第1288話 一服

統一歴九十九年五月十一日、夜 ‐ グナエウス砦陣営本部プリンキパーリス・ブルギ・グナエイ西山地ヴェストリヒバーグ



 毒……それは歴史上、最も多く使われた暗殺手段である。保管するのも持ち運ぶのも目立たちにくく、目標の警戒の目もくぐりやすいうえ、証拠の隠滅も容易……武器を使った暗殺よりはよっぽど成功率が高く、うまく使えば暗殺されたという事実を誰にも気付かせることなく目標を始末することができるとなれば、これ以上の方法はないだろう。そして、そうであるからこそ毒を盛られる側はどれだけ警戒してもし足りない。警戒し出せばキリがない。遅効性の毒なら毒見役も役に立たないかもしれず、明確な意志を持って狙われているときに周到に計画された毒殺を完全に回避する方法など存在しないと言って良い。


 その点、聖貴族たちは楽観的でいられた。特に魔力の高いゲイマーの子などは先天的に高い対毒耐性を獲得していることも多く、そうであるがゆえに病気にもなりにくい。感染症などは病原体が体内で毒素を作り出すことで症状が現れるケースが多いのだが、魔力の高い聖貴族はそもそも病原体に感染しにくいうえに、仮に病原体が体内で繁殖して毒素を作り出しても高い毒耐性ゆえに症状が現れなかったりもするのだ。ゆえに病原体のキャリアになってしまうケースも稀にあったりするのだが……ともあれ、当人は毒や感染症といった一般人には恐怖の対象でしかないリスクに対してほぼ無縁でいることができた。


 これ、ホントに飲んで大丈夫か?


 毒に対する不安をほとんど感じたことの無かったティフが今、珍しく目の前の飲み物に口をつけることを躊躇ためらってしまっている。聖貴族の毒耐性も完璧ではない。聖貴族の毒耐性は魔法の力で突破できるからだ。聖貴族の毒耐性を無効化するように錬金術師が調合した毒などが該当するが、毒そのものは通常のものでも外から魔法で毒耐性を弱体化させた状態にすれば聖貴族にも効果を及ぼすことができる。それは大戦争以前、今の聖貴族たちより更に強力なゲーマーたちが互いに殺し合っていた時代に、彼ら自身によっていくつかの実例が遺されていた。

 ゲーマーたちが居なくなってしまった今、かつてゲーマーたちが使っていた猛毒は残されてはいない。その調合レシピの多くも再現不可能とされている。その理由はおそらく現在の聖貴族たちでは魔力かスキルが足らないからではないかとされていた。が、今ティフの背後には古のゲーマーにも匹敵するかもしれない男が立っていた。


 グルグリウス……たった一人でペイトウィンを捕え、ティフを気づかぬ間に魔法で眠らせたグレーター・ガーゴイル。それほどの実力があれば、ティフに毒を盛ってどうにかすることも不可能ではないだろう。


 グルグリウスこいつはまだ何もしてない交渉相手に魔法をかけてくるような奴だ。

 今も交渉は暗礁あんしょうに乗り上げようとしているし、思い切って俺を捕まえてしまおうとしてもおかしくはない……だが……


「いかがなされましたか?」


 自分で飲みたいと言っておきながら、一向に口にしないティフをカエソーはいぶかしんだ。


「ん、いや、飲む前に楽しんでいたんだ」


 ティフはそう言って誤魔化すと自嘲じちょう気味に短く笑い、思い切って茶碗ポクルムに口をつけた。

 ティフには状態異常を引き起こす魔法にも毒物にも耐性があった。それに自信も持っていた。だがグルグリウスはティフのそうした耐性を易々と突破して魔法をかけてくる。そんな化け物がわざわざ毒なんか使うだろうか? 仮に実際にこの飲み物に毒が入っていたとして飲まずに罠を回避したとしても、グルグリウスがいる以上は代わりに魔法をかけてくるだろう。今のティフにそれを防ぐ自信はない。それはグルグリウスもグルグリウスを使っているレーマ側も分かっている筈だ。なら、ここで毒を盛ってくるわけがない。

 理屈ではそう理解していても、気分的には納得できるものではなかった。それでも自分が催促しておきながら毒を恐れて飲まないなんて、とんだ臆病者だと笑われるに違いない。この流れで飲まないわけにはいかないのだ。


 スッ……一口、口に入れる。半分、ヤケクソである。


 だが次の瞬間、ティフの中にあった黒くモヤモヤした感情がどこかへ急に消えてしまった。

 粉雪らしきものが舞う程の冷たい外気で冷やされた液体は煮詰まっていたティフの意識をクリアにする。強烈なまでの甘味が口いっぱいに広がり、遅れて来た程よい酸味と炭酸の刺激が口腔を刺激して唾液を分泌させ、狂暴なまでに存在感を主張していた甘味を柔らかなモノへと変えていく。


 ゴクリ……冷たさを保った液体は炭酸で喉を刺激しながら信じられないほどスムーズに胃へと落ちて行った。


ハァ~……思わず息をつくと、口いっぱいに広がっていた風味が鼻を吹き抜けていった。


「いかがですかな?」


 まるで毒を食らわば皿までとでも思いつめたかのように目を閉じていたティフが、一口飲みこんだ途端に表情を変えて目を開いたのを見てカエソーが尋ねる。ティフはカエソーの方へ視線をやることもなく、ただ茶碗を見つめたまま答えた。


「ああ、美味い……」


 言葉もないというのはこういうことを言うのだろう。ただ、自然にその一言だけが出て来た。


「……それは良かった」


 次の言葉が出て来そうにないと判断したカエソーが何か内心でガッカリしたようにそう答えると、ティフはようやく頭を回し始めた。貴族たるものが何か感想を尋ねられながら、「美味い」という簡素かつ曖昧な言葉だけで済ますのは芸がない。そう、高貴な人間には常に何らかの芸が求められるものなのだ。そして話芸リップサービスはその最たるものなのである。


果汁飲料フルーツ・ジュースでこの色だからてっきり白ブドウかと思ったが違うな。

 香りというか、風味はリンゴのようだったが、蜂蜜を感じる。

 あと他にはなんだ、ベリーか?」


 少し口早に話し、二口目を啜る。


「ご賢察の通り、リンゴが主ですな。

 ただ、ここらのリンゴは酸っぱいので蜂蜜で甘味を補ってやらねばならんのです。たっぷりとね……」


 答えながらカエソーはティフの声色と表情から険が薄れたことに気づいていた。

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