峠道
第1226話 障害
統一歴九十九年五月十一日、晩 ‐
赤く空を燃え上がらせた夕日はとうに
夜は危険だ。視界の利かない闇夜にはどこにどんな危険が潜んでいるか分からない。あらゆる時代、あらゆる世界において、社会を営む人間の安全を保障するのは、いつだって第三者の視線だからだ。夜の闇の中ではそれが失われる。無法者が、そして野生の動物たちが、闇に潜むことで人間の視線を逃れて活動することが出来てしまう。ゆえにこそ、人は闇を恐れる。夜になる前に安全な場所へ逃げ込まねばならないし、外に出てはならない。
街道を進む荷馬車が先を急ぐのも夜の闇が迫っているからだった。陽が暮れてしまえば視界は利かなくなり、安全に進むのも難しくなるだろう。月明かりがあればいいが、山の天気は変わりやすい。街道を照らしてくれる天空の月は、いつそれを遮る雲が発生するかもわからぬ山の上では、決してあてにしてはならないのだ。
「すみません、こんな遅くなってしまって」
「なぁに、
教会から借りた馬車ぁ返すの忘れた間抜けが悪ぃんでさぁ」
御者台に便乗しているメルキオルが申し訳なさそうに言うのを、陽気な丸顔のランツクネヒト族の御者はおおらかに慰めた。
今日中に
さすがにここまで頑張ってくれればメルキオル本人としては諦めもつこうというもの。今日間に合わなかった分は明日早めに出立すれば、明日の日曜礼拝には何とか間に合う目途も立つ。しかし御者は敬虔なレーマ正教徒であったし、役人からも何としても間に合わせるようにと頼み込まれていた。他の荷馬車はとうに今日の運航を諦め、最寄りの中継基地で夕食を取り始めているというのに、この御者は陽が暮れるのもかまわず先を急いでくれている。メルキオルが申し訳ない気持ちで胸中を満たすのも無理からぬことであっただろう。
「安心してくだせぇ
途中の
陽は暮れちまうだろうが、次の
「そこまで御無理をなさらずとも……」
「御無理も何もありやせんや!
なあに、
似たような会話を既に何度も繰り返しているが終始この調子である。御者の気持ちはありがたいが、専門家でもないメルキオルが水を差すのはさすがに
しかし、幸か不幸か馬の交換と食事のために次の
「何で行っちゃいけねぇんだよ!?」
御者はグナエウス砦の一つ手前の中継基地で、交換用の馬を融通するようにという役人が持たせてくれた指示書を出したにもかかわらず、中継基地付きのホブゴブリンの
馬丁も普通ならダメなもんはダメだと突っぱねるところだが、生憎と御者とは旧知の仲であったこともあり強権に頼らず何とか納得してもらおうと宥める。
「オットー、無茶言うな。
ダイアウルフの話は知ってるだろ?」
「ダイアウルフなんて峠の向こう側の話だろ!?
こちとら峠の
ダイアウルフなんて関係ねえよ!」
「それが昨夜だか一昨日だかは
「
御者はギョッと目を剥いて驚く。地元の人間にとって峠のこちらと向こうは別世界だ。気候も違うし領主も違う。なので御者たちもダイアウルフの事なんか自分には関係ない他所の世界の話だと、内心では軽く考えていたのだ。
「ああ、
だんだん
いつ峠を越えてこっち側へ来るかわかったもんじゃない」
街道の中継基地の間隔はだいたい四マイル(約七・四キロ)前後といったところだ。馬の交換する中継施設である以上、登坂が多く馬が疲れやすい山間部ではその間隔を狭くしている場合もある。そしてオオカミという獣はおそろしく足が長い。獲物を追い続けて飲まず食わずのまま数十マイルも移動することもザラにあるハンターだ。それがダイアウルフともなれば並のオオカミを遥かに凌駕する機動力を誇っている。話にあった第四中継基地とグナエウス砦の距離など、ダイアウルフにとっては目と鼻の先といったところだろう。
「なぁ、何とかならねぇかい?
今日中に
「
馬丁は顔を
「明日は日曜だ。
アンタらだって
「今日はここに泊って、明日朝早く出りゃいいじゃねぇか!?」
御者が無理する理由がキリスト教の都合だと知ったとたん、馬丁の態度は急につっけんどんなものにかわる。てっきりアルトリウシアの被災者のために急いでいるのかと思ったからこそ親切にしてやってたのに、
「礼拝の前に色々準備だってなさるんだ。
荷馬車に揺られてお疲れのままじゃ気の毒じゃねぇか。
なぁ~俺とアンタの仲じゃねぇか。
俺の顔を立てると思って、一つ頼むよ」
交換用の馬は必要だ。今、荷馬車につないでいる馬たちは一つ手前の中継基地で交換した馬だが、ここで交換することを前提に飛ばしてきたので完全にへばってしまっている。今の馬のままここから出ても速度は出せない。このまま万が一ダイアウルフにでも出会えば、まず逃げられやしないだろう。
御者はポケットを探り始めたが、御者が袖の下を出してくる前に馬丁は手でそれを制した。
「よせ、ここの馬は子爵様の馬なんだ。
子爵様のためになるならともかく、キリスト者だけのために子爵様の馬を危険に晒すわけにゃいかねえ。
どうしても行きてぇなら護衛を付けろ。
じゃなけりゃ交換用の馬は出せない」
普段なら袖の下を渡せば大抵の無理を聞いてくれる馬丁だったが、どうもキリスト教のためと聞いて機嫌を悪くしてしまったようだ。袖の下を出す仕草そのものを止めさせたということは、御者に出せる程度の賄賂では動くつもりなど全くないということなのだろう。
「そんな! 護衛ったってそんな……」
御者は途方に暮れるしかなかった。
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