第1312話 ブレーブスの行方

統一歴九十九年五月十一日、夜 ‐ グナエウス砦陣営本部プリンキパーリス・ブルギ・グナエイ西山地ヴェストリヒバーグ



「さて諸君……残念だが勇者団彼ら』の説得に失敗した」


 カエソーは冒頭、そう切り出した。ティフとの交渉にあたり実際に会話したのはカエソー一人だった筈だが、説得失敗の主語が「我々」になっていることに気づいた者はいない。


「この際、ティフブルーボール様がどうだったとか言うような点には触れまい。

 悠久の時を生きるハーフエルフ様と我々では色々感覚も異なるだろうし、遠いケントルムの地で生まれ育ち、ムセイオンで特殊な教育を受けた彼らが我々から見て随分異質に見えるのは前もって分かっていたことだが……それでも想定が甘かったようだ」


 ジョージ・メークミー・サンドウィッチを始めアーノルド・ナイス・ジェーク、そしてペイトウィン・ホエールキング二世という三人の捕虜と接していて、彼らの感覚が自分たちのと差異がある点は既に気づいていた。ヒトのメークミーやナイスでも三十台、ハーフエルフのペイトウィンに至っては九十歳を超える年齢だが、彼らはいずれもその実年齢に比べて精神面では随分と若い。

 貴族ノビリタスというのは何不自由ない恵まれた環境で育つうえ、周囲の全てを常に年上の使用人や奴隷たちに整えられて生活するため、何かと周りがどうにかしてくれるのが当たり前と思いこんでいるような甘えた性格になりがちだ。着替えなど身の回りの世話を自分一人では何一つできないのも当たり前であり、それを恥じとも思わない。むしろ、身の回りのことを何一つできない事を誇りに思っている者すらいる。


 高貴な私が身だしなみを整えようとしているんだぞ!

 何故、手伝おうとせんのだ!?

 私にみっともない恰好をさせて、お前は恥ずかしくないのか!?


 このような理不尽な不満を周囲にぶつけることに何の疑問も感じないのが貴族という生き物だ。もちろんカエソー自身もそうした傾向はある。ただ、カエソーの場合は帝都レーマに留学し、レーマの兵学校での行軍訓練などである程度自分の世話を自分で焼かねばならぬ状況に身を置かざるを得なかった経験から、属州領主ドミヌス・プロウィンキアエの伯爵家という生まれついての上級貴族パトリキでありながら、だいぶマシな部類ではあった。普段はやはり使用人らに身の回りのことをさせてはいるが、少なくとも自分の世話を自分で焼くことができないのは恥ずかしいと思う程度の感覚は持ち合わせていたのである。

 しかし、自分の世話を自分でやけないのは恥ずかしいという感覚を得るに至った経験は、一つの常識を学び取る代わりに一つの別の常識を捨てさせても居た。人間は一つ成長すると成長する前の自分を恥ずかしく思うものである。そして、成長する前の自分の感覚を忘れていってしまうのだ。カエソーは自分の世話を自分で焼けないのは恥ずかしいと思う感覚を手に入れた代わりに、自分の世話を自分で焼けないことを誇りに思うような貴族的感覚が損なわれてしまっていたのだった。


 ムセイオンを脱走してからここまで、自分たちだけで旅をしてきたというから相応の経験はしている筈……それはレーマ兵学校の行軍訓練なんかよりずっとハードなモノの筈だ。ならば、行軍訓練から自分が学んだこと以上のことを彼らは学んでいるに違いない……


 そうした思い込みがカエソーにはあった。そして彼らに自分と同じような感覚や常識を期待してしまう。メークミーは捕まった当初は着替えを自分一人でやったという報告も受けていたのだから無理からぬところであろう。そうして無意識に抱いた期待は身の回りの世話などといった部分に限らず、人間性に関わるあらゆる分野に及んでしまっていた。

 だが彼らはカエソーが思っていた以上のだった。カエソーが野生の貴族なら、彼らは純粋培養の養殖貴族だった。庶民的感覚、世俗的常識からかけ離れた感性を持っているという点において、彼らはカエソーなどとは比べ物にならないほど極端な存在だったのだ。


 そもそも身だしなみなんてものは、他人の目がなければ気になるものではない。誰にも会わずに部屋に引きこもって一人きりでくつろぐとき、キチンと身だしなみを整えようとする者などまずいない。それと同じで、たとえ外に出かける時であっても、の目を気にしなくてよいのであれば、身だしなみを整えなければなどとは思わない。身だしなみとは自分と対等以上の誰かに見られ、その時の恰好で他人から評価されてしまうことを畏れて初めて気になりはじめるものなのだ。

 その点、『勇者団』はムセイオンを脱走してアルビオンニアに渡るまで旅の過程で、身だしなみを気にする必要がほとんどなかった。何故なら彼らは旅の間ずっと冒険者ごっこを続けていたのであり、一人の貴族として見られる心配はなく、それどころか周囲に貴族と気づかれてはならなかったのだから……つまり、普段のように身だしなみを整えてはいけなかったからだ。多少のみっともない恰好は、目立たないためにむしろ意識してやらねばならないくらいだった。見た目を逆の意味で気にしなければならなくなった彼らが身の回りのことで気にしなければならなかったのは、あとは衛生面と食事ぐらいのものだった。そして衛生面はエイー・ルメオの浄化魔法で事足りたし、食事はファドやナイス、そしてエイーが受け持ってくれていた。そして自分たちがムセイオンからの脱走者だとバレないようにするため、彼らは旅の途中で現地の庶民らとの接触も最低限に抑えていた。現地人と何か話をしなければならない時は、そのほとんどをファドに任せていたのである。こうした状況はムセイオンでの生活でも時折経験するダンジョンでの訓練とほぼ同じだった。違いはそれが長く続けるか数日で終わるかだけだった。

 つまり、彼らは旅を通じて自分を成長させる経験を実はまったくと言っていいほどしてなかったのである。わずか数日の行軍訓練で世俗的常識や庶民的感覚をいくらかでも得ることができたカエソーは、むしろ恵まれていたのかもしれない。


 ともあれ、彼らは旅を経ても人間的にはまったく成長していなかった。世俗的常識、庶民的感覚、そして現実的思考が欠落し、辛い現実から目を背けるために、降臨術を再現して父祖を再臨させるという目的のために、現実逃避冒険者ごっこを続ける彼らの精神的未熟さはカエソーの想像を絶していた。もしもカエソーがレーマ留学をせず、生まれついての上級貴族のままでティフと交渉していたのなら、おそらく交渉は多少はマシなものとなっていただろう。もしかしたら、少しくらいは意気投合する場面もあったかもしれない。が、これはカエソーはもちろん、この場にいる誰にも想像すらできない視点での感想にすぎない。


「ですが閣下はティフブルーボール様に軍団長閣下レガトゥス・レギオニスとの交渉を促すことには成功しました。

 完全な失敗とは言い得ますまい」


 カエソーの右隣りに座ることを許された百人隊長ケントゥリオが、反省を述べた上官をすかさずフォローした。


「そうです。

 少なくとも閣下は『勇者団』ブレーブスとの交渉の可能性が完全に絶たれてしまうのは防ぎました」

「『勇者団むこう』にレーマこちら側の意思も伝えました」

「小官も無駄だったとは思いません」


「ありがとう諸君」


 百人隊長が次々と最初にフォローした百人隊長へ続くと、カエソーは満足したように柔らかな笑みを浮かべ手をかざし、隊長たちを黙らせる。


「しかし、彼らの投降の意思を引き出せなかったのは事実だ。

 それどころか彼らのアルトリウシア行きを防げなかった」


 カエソーが続けて言うと百人隊長たち……特にアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの百人隊長二人は神妙な顔つきになった。


「我々はダイアウルフ出没を理由にグナエウス砦ここでしばらく待つよう、アルトリウシアから要請を受けている。

 が、アルトリウシアの本音は『勇者団』ブレーブスが我々を追いかけてアルトリウシアまで来てしまうのを防ぎたかったのだ」


 アルトリウシア軍団の百人隊長たちが緊張の面持ちでゴクリと喉を鳴らし、警戒の目でカエソーの次の言葉を待つ。


「だが『勇者団彼ら』は既に峠を越えてしまった。

 アルトリウシアまでは行ってないかもしれないが、おそらくティフブルーボール様が言ったようにアルトリウシア側でダイアウルフを利用するつもりでいるのだ」


 カエソーは左隣のグルグリウスへ視線を向ける。


「確認ですが、ポルタを出たティフブルーボール様はどちらへ行かれたのですか?」


 砦正門ポルタ・プラエトーリア・ブルギの前はグナエウス街道が東西に横切っている。門を出たティフは仲間の下へ向かったはず。東へ行ったのなら『勇者団』はシュバルツゼーブルグ周辺に留まっているということであり、西へ向かったとしたらティフが会談の席上で示唆したように『勇者団』は既に峠を越えてダイアウルフを独自に捜索しているということだ。

 百人隊長たちの視線が一斉にグルグリウスに集中する。


「西です」


 低く厳かな声でグルグリウスが答えると、百人隊長たちから落胆のうめき声が上がった。

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