第1180話 クリーグスブロート
統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ グナエウス峠山中/アルビオンニウム
まあ、食えなくはない……なんか、冒険者の食い物っぽくはあるかもな……
無理に自分を納得させてがっつくペイトウィンだったが、黒パンを半分も食べきる前に限界が訪れる。一口目を飲み込もうとしたが、それはつっかえて喉を通り抜けようとはしてくれなかった。噛み砕かれた黒パンはペイトウィンの口の中で唾液を吸い取り、堅いペーストのようになっていた。多分、焼く前の生地のままの方がまだ柔らかい代物だっただろう。そんなもの、どれだけ飲み込もうと足掻いたところで喉を通り抜けるわけがない。
「うっ、んっ、んぐっ!?」
飲み込もうとしたパンは完全につっかえた。飲み込もうとしても飲み込めないし、かといって戻っても来ない。舌をどうにか動かそうにも、飲み込もうとしてつっかえたパンの塊に圧迫されて動かせない。分泌される唾液も片っ端からパンに吸われて口の中はカラカラのまま……進退
その様子を呆れ顔で見ていたグルグリウスはヤレヤレとばかりに食料を入れていた
「さぁ、これを……」
グルグリウスが何かを差し出すのを涙の
「んぐっ、んっ、んっ、ん……」
これ以上含めないところまで含み、液体が口元から溢れて零れ落ちたところで革袋を口から離す。動かぬ舌を、顎を無理やり動かしているうちに、喉に詰まっていたパンは次第に柔らかくなっていき、
「んはぁっ!! ……ハァ、ハァ、ハァ」
し、死ぬかと思った……
あと十秒遅かったら死んでたかも……
「そんなに慌てて食べることも無いでしょうに……」
「う、うるさい!」
呆れかえったグルグリウスの言葉をペイトウィンは反射的に突っ張ねると、手に持っていた革袋をもう一度口に含んだ。途端に革袋の中身の液体が口に流れ込み、異臭に思わず吐き出しそうになる。
「うっ!? ヴふぉっ!!」
「今度は何です!?」
驚いたのはグルグリウスの方だった。手で抑えた口元からワインをボタボタと溢しながらペイトウィンが革袋を睨みつけている。
「な、何だよコレ!
ワインなのか!?」
「レーマ軍の
一般にはロラと呼ばれるワインですな。」
レーマ人はワインを好む。が、レーマ帝国全体で見てもワインの原材料となるブドウの生産量はレーマ人全体のワイン需要を満たせるほどではない。生産される全てのブドウでワインを仕込んだとしても、
通常のワインはブドウの果肉を絞り、取り出した果汁を醸造して作られる。それに対し、ロラは果汁を絞り終えた後のブドウの搾りカスを集めて水を注ぎ入れ、搾りカスの中に残ったわずかな糖分を発酵させてつくるワインだ。レーマでは最低級のワインとして位置づけられ、主に兵士や奴隷への配給用として用いられる。
ワインは酵母菌が果汁に含まれる糖分をアルコールに変化させることで醸造されるわけだが、レーマでは甘いワインを最上とするため糖分を残して発酵を止めるか、あるいは後から蜂蜜や砂糖などを加えて甘くしたものが出荷される。が、ロラは少しでも安く、少しでも多くのワインを醸造することを目的としているため、ただでさえ極端に薄められた果汁に残された糖分はほぼ完全に発酵させきってしまうため、甘みは全くない。残されているワインらしさはブドウの色と香り、そして渋味とエグミなどの雑味とアルコール分のみである。
これだけならここからさらに蒸留すればマールやグラッパといった高級酒へと変貌を遂げることも可能に思えるかもしれないが、マールやグラッパはブドウの雑味が出ないように加減して搾った残りカスを原料にするのに対し、ロラは本当にこれ以上何も出なくなるくらい容赦なく絞った後のカスを使う上、マールやグラッパを作る際とは比べ物にならないほど多量の水で薄める。このため困ったことに原材料のブドウの風味よりも水の特徴の方がより強く出ることもあるほどの代物なのだ。特にペイトウィンが飲んだロラは革袋の風味までが移ってしまっており、酒なんて物は酔えさえすればそれでいいと公言して
「も、もっとマシなのは無かったのかよ!?
このパンも! 堅くてボソボソで食えたもんじゃないぞ!?」
苦しさが優っていたとはいえ、先ほど同じ物を飲んでしまった事に急に嫌悪感を
「それはそうでしょう。
言いながら雑嚢の中から木の皿と小さなナイフと取り出す。
「普通は薄くスライスして食べるか、スープに浸して食べるか、ワインやビールに溶かし込んで御粥にして食べるんです。」
「なっ! 何でそれを早く言わないんだ!?」
「
卑しくも聖貴族様ならもう少し落ち着かれた方がよろしいでしょうねぇ。」
ほとほと困り果てたように言うグルグリウスを睨みながらも、ペイトウィンは反論できなかった。落ち着きがないというのは昔からよく言われていたことだし、本人も自覚があるだけに反論できない。ぐぬぬっと両手に掴んだ革袋と黒パンを握りしめるペイトウィンにグルグリウスは木の皿とナイフと差し出した。
普通なら武器になることを恐れて刃物を渡すのは
「………要らないんですか?」
「要るに決まってるだろ!
切ればいいんだな?」
受け取って貰えそうにない皿とナイフをグルグリウスが引っ込めようとすると、ペイトウィンは慌てて黒パンと革袋を置いて皿をひったくった。
焚火の光を頼りに皿の中のパンを切ろうとするペイトウィンの手つきを見ながらグルグリウスは眉を寄せた。
「ええ、あー、もっと薄く……もうちょっと……貴方様の指の太さの半分くらい……そうそう、それくらい。」
グルグリウスは昨夜、シュバルツゼーブルグでヨウィアヌスが切ってくれたパンの厚さを思い出しながらアドバイスする。
「薄すぎないか!?」
「まぁ、騙されたと思って……」
ペイトウィンは身体全体を揺するようにナイフを激しく前後に動かし、のこぎりで木を切るように黒パンを切り始めた。そのうち、カッカッとナイフの刃先が皿にぶつかる音が鳴り始め、ようやくパンを切り終わる。切り終わったパンをペイトウィンは摘まみ上げて焚火の光に翳してみると、厚さは六ミリぐらいしかない。
「やっぱり薄すぎないか!?」
「それぐらいがちょうどいいんですよ。」
「ホントかよ?」
半信半疑ながら板状になった黒パンの端を口に入れて噛み切り、先ほどのように咀嚼を始める。が、今度は先ほどのように口の水分を奪いつくされて喉が詰まってしまうようなことはなかった。パン自体は固くてボソボソしているし水分を奪われるのも同じが、薄くなって量が減ったせいか食感は気にならない。気泡が小さくミッチリと詰まった黒パンの堅い食感はパンというよりソフトクッキーに近いかもしれない。そして、噛み砕かれて唾液と混ざり合うことでペースト状になったパンからは、酸味と共にライ麦パン特有のコクが広がり口中を満たしていく。
それはペイトウィンにとって新鮮な体験だった。ムセイオンにはライ麦はほとんど出回っておらず、ライ麦で作られる黒パンなんてものは書物でしかお目にかかったことは無い。ムセイオンを脱走してからもファドが気を使ったのか、パンは小麦を使った白パンしか食べてこなかったからだ。気づけば険しかったペイトウィンの表情から険が取れ、その手は無言のまま二口目三口目とパンの残りを送り込んでいく。
ペイトウィンが黙々と食事に集中し始めたのを見計らい、グルグリウスは雑嚢を漁り始める。
「では、チーズとハムとイモを出しておきますから、パンと同じように御自分で適当に切って召しあがってください。さぁ、ここに置いておきますよ?
あと、飲み物はその革袋に入った
では吾輩も失礼して……」
グルグリウスはそう言いながら木の皿を置き、中にハムとチーズと蒸かしたイモの塊をそれぞれ入れ、自分は焚火を挟んだ反対側にドッカと腰を下ろすと雑嚢から
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