混迷の醸成

イェンタークルム

第1322話 リュキスカの目覚め

統一歴九十九年五月十二日・早朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 長くなり始めた初冬の夜はまだ明けきらない。陽は西山地ヴェストリヒバーグ稜線りょうせん彼方かなたから顔も見せておらず、空はようやく明るくなり始めたところだ。空一面を覆う薄雲越しに照らされる朝靄の中、陽が昇る前から起き出して働きだした人々の姿は影に染まって人間のようにはまるで見えない。まるで暗闇の一部が意思を持って動き出しているかのようだ。が、それが闇の生物などではなく、普通の人間であろうことは白い息を吐き出していることから明らかだ。

 早朝というよりは深夜から働き始めるパン屋、まだ暗いうちから働き始める農家や漁師、空が白みだす頃に起き出して主人の朝の準備を始める奴隷や使用人たち……人々の営みを支える彼らの仕事は、彼らによって生活を支えられている人々が起き出すよりも前から始まるのだ。


 そんな朝早くから仕事を始めねばならぬ立場の一人……オトは奴隷用の小部屋アラエ・セルウィトリキウスから出て直ぐの中庭アトリウム水盤インプルウィウムから水を汲みだすと、その水で顔を洗って未だに微睡まどろむ目を無理やり覚ました。

 水盤の水は中庭の天窓インプルウィウムから流れ落ちた雨水を貯めたものだ。雨の多いアルトリウシアでは屋根に落ちた雨水を集めるだけで結構な量になる。生活用水はそれだけでもかなりな部分をまかなえてしまうほどだ。しかし、所詮は雨水を地面に掘った穴に貯めただけの水、夏はぬるく、冬は冷たい。冬の朝は氷が張ることだってある。


「ぶふぅ~~~、冷てぇ!」


 思わず唸るように独りちる。

 寒冷なアルビオンニア属州では例外的に温暖なアルトリウシアとはいえ、五月も中旬となった今では水も身を切るように冷たかった。目を覚ますにしても冷たすぎるほどである。同じゴブリン系種族でもブッカやコボルトなら苦にもならない程度だそうだが、ホブゴブリンのオトには堪えがたい。ただ顔を洗っただけでもう指がかじかみはじめたほどだ。こんな冷たい水の中に間違って落ちれば、ホブゴブリンは一瞬で死ぬかもしれない。

 オトは一瞬で指の動きの鈍くなってしまった手で首にかけた布巾スダリオを取り、顔と手を乱暴に拭き始める。朝起きて直ぐに水で顔を洗うのは職人だった頃からの生活習慣だったが、こんなに早くから起き出すようになったのは奴隷になってからだ。今の生活になって一か月……ようやく慣れ始めてきたところか。だがこれでも奴隷としては起きる時間が遅いのかもしれない。同じ中庭に面した小部屋アラエに住むルクレティアの侍女や神官たちは全員が既に起き出していて、各自自分の朝の支度に忙しそうにしている。だというのにオトの奴隷仲間で既に起き出しているのはオトとネロとロムルスだけだ。ゴルディアヌスとアウィトゥスはまだ寝台クリナで高いびきをかいている。あの二人は軍団兵レギオナリウスだった頃から寝起きは良くなかった。しかしネロが早起きなのは自主トレのため、ロムルスは歳のせいか最近早くに目が覚めるようになってきたのだそうで、二人とも別に奴隷と言う立場と仕事を意識して早起きしているわけではないことを考えると、早起きとはいってもあまり褒められたものではないかもしれない。


「おはようございます、オトさん」


 仲間たちを憂いながら未だにゴルディアヌスとアウィトゥスが眠っているであろう奴隷部屋の扉を眺めて重い溜息をついていたオトに背後から声がかかった。振り返るまでもなく、ルクレティアの使用人たちである。


「ああ、おはようございます」


 オトが振り返って挨拶すると予想通りの女たちが立っていた。まだ互いの顔をハッキリと見分けられるほど明るくはないが、オトと共にリュキスカの身の回りの世話をすることを命じられた者たちで、これまでも何度も一緒に仕事をしているから顔がハッキリ見えなくても何となく見分けがつく。女性の身の回りの世話をするのに男のオトだけでは不都合も多いだろうとルクレティアが差し向けてくれた使用人たちで、本来なら彼女たちはリュキスカが身だしなみを整えるのを手伝ったりするのが役目なわけだが、実際にはオトと彼女たちの間にそれほど厳密な役割分担があるわけでもなかった。

 リュキスカは女だがヒトだ。それも元・娼婦であり、身の回りのことは多少は娼婦仲間と助け合うことはあるものの基本的に全部自分でやっていた。なので彼女たちが来ても特に彼女たちの手を借りて身だしなみを整えるということはなく、オトも男とはいえホブゴブリンであることもあって互いに異性として意識する部分はさほどない。もちろん、リュキスカがナーバスになっている時はオトが男であることを理由に部屋から追い出されることはあるが、そういう時の扱いは彼女たちも同じようなものだった。このため特に女たちがリュキスカの身の回りを、オトが力仕事をというような役割分担はあまり明確ではなくなっている。まあ、それでも女性がやった方がいいだろうというようなことは彼女たちが、そうではない仕事はオトが積極的に手を出すという程度にはなっているが・・・・


「では参りましょうか?」

「よろしくお願いします」


 互いに挨拶を交わすといつものようにオトと彼女たちは連れ立ってリュキスカの部屋を目指した。

 通常であれば使用人たちは主人の部屋の前で主人が起き出すのを待つ。そして主人が目覚めたのを見計らって初めて部屋に入るわけだが、場合によっては勝手に部屋に入って主人を起こすこともある。何か予定があって早く起きねばならなかったり、あまりにも寝起きが悪くて誰かが起こさないと自分では起きられなかったりしない限りは主人が自ら起き出すのを待つのが普通だ。もっとも、この辺は各家庭ごとに違っていて必ずこうと決まっているわけではない。

 リュキスカの場合はどちらとも決まっていなかった。元々夜の仕事だけあってリュキスカは基本的に朝の目覚めは早い方ではない。ここへ来てからは夜更かしする必要もなくなっていたが、フェリキシムス赤ん坊が夜泣きなどして夜、ぐっすり眠むれなかったりするとどうしても朝の目覚めは悪くなる。本来ならそうした赤ん坊の面倒を見て母親の負担を減らす意味からもオトや侍女たちが付けられている筈なのだが、リュキスカは息子の面倒をあまり他人に任せようとはしないのだ。このためオトたちは毎朝、リュキスカの部屋の前で待つことになる。とはいえ、朝食の時間もあるしいつまでも惰眠を貪らせるわけにはいかないからある程度の時間になったら部屋に入って起こすことにはならざるを得ない。


 今朝はというとオトたちは部屋の前で待たされることはなかった。リュキスカは既に起きていたのだった。部屋の前で耳を澄ませると、赤ん坊をあやすリュキスカの声が聞こえ、オトは安心して扉をノックした。


「はいよぉ~」


 機嫌のよさそうなリュキスカの声が聞こえ、オトは扉を開ける。


「おはようございます、奥様ドミナ


 侍女たちに先だってオトが室内に入ると中はまだ真っ暗だった。灯りは無いし窓は木戸が全て閉められているから仕方ない。暗すぎてよく見えないが、どうやらリュキスカは授乳中だったらしい。もしかしたら今朝は赤ん坊に起こされたのかもしれない。


「ああ、オトさん、おはよ」


 声の様子から察する限り、リュキスカの機嫌は良さそうだ。


「今朝はもうお加減はよろしいんで?」


 オトは尋ねながら手探りで腰のマジック・ポーチからマッチを取り出し、火を灯した。手の中で燃えるマッチの火を頼りに、室内の燭台に次々を火を灯し始めると、室内が次第に明るくなる。普通なら真っ先に窓を開けて外光で部屋を明るくするところだが、さすがにこの季節にそれをやると部屋の中が一気に寒くなってしまい赤ん坊に良くない。


「あぁ、晩あたりからね、なんだか部屋ん中に気持ちのいい風が吹いてる感じがしてね。

 おかげさんで昨夜ゆうべはぐっすりさ。

 今朝もなんだか調子いいみたいだ」


 締め切った部屋の中に風が吹く?


 オトは昨夜のことを思い出した。

 リュウイチがリュキスカの様子を《風の精霊ウインド・エレメンタル》に尋ねた際、《風の精霊》はリュウイチからリュキスカの具合に気を付けるように命じられていたから精霊エレメンタルが何かしたのだろう。


「ソイツぁ良うございました」


 一つの燭台に火を点け終わったオトは軸まで燃え尽きそうになっているマッチを捨て、その燭台を持って他の燭台へと火を移していった。火を一つ灯すたびに部屋の中が明るくなっていく。

 煙の出ない上質な鯨油ロウソクの火に照らされた室内にリュキスカの姿が浮かび上がると、母乳を吸う息子を見つめるリュキスカの顔は本当に調子がよさそうに見えた。オトはこれなら大丈夫かと判断し、昨日からリュウイチに頼まれていた用件を切り出す。


奥方様ドミナ


「ん~、何だい?」


「今朝の朝食イェンタークルムはいかがいたしやしょう?

 出来れば旦那様ドミヌスが御話ししたい用事がおありのようなんですが」

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