第1186話 引き渡されるペイトウィン

統一歴九十九年五月十日、夜 ‐ グナエウス砦ブルグス・グナエイ/アルビオンニウム



 空は暗く淀んで何も見えなかった。晴れていれば夜中であっても人目についたかもしれないと考えると、却って都合が良かったといえる。月明かりさえ見えない夜はまさに闇そのものであり、中庭の外周を囲うように篝火かがりびが焚かれていなければ、そして松明を掲げた軍団兵レギオナリウスたちがいなければ、本当に何も見えなかったかもしれない。


 本当にこんなところへ?


 集められた兵たちの多くはそう思っていた。見上げても何も見えない。強いて言えば松明や篝火から立ち昇ってく煙が、屋根より少し高いところまでくると横風にあおられて吹き散らされていく様子が辛うじて見える程度……こんな中では鳥だって飛べやしないだろう。

 しかし、魔法の目を持つグルグリウスにはこの闇夜の暗さも苦にならないようだ。いや、もしかしたら上空からは煌々こうこうと灯りの焚かれた中庭は目立って見えたのかもしれない。ともあれ、空を覆いつくしていたガスを突き破り、は現れた。

 闇の向こうから飛び出してきた異形の物体。直径一ピルム半(二・八メートル)はありそうな巨大なつたの塊と、それを抱えるように持つ巨大な悪魔。広げた翼は五ピルム(約九・三メートル)を超え、決して狭くは無いはずの中庭を圧してしまいそうだ。それが音もなく高度を下げていく。


「おおぅ」


 カエソーの口から低い声が漏れる。他の兵たちも声こそ出していないが具足ぐそくが一斉に低い音を立て、何人かが動揺しての身動みじろぎを禁じ得なかったのであろうことが見て取れた。

 落下するかのような勢いで現れたグルグリウスは、しかし人の背丈より高いくらいの位置で急激に減速し、それからフワリと、まるで見た目からは想像も出来ないほど軽やかに着地する。その様子は着地の瞬間にわずかに動かした羽根で風が起きはしたものの、それ以外は地面の踏まれた石畳から小さく軋む音がしたくらいで、グルグリウスの見た目のおどろおどろしささえなければ実に優雅と言って良い着地だっただろう。

 足に体重がかかり、長さ三ピルム(約五・六メートル)はあろう尻尾まで地面に降ろして着地が完了すると、グルグリウスはゆっくりと両腕で抱え持っていたつたの塊を地面に降ろす。それが地面に降りる瞬間、蔦がキシキシと音を立てながら動いて四本の脚が生えるのを、中庭に居た者たちは興味深げに注視していた。


 あの中にハーフエルフが捕まってるのか……


 この場にいるものでカエソー以外は全員、ブルグトアドルフに現れた《藤人形ウィッカーマン》を見ており、脳裏にその時の様子を思い描いていた。ただ、あの時の《藤人形》は一応人間のような形をしていたのに比べ、今回のは四足動物のように見える。

 全員の視線が《藤人形》に集中したのを見計らっていたわけではないだろうが、気づけば巨大な悪魔の姿は無く、《藤人形》の背後……悪魔がいたあたりから巨漢が現れた。丁寧に撫でつけられた黒く艶やかな髪、人とは認めがたい明灰色の肌、赤く輝く両目、服の上からでもハッキリと分かる盛り上がった筋肉……レーマ人の平均をはるかに上回る身長の偉丈夫は《藤人形》の脇から出てくると胸に手を当て、カエソーとルクレティアに向かってうやうやしくお辞儀する。


「お待たせいたしました。

 御依頼通り『勇者団』ブレーブスのハーフエルフ、ペイトウィン・ホエールキング二世様をお連れ致しました。」


 グルグリウスがそのように報告をしてもしばらくカエソーは呆けていた。それからグルグリウスが怪訝そうに片眉を持ち上げると、カエソーはハッと我に返り、半ば引きつった様な笑みを浮かべながらグルグリウスに両手を差し出した。


「おお、おおおおお、おおおっ!

 さすが! さすがはグルグリウス殿!!

 《地の精霊アース・エレメンタル》様の眷属なだけはある。

 ハーフエルフ様をこうも容易たやすく捕まえられるとは!

 このカエソー、感激に堪えません!」


 グルグリウスの手を両手で握りながらカエソーがそう言うとグルグリウスもようやく安堵の笑みを浮かべた。


「そのように喜んでいただけで幸いです。」


「では、その中にハーフエルフ様が?」


「ええ、さっそく御引き渡し致しましょう。」


 カエソーが期待を込めてグルグリウス越しに背後の《藤人形》を見やって問いかけると、グルグリウスは身体を横にずらしカエソーから見えやすくした。グルグリウスがそのまま視線を《藤人形》へ向けると、《藤人形》はその場で足踏みでもするように四本の脚をキシキシと音を立てて動かしながら、ゆっくりと右へ向きを変えた。そして左の横腹を見せると馬がその場で臥せるように膝を折って姿勢を低くする。

 リウィウスがルクレティアを守れるようにルクレティアの斜め前に進み出る、ヨウィアヌスとカルスの二人も小走りでルクレティアの前に出、並んで円盾パルマを構え、グラディウスの柄に手をかけた。


 そのうち、《藤人形》のアバラを構成する蔦がギシギシと軋みながら動き、網目の隙間を広げていく。その広がった隙間から中の空間が見えるようになると、カエソーやルクレティアたちはそこに胡坐あぐらをかいて不機嫌そうに座る少年の姿を視止めた。細く長い金髪と白い細面の少年は上目遣いでカエソーたちを見ると、不快そうに目を細める。


 耳が長い……本物のハーフエルフ様だ……


 カエソー、ルクレティア、そしてその周囲にいた兵士たち……《藤人形》の内側を見えることが出来る位置にいた者たちの表情が一斉に変化した。驚き、不安、期待、恐怖、好奇……それらが綯交ないまぜになった表情は人によって異なるが、いずれも微妙にそれぞれ異なる。


「ペイトウィン・ホエールキング様、そこから御降りいただけますかな?」


 グルグリウスがその野太く低い声で呼びかけると、ペイトウィンは不快そうに目を歪ませながら口角を捻り上げた。不適に笑っているように見えるが、彼の内心はそうではない。人間関係が上手くいっていない時、自分ではどうしようもできないストレスを感じている時、彼は無意識に笑みを浮かべてしまう癖があったのだ。今のペイトウィンが浮かべている苦笑いもそれである。

 ペイトウィンはヤレヤレとばかりに手を突いて立ち上がり、開かれた口の両脇に手を添えて出てくると、そこからヒョイと地面へ飛び下りる。高さは半ピルム(約〇・九メートル)もないくらいだから、身軽な少年には何ということは無い。実際、降り立った時の音もほとんどせず、実に軽やかであった。

 が、地上に降り立ったペイトウィンは着地の直後にピタリと動きを止め、そのまましかめっ面をさらに顰める。《藤人形》の中は寒さを感じないよう魔力で環境が整えられていたのだが、外はそのような効果は無い。まして今のペイトウィンは魔導具マジック・アイテムをすべて取り上げられていて、身に着けているのはやけに豪華ではあるが魔法効果の一つも付与されていない普通の服だけだった。おまけに昨夜のグルグリウスとの戦闘で少しばかり焼け焦げているうえに、外套など防寒装備も何もない。そのうえ基本的に長身痩躯なハーフエルフは寒さに強くない。それが急に身も凍えるような寒風の中へ飛び出したものだから、予想以上の寒さに驚いていたのだった。見る間に耳と鼻の頭が赤くなっていく。

 しかし、ペイトウィンのそうした事情は周囲の者には分からない。カエソーに至っては初めてハーフエルフに逢った、しかも自分の捕虜として手に入れたことの感動から、ペイトウィンの内面を気遣うだけの余裕は失われてしまっていた。


「おおっ、確かに! 絵に見た通りのハーフエルフ様だ。

 まさかこのような辺境でまみえようとは望外の喜び。

 歓迎いたしますとも!」


 能天気と言ってよいほどほがらかなカエソーの態度は緊張感に満ちた状況ではまったく場違いと言って良いものだった。ペイトウィンも思わず背筋を伸ばし苦笑いを浮かべていた口をへの字に結ぶ。

 ペイトウィンはヒトならば十四~五歳に相当するであろう少年だが、元々長身で細身なハイエルフの種族的特徴を血とともに引き継いでいるだけあって、背丈は既にカエソーよりやや高いくらいだ。その背の差は一インチあるかどうかといったところだが、両手を広げて歩み寄ろうとしていたカエソーは背を伸びあがらせたペイトウィンより実際以上の上背うわぜから見下ろされたような感覚を覚え、思わず脚を止める。


「ペイトウィン・ホエールキング二世様で、間違いありませんな?」


 カエソーが先ほどよりはずっと落ち着いた調子で尋ねると、ペイトウィンは緑色の瞳でジッとカエソーを見下ろしたまま、フーっと口元を鼻息で白く曇らせる。それからチラッと一瞬グルグリウスを見てから何か悔しそうに眉を寄せ、それから視線をカエソーに戻し、そして名乗った。


「そうだ。

 私はペイトウィン・ホエールキング二世である。」

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