第1214話 湖畔のデファーグ

統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐ 『黒湖』シュバルツゼー湖畔/シュバルツゼーブルグ



 州都アルビオンニウムから南へ伸びるライムント街道は『黒湖』シュバルツゼーの湖畔に作られた街シュバルツゼーブルグで二つに分かれる。そして『黒湖』を囲うように東西両岸に沿って続き、『黒湖』の南側で合流するとそのままズィルパーミナブルグへ至る。軍用街道ウィア・ミリタリスなので重装歩兵が八列縦隊で行進できるだけの幅を有し、荷馬車が移動することを考慮して勾配も緩やかになるように配慮されている。さらに街道の両側は樹木が全て伐採された平坦な法面のりめんが用意され、伏兵ふくへいによる待ち伏せなどが出来ないように整備されていた。

 軍隊が待ち伏せなど出来ないようにと考慮しただけあって、見晴らしの良い法面は街道を行きかう商隊を狙う盗賊たちの待ち伏せをも困難にしており、それはそのまま街道の通行の安全も保障した。レーマ帝国は啓展宗教諸国連合側のいずれの国と比べても治安は良い方だが、犯罪はもちろん無いわけではない。そもそもこの世界ヴァーチャリアはどの国であっても女性の一人歩きは自殺行為に等しく、ある程度裕福な者なら出歩く際は必ず護衛を伴うのが常識となっている程度に危険な世界だ。シュバルツゼーブルグ程度の規模の街であれば、殺人や誘拐・強盗といった凶悪犯罪が起きない日なんてないくらいであり、身元不明の死体が見つかったり行方不明者が出たりなんてのは日常茶飯事。しかし、整備された昼間の軍用街道は都市部のスラム街なんかよりはよっぽど安全な空間であると言える。


 その安全な街道の脇で、仲間たちから置いて行かれたデファーグ・エッジロードは一人で筋トレしていた。馬たちは少し離れたところで、枯れ草をんでいる。街道を行きかう荷馬車の御者たちはもちろんその姿に気づいていたが、特に危険な様子はないので怪訝けげんそうに見はするものの、それ以上は何もすることなく通り過ぎていく。

 ただ、デファーグはもう少し気を付けるべきだっただろう。ただ何も言わずに通り過ぎていく荷馬車の御者たちは、そのまま無関心に通り過ぎていくだけではなかったからだ。街道上の安全を保障しているのは整備された軍用街道というハードウェアばかりではない。定期的にパトロールを繰り返している警察消防隊ウィギレスと、街道を利用する通行人たちが異常を通報する善意の監視体制、そしてその通報に対応する警察消防隊や役人たちといったソフトウェアの働きによるものだったからだ。


 一人で四頭も馬をつれた怪しい大男が、街道の脇で何かしてる……デファーグのことは既にシュバルツゼーブルグの役人に通報されていたのである。


「みんな遅いなぁ……

 何してんのかなぁ……」


 ティフ達が馬を置いて街へ向かってからすぐに退屈し始めたデファーグは当初、剣の素振りを始めた。が、ブンブンという風を切る音に馬の一頭がおびえてしまったのと、イマイチ普段と感覚が違うのでどうも落ち着かなくて辞めてしまった。しかし、何もしないのも落ち着かない。そこで腕立て伏せを始めたがやっぱりいつもと感覚が違う。理由はすぐにわかった。鎧を着てないからだ。

 デファーグやスモル・ソイボーイのように魔力による身体強化で筋肉自体を肥大化させているハーフエルフにとって、鎧は必須だ。防具としてではなく、重石おもしとしてである。

 ハーフエルフの身体は軽い。ヒトに比べて元々細身だが、同じ体形・体格のヒトがいたとしてもハーフエルフはヒトより体重は軽めになってしまうだろう。それは身体強化魔法で筋肉を肥大化させたところで同じだ。身体強化魔法を使えば筋肉は膨らむし筋力も増大するのだが、体重は変わらないのだ。では軽い体重の人間がものすごい筋力を手に入れて重たい剣を振ったらどうなるだろうか?


 身体の方が振られてしまうのである。


 どんな物体にも物理法則は働く。作用・反作用の法則、そして慣性の法則……静止している物体は制止し続けようとするし、運動している物体は運動し続けようとする。何かに力を加えれば反動という反作用が必ず生じる。重たい物体を動かそうと思えばそれだけ大きな力が要るが、大きな力を加えればそれに等しい反作用を受けることになる。そしてその反作用を受け止めるためにはどうしても体重が必要なのだ。

 体重百キロの男が百キロの荷物を押して十センチ動かせば、自分も十センチ押し返されてしまう。これが体重五十キロの男が百キロの荷物を押して十センチ動かせば、百キロの男は十センチしか押し返されなかったのに体重五十キロの男は二十センチは押し返されてしまうのだ。

 これと同じ法則が剣術にも働く・・・つまりただ単に筋力をあげたところで剣を振る速度は速くはならない。剣を速く振ろうとすれば、同じくらい自分の身体が反作用によって動かされてしまうからだ。体重があれば地面に脚を踏ん張ることでその反作用を受け止めることも出来るが、体重が無ければ踏ん張ることはできない。踏ん張ろうとしたところで脚が滑るか、あるいは身体の方が振られてよろけてしまう。

 その問題を解決するためには剣を軽くするか、自分自身が重くなるしかない。が、剣を軽くすれば剣の威力も軽くなってしまう。軽い剣はそれだけ鋭い刃を持っていたとしても、斬りつけた相手の表面を傷つけるだけで両断することなど出来ない。逆に重たければ多少刃がなまくら気味であっても質量がもたらす慣性力によっていっきに両断することができる。実戦では防具で身を固めた相手を斬るだけの斬撃力ざんげきりょくが必要なのだから、剣を軽くするという選択肢は無い。であるならば、自分自身が重くなるしかない。そのための解決策が鎧だったのだ。


 鎧を着れば身体は重くなり、その分だけ踏ん張りが利くようになる。踏ん張りが利けば重い剣でも速く振ることができるし、斬撃力を高めることができる。また、敵の攻撃を受け止め、あるいは受け流すことだって体重が重い方が有利なのだ。

 ゆえに、デファーグにしろスモルにしろ、魔法で身体強化しているハーフエルフはわざと重たい鎧を身に付けていた。ティフは斬撃力は求めず曲芸まがいの俊敏さで敵を翻弄ほんろうし、血管や腱などの急所を狙う戦法なので身体強化魔法を使ってはいても重たい鎧を身に着けてはいなかったが、ティフのそのような戦法はハーフエルフたちの中でも異色である。


 とまれ、デファーグは今鎧を身に着けていない。一昨日の夜、ペイトウィンと別れる際にペイトウィンに鎧一式と盾を預けてしまったからだ。おかげで身体が軽くて落ち着かない。腕立て伏せだろうがスクワットだろうが腹筋だろうが、重石が無いので鍛えようとする筋肉に思うように負荷がかからないのだ。


 まさか馬に上に乗ってくれって言っても無理だろうしなぁ……


 腕立て伏せを諦めたデファーグは恨めし気に馬たちを見る。馬たちは剣の素振りをしていた時は落ち着かない様子だったが、今はすっかり落ち着いて勝手に足元の枯れ草をあさっていた。


 そうだ、体重が軽いなら……


 手頃な木の枝を見つけ、ジャンプして両手でぶら下がる。鎧を着ていた時は下手に木の枝にぶら下がると重さに負けて折れたりしなったりしてできなかったが、体重が軽い今なら懸垂けんすいができる。

 ……が、やっぱり体重が軽いから懸垂をやっても筋肉に掛かる負荷は大したことは無かった。


「まいったな……」


 このままでは意味がない。そもそも自分の身体が振り回されるほどの筋力を身体強化魔法で手に入れてしまったデファーグには、自重だけで筋トレするのは無理なのだ。こうして木の枝に両手でぶら下がっていても、手がしびれてくる様子すらない。


「みんなホントに遅いな。

 何かあったのかな?」


 ふと、樹の枝にぶら下がったまま街道の向こう側にキラキラ光る湖面を見ながら、今日何度目になるか分からない不安を口にする。そして湖面のきらめきを見ながらふと気の抜けた瞬間、デファーグは思いついた。


 そうだ、身体強化を解けば良いんじゃないか!?

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