引き渡されるペイトウィン

第1183話 二人の新たな心配事(1)

統一歴九十九年五月十日、夜 ‐ グナエウス砦ブルグス・グナエイ/アルビオンニウム



 夕方ごろは天候に恵まれたグナエウス峠だったが、どうやらそれは一時的なものだったようだ。遠く水平線の彼方に陽が没し、夜のとばりが下りるにつれて次第にガスが発生し、砦も断続的に霧と包まれ始める。見上げれば星々は既に霞み、光を放つのは今やおぼろな月ばかりという有様だ。

 ブルグスの北側、正門ポルタ・プラエトーリアの近辺と周囲の市街地カバナエの辺りは次々と篝火かがりびが焚かれ、まだ街道上を砦へと急いでいるかもしれない荷馬車や、収容した御者ぎょしゃ馬丁ばていたちに光を供していた。もっとも、一抱えほどもある青銅のかごで燃やされる篝火もこの断続的に発生する霧の中では、深夜の森の枝葉越しに降り注ぐかすかな星明りにも等しい。

 砦にたどり着いた荷馬車の御者たちはせっかくの宿で休養を満喫する暇もなく、数だけは多いが光源としても熱源としても頼りない篝火を頼りに、かじかむ手の痛みを堪えつつ馬の世話と明日の準備とに追われる。寒さに震えながらそうした作業を終えてやっとの食事……夕刻ごろならまだまともな物にありつけたはずだが、陽もとっぷり暮れた夜半ともなればロクな物は残っちゃいない。料理人だって暗い中でわざわざ追加の料理なんか作っちゃくれないから、余り物の食材を適当に混ぜて温めただけの粥しか出しちゃくれない。

 御者たちのために今も営業している唯一の食堂タベルナで出されているのは、黒パンを黒ビールでふやかしてドロドロに溶かした粥だ。イモ、豆、クズ野菜、干し肉の欠片でも入っていたらラッキーだろう。一応鍋で温めているからアルコール分はほとんど飛んでしまって残っていない。

 御者たちは手渡された粥の入った皿を両手で大事そうに抱えて席に着くが、特に口をつけるでもなくただジッと皿を覗き込んでいる。食堂内に灯されたランプのわずかな光の下では、ただ黒くてドロドロとした得体の知れない液体が不気味で手を付けられないでいるわけではない。寒さにかじかんだ手ではまだ満足にスプーンを持つことが出来ないから、こうして皿越しに伝わる粥の熱で手が温まり、手が自由に動くのを待っているのだ。中には待ちきれずに直接更に口を付けて啜りだす者もいないではない。下手に粥を覗きながら待ち続けていると、粥が冷めてしまうだろうし、粥の湯気のせいで出て来た鼻水が垂れて粥に落ちてしまうこともあるのだから、多少はせっかちになっても仕方あるまい。

 要領の良い者ならば酒とツマミを用意することもできたかもしれないが、全員が全員器用なわけではない。ここの所の復旧復興景気で彼らの懐はだいぶ温かいはずだが、それに負けない勢いで物価は上がっているし、そもそも砦に宿泊せざるを得ない数十人程度の御者たちの中でも、更に夜遅くならざるを得なかった十数人のために安くない燃料代を犠牲にして酒を提供してくれる店はグナエウス砦には無かったのだ。多くの者は得体の知れない粥で空腹を満たし、配給のわずかな安ワインをホット・ワインにして寒さを紛らせながら、御者用の寝床に身を横たえて明日へ備えるのだった。

 同じ砦の中でそんなわびしい食事だけで忙しく働き続ける生活に追われている人々がいるかと思えば、砦の南側、正門から見て奥側の駐屯施設には彼ら平民プレブスとは全く対照的な、彼らが想像すらしかねるような贅沢な生活を送っている上級貴族パトリキたちもいる。

 ジョージ・メークミー・サンドウィッチとアーノルド・ナイス・ジェーク……ムセイオンを脱走してきた聖貴族『勇者団』ブレーブスの一員である彼らに供される料理はもちろん、御者や馬丁たちに供されているものとは全くの別物だ。今日の昼間に〆られたばかりの子羊を使った料理なんてものは、庶民プレブスならば誰かの結婚式でもないかぎりお目に掛かれぬ代物である。それが仲間内に広く振る舞われるならともかく、片手で数えられるほどの貴族の、たった一度の食事のために用いられるというのだ。今朝一番の早馬によってもたらされた命令で用意された食材は、だがメークミーにとってもナイスにとっても「旅先で出くわした中でちょっとマシな料理」の一つにしかならない。そうなってしまったのも食べた本人の気持ちが少しばかり落ち着かない状況だったからというのだから、豪勢な御馳走を用意させられた者たちも浮かばれないだろう。


 ペイトウィンが捕まったのかもしれない……ナイスの一見突拍子もないように思える予想も、しかし説明を聞けば聞くほど確かにそうかもしれないとメークミーも納得を深めていかざるを得ない。その理解は同時に、二人をしてどうしようもない不安を駆り立てた。

 ナイスの理不尽な命令によってシュバルツゼーブルグの街の様子を見に行かされていたスカエウァ・スパルタカシウス・プルケルが食堂トリクリニウムに戻った際、メークミーもナイスも神妙でどこか余所余所しい様子になっていたのはそのせいである。スカエウァにはもちろんその理由は分からない。

 ともかく、二人は一応テーブルマナーこそきっちり守ってはいたものの、まるで料理を味わうということを忘れてしまったかのように出されたものをただ黙々と、そそくさと平らげた。その様子はまるで作業だった。そして有り合わせの材料とはいえ料理人が苦心して仕上げたデザートも、まるで何ということも無い屋台で買って来たお菓子のように片づけると、カエソーやルクレティアの帰りも待たずに席を立つ。

 一応、二人が食堂から出る前にカエソーは一人で戻ってきたのだが、中座の非礼を詫びるカエソーに対しても二人の態度は変わらなかった。


 大変美味しゅうございました。このような山中でも街中のようなお食事と寝室を御用意いただき感激に堪えません。閣下も御役目にお忙しいのでしょうから中座するくらい致し方ありますまい。我々も自分の立場は承知しておるつもりです。いえいえどうぞお気になさらずに……そんな無礼ではないが気持ちもこもってない形だけの挨拶を交わし、カエソーに対して辛うじて無礼にならない程度に簡素に応じるとそそくさと寝室へ戻ってしまった。


 だがカエソーらを置いて寝室へ引っ込んだはずのナイスはそのままベッドへ入ったわけではなかった。身の回りの世話を担当している神官たちに命じて蒸留酒と酒のツマミになりそうな物を用意させ、メークミーの寝室を訪れている。もちろん、カエソーにもスカエウァにもルクレティアにも聞かれることなく、二人きりで話したいことがあったからこそだ。

 メークミーはもちろんナイスが来ることは知っていたのでナイスを寝室へ迎え入れてはくれたが、食堂でそうだったように今でもソワソワして落ち着きがない。

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