第1304話 会談後

統一歴九十九年五月十一日、夜 ‐ グナエウス砦陣営本部プリンキパーリス・ブルギ・グナエイ西山地ヴェストリヒバーグ



「ふぅ~……」


 陣営本部プリンキパーリスの裏手、陣営本部の主たる軍団長レガトゥス・レギオニス本人やその家族が出入りするための正面玄関オスティウム・プラエトーリアではなく、軍団将兵レギオナリウスが出入りするための内玄関オスティウム・デクマーナから出たところで百人隊長ケントゥリオたちと共にティフ・ブルーボール二世を見送ったカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子は、ティフを乗せた馬が角を曲がって見えなくなった途端に大きく溜息をついた。他の百人隊長たちも同じ気持ちだったのだろう、カエソーほど派手ではないにしろ同じようにそれぞれ溜息を漏らす。

 『勇者団』ブレーブスのリーダー、ティフとの交渉は想像をはるかに超える難事だった。御年九十歳を超えるハーフエルフ……それも世界の最高学府たるムセイオンで英才教育を施された世界で最も高貴な聖貴族コンセクラトゥスというからどれほど老獪ろうかいな人物かと身構え、その見た目に決して騙されないようにとカエソーも随分厳しく自らを戒めて挑んだつもりだった。だが、実際に会ってみれば見た目通りの……いや、見た目以上に幼い少年のようだった。聞き分けの良さという点では、自分がティフのような見た目の年頃だった頃の方がマシだったのではないかと思えてならない。


「入ろう、外は寒すぎる」


 寒風に鼻先と耳を赤くしたカエソーが不機嫌そうにつぶやき、内玄関へ足を向けると、百人隊長たちは道を開け、その後に従い始めた。その背中に初老に差し掛かったホブゴブリンの声がかかる。


「自分は奥方様ドミナへ御報告へあがります」


 カエソーは足を止めて声の主を振り返った。確認するまでも無く、先ほどの声の主はリウィウスである。


「まだ起きておいでなのか?」


 ティフが来てからおそらく二時間近く経っているはずであり、女子供はもう寝ている時間である。報告では、ペイトウィン・ホエールキング二世ら捕虜たちは既に各々の寝室クビクルムで寝ているとのことだった。聖女サクラとはいえよわい十五の少女ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアにとっては十分夜更かしと言って良い時間である。


『勇者団』ブレーブスのことを酷く案じておられましたんで、おそらくまだ御休みになられちゃいねぇかと……

 もし御休みでしたら明日改めて御報告させていただきやす」


 貧相な中年ホブゴブリンもリュウイチから授かった武具に身を包むと、威厳ある古武士に見えてくるから不思議なものである。言葉遣いは相変わらず野卑やひではあったが、リウィウスの態度は若き主人を思いやる老騎士そのもののようだった。

 カエソーはペコリと会釈してからカエソーの許しを待つリウィウスを見つめたまましばらく考えていたが、寒風に晒された鼻から鼻水が垂れてくるのに気づくと、顔をしかめながら自らの手で鼻を拭う。


「分かった……そうするがいい。

 我々はグルグリウス殿が戻られ次第、先ほどの交渉内容について少し話をするつもりだ。

 リウィウス殿も臨席するがよかろう」


「自分なんかが、よろしいので?」


 リウィウスも満期除隊間近の老兵ではあったが、結局下士官セスクィプリカーリウスにすら慣れなかった一兵卒だった男だ。しかもそれも先月までで、今は奴隷セルウスである。身分だけで言えば、本来ならカエソーのような上級貴族パトリキ相手に直接口を利くことなどあり得ぬ身だ。が、それでも降臨者 《暗黒騎士リュウイチ》の奴隷であり、しかも聖女ルクレティアの供回りを務めているとなればカエソーと言えども無下には出来ない。正直言って、カエソーも他の百人隊長たちも、リウィウスたちの扱いをどうしたらいいか分からず持て余しているところはあった。


「別に意見を求めるつもりはない。

 ルクレティア様に報告せねばならんこともあるだろうし、ルクレティア様の供回りなら知っておくべきこともあるだろう。

 臨席し、話を聞くだけ聞いておくがよかろう」


 カエソーは顔をキツク顰め、鼻を手で抑えたまま言った。風が冷たすぎるのだ。もういつ雪が降ってもおかしくない寒さである。


奥方様ドミナが起きておられて、御話を御所望になられたらどうしやしょう?」


 リウィウスの思わぬ反問にカエソーはムッとした。が、元々鼻水を我慢して顔を顰めていたので、鼻を抑えていた手を降ろしてもカエソーの感情の機微に誰も気づかない。


 男尊女卑社会のレーマ帝国において女性が軍議に顔を出すなどあり得ない。たとえそれが女領主ドミナ・テリットリイであったとしても同じで、仮に立場上どうしても顔を出さねばならない状況だとしても一応は遠慮するのが通例で、出席したとしても発言を可能な限り控えるのが常識とされている。女属州領主ドミナ・プロウィンキアエのエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人でさえ、会議に出席する際は家臣であるはずの男性たちを可能な限り立て、まるで自分の方が相談する立場であるかのように振る舞っている。彼女の家臣たちは彼女を主君として尊重し、侯爵家を盛り立てて行こうとする意思が強いため、女性だからと言ってエルネスティーネを差別的に扱うようなことはほとんどないが、それでも侯爵家以外の貴族たちの目がある以上、侯爵家そのものが孤立しないためにもレーマの文化にならわなければならない。

 そんな中で、女性であるのみならず未成年のルクレティアが軍議に積極的に顔を出そうなどというのはかなり非常識と言えた。これからの旅程の話ならともかく、『勇者団』ブレーブスの処遇の話は本来伯爵家が担うべきことなので猶更なおさらである。


 女子供はもう寝る時間ではないか!

 いくら聖女様サクラとはいえ、軍事に口出ししようなどというは……


 カエソーは一瞬リウィウスを突っぱねようとしたが思いとどまった。この時、カエソーの念頭にあったのは《地の精霊アース・エレメンタル》の存在である。

 《地の精霊》の力は強大だ。今まで『勇者団』の襲撃を撃退できていたのは《地の精霊》の力があったればこそである。あれがなければカエソーはアルビオンニウムで盗賊団を使った陽動作戦に対処しきれず、『勇者団』によってケレース神殿テンプルム・ケレースを守り切れなかっただろうし、それがなかったとしてもブルグトアドルフで受けた奇襲によって死んでいただろう。今はグルグリウスの力が借りれるようになったが、そのグルグリウスとて《地の精霊》の眷属……《地の精霊》の協力が得られるならばそれに越したことはない。そして《地の精霊》の力を借りるには、ルクレティアを介するしかない……

 逆に言えばルクレティアを軍議に出席させれば、こちらからお願いしなくても《地の精霊》の方から勝手に力を貸してくれるかもしれない。


「ぶぇっくしっ!!」


 カエソーはリウィウスに答えようとした瞬間、クシャミをした。寒風に鼻先をくすぐられたのだ。

 その拍子に思いっきり鼻水が飛び散ってしまう。月明かりもおぼろな夜中とはいえ、近くでは玄関を守る兵士のために篝火かがりびが焚かれていたので、その様子は近くにいた全員の目に留まってしまった。

 正面で見てしまったリウィウスは思わず顔を顰めてけ反り、他の百人隊長たちもある者は顔を背けて見てなかったフリをし、またある者はリウィウスと同じように顔を顰めた。

 カエソーはまとっていた外套サガムの襟元を持ち、小声で罵りながら鼻を抑える。


「既に御就寝とは思うが、まだ起きておられて御臨席を御所望ならば来ていただいてかまわぬ。

 だが、基本的には明日、私から御報告するつもりだ。

 既に御就寝、あるいはもう御就寝になられるというのなら、そのままお休みくださるよう申し上げろ」


 リウィウスはカエソーがそう言って「行け」と手で合図するのを見ると、ペコリと頭を下げ、回れ右をした。

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