく。女性の身の回りの世話をするのに男のオトだけでは不都合も多いだろうとルクレティアが差し向けてくれた使用人たちで、本来なら彼女たちはリュキスカが身だしなみを整えるのを手伝ったりするのが役目なわけだが、実際にはオトと彼女たちの間にそれほど厳密な役割分担があるわけでもなかった。
リュキスカは女だがヒトだ。それも元・娼婦であり、身の回りのことは多少は娼婦仲間と助け合うことはあるものの基本的に全部自分でやっていた。なので彼女たちが来ても特に彼女たちの手を借りて身だしなみを整えるということはなく、オトも男とはいえホブゴブリンであることもあって互いに異性として意識する部分はさほどない。もちろん、リュキスカがナーバスになっている時はオトが男であることを理由に部屋から追い出されることはあるが、そういう時の扱いは彼女たちも同じようなものだった。このため特に女たちがリュキスカの身の回りを、オトが力仕事をというような役割分担はあまり明確ではなくなっている。まあ、それでも女性がやった方がいいだろうというようなことは彼女たちが、そうではない仕事はオトが積極的に手を出すという程度にはなっているが・・・・
「では参りましょうか?」
「よろしくお願いします」
互いに挨拶を交わすといつものようにオトと彼女たちは連れ立ってリュキスカの部屋を目指した。
通常であれば使用人たちは主人の部屋の前で主人が起き出すのを待つ。そして主人が目覚めたのを見計らって初めて部屋に入るわけだが、場合によっては勝手に部屋に入って主人を起こすこともある。何か予定があって早く起きねばならなかったり、あまりにも寝起きが悪くて誰かが起こさないと自分では起きられなかったりしない限りは主人が自ら起き出すのを待つのが普通だ。もっとも、この辺は各家庭ごとに違っていて必ずこうと決まっているわけではない。
リュキスカの場合はどちらとも決まっていなかった。元々夜の仕事だけあってリュキスカは基本的に朝の目覚めは早い方ではない。ここへ来てからは夜更かしする必要もなくなっていたが、
今朝はというとオトたちは部屋の前で待たされることはなかった。リュキスカは既に起きていたのだった。部屋の前で耳を澄ませると、赤ん坊をあやすリュキスカの声が聞こえ、オトは安心して扉をノックした。
「はいよぉ~」
機嫌のよさそうなリュキスカの声が聞こえ、オトは扉を開ける。
「おはようございます、
侍女たちに先だってオトが室内に入ると中はまだ真っ暗だった。灯りは無いし窓は木戸が全て閉められているから仕方ない。暗すぎてよく見えないが、どうやらリュキスカは授乳中だったらしい。もしかしたら今朝は赤ん坊に起こされたのかもしれない。
「ああ、オトさん、おはよ」
声の様子から察する限り、リュキスカの機嫌は良さそうだ。
「今朝はもうお加減はよろしいんで?」
オトは尋ねながら手探りで腰のマジック・ポーチからマッチを取り出し、火を灯した。手の中で燃えるマッチの火を頼りに、室内の燭台に次々を火を灯し始めると、室内が次第に明るくなる。普通なら真っ先に窓を開けて外光で部屋を明るくするところだが、さすがにこの季節にそれをやると部屋の中が一気に寒くなってしまい赤ん坊に良くない。
「あぁ、晩あたりからね、なんだか部屋ん中に気持ちのいい風が吹いてる感じがしてね。
おかげさんで
今朝もなんだか調子いいみたいだ」
締め切った部屋の中に風が吹く?
オトは昨夜のことを思い出した。
リュウイチがリュキスカの様子を《
「ソイツぁ良うございました」
一つの燭台に火を点け終わったオトは軸まで燃え尽きそうになっているマッチを捨て、その燭台を持って他の燭台へと火を移していった。火を一つ灯すたびに部屋の中が明るくなっていく。
煙の出ない上質な鯨油ロウソクの火に照らされた室内にリュキスカの姿が浮かび上がると、母乳を吸う息子を見つめるリュキスカの顔は本当に調子がよさそうに見えた。オトはこれなら大丈夫かと判断し、昨日からリュウイチに頼まれていた用件を切り出す。
「
「ん~、何だい?」
「今朝の
出来れば
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