連行されるペイトウィン

第1173話 幸先

統一歴九十九年五月十日、夕‐ グナエウス砦ブルグス・グナエイ/アルビオンニウム



 ルクレティア・スパルタカシアは今朝、ほぼ予定通りにシュバルツゼーブルグを発った。『勇者団』ブレーブスから昨夜届けられた脅迫文によりシュバルツゼーブルグ市街に対する大規模な攻撃が予想されていたわけだが、実際に手紙を書いたとされるペイトウィンを捕まえたという報告が今朝、グルグリウスから念話で《地の精霊アース・エレメンタル》を通じて届けられた事もあってひとまず安心であろうと判断された。

 シュバルツゼーブルグの街の警備はアルビオンニア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルビオンニイアロイス・キュッテルが直卒する大隊に警戒を任せ、ルクレティアはカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子と共に一路アルトリウシアを目指すことになる。アロイスと彼の大隊はしばらくはシュバルツゼーブルグに留まって『勇者団』による攻撃に警戒することになるが、ズィルパーミナブルグから戦闘部隊が到着し次第、任務を引き継がせてアルトリウシアへ帰還する予定である。彼の大隊は本来アルトリウシア復興事業のために抽出された戦力であり、未熟な新兵と指導役の古参兵で編成された大隊では戦闘力は期待できないからだった。


「今日は、天候に恵まれましたね。」


 既に沈んでしまった夕日を思い出しながら、ルクレティアは満足そうに言った。窓から見えた金色の夕日は水平線の向こうへ没し、今は赤い輝きを残した空が静かに夜の到来を告げている。

 ここグナエウス砦はアルビオンニア属州でおそらく最も遅くまで夕日を見ることのできる場所の一つだ。理由は標高の高さである。高いところへ登ればより遠くまで見ることが出来る。水平線までの距離も遠くなり、結果的に麓よりも長く夕日を見続けることが出来るようになるからだ。

 峠の頂上にあるグナエウス砦よりも高い位置に人家は存在しない。山小屋はあるかもしれないが、基本的に人が常駐しているような類のものはないはずだった。アルビオンニアで最も遅くまで夕日を観測できるのは西山地ヴェストリヒバーグの頂上か、それともここよりずっと西の海上に浮かぶエッケ島の頂上かのどちらかだろう。だがどちらがより長く夕日を見続けることが出来るかは未だ明確ではない。正確に時間を計ることのできる時計は限られていたし、エッケ島やその近辺は未だに測量をされたことが無かったから確認のしようがないのだ。

 また、山の天気は崩れやすく、特に西山地の西側はガスが非常に発生しやすい。グナエウス砦も実は、夕日を見ることが出来る日よりもガスに阻まれて夕日を観測できない日の方が多いくらいなのだ。夕日は見ることは出来ても麓は雲に隠され、アルトリウシアの様子もエッケ島の島影も見えないことは珍しくない。金色に染まった雲海に沈みゆく夕日はそれはそれで絶景なのだが、今日は珍しいことに麓のアルトリウシアも、アルトリウシア湾も、その先のエッケ島の影も、雲の切れ目からではあったが見渡すことが出来ていた。


「いや、素晴らしい絶景でした。

 アルトリウシアの夕日の美しさは帝国南部でも一番でしょうな。

 これほど美しい夕焼けなど、サウマンディアでは拝むべくもない。」


 サウマンディア属州の西側は大陸を南北に縦断するクンルナ山脈によってチューアと隔てられており、夕日と言えば山の稜線りょうせんの向こうへ沈むものと相場が決まっている。そうした条件が美しい夕日を作り出さないというわけでは決してないが、しかし彼らがグナエウス砦の窓から見下ろしたような景色と同じような景色など望むべくもないのは確かだった。

 カエソーは満足げに褒め称えると酒杯キュリクスを満たしていたワインを飲み干した。その表情からすると貴族特有の実の無いリップサービスというわけでもないのだろう。実際、ひどく機嫌が良さそうに見える。


「閣下に御褒め頂き、恐縮にございます。

 夕焼けの美しさはアルトリウシアの自慢ですが、天候に阻まれやすいので……

 特にここのは、時間が間に合わないこともありますし、堪能できたのは本当に幸運でした。」


 そう返すルクレティアはまんざらでもなさそうな様子である。実のところ、ルクレティア自身もグナエウス砦から美しい夕日を見たのは四回目である。

 そもそもグナエウス砦に来る機会がルクレティアには無い。月ごとの祭祀のためにアルトリウシアからアルビオンニウムに通うようになったのは去年からだったし、その行程は基本的に海路であってグナエウス峠を通ることは滅多にない。過去にグナエウス砦から見た三回の夕日の内、二回は今のように女神官フラミナとして祭祀を行うようになる前、まだ子供の時に何かの行事で父に連れられてグナエウス砦に来た時の記憶だった。そして過去に見た三回のうち三回とも、雲海へ沈む夕日で、アルトリウシアの街並みと海と夕日を同時に見ることが出来たのは今回が初めてだったりする。

 よって、ルクレティアが喜んでいる理由は純粋に珍しく綺麗な夕日を見ることが出来たがためであったが、一緒に夕日を見たカエソーが上機嫌なのはペイトウィンの捕縛に成功したという報告を受けていたからであった。


 ついに、ついにハーフエルフ様の身柄を……これは快挙だ。

 父上も叔父上もきっと喜んでくださるに違いない!


 精霊エレメンタルたちを利用し、たまたま接触出来たインプを利用し、ハーフエルフを捕えることが出来たのは間違いなく大手柄と言っていいだろう。常人には精霊に力を借りることなど出来はしないのだし、ましてやインプを使役するなど辺境の貴族には縁のない話なのだ。しかしカエソーはいくつもの偶然が重なったとはいえ、ルクレティアに仲介してもらったとはいえ、強大な力を有する《地の精霊》の助力を得、魔法を自在に使役する聖貴族の集団と渡り合い、その構成員を三人も捕えることができた……考えれば考えるほど凄いことである。ひょっとして夢を見ているのではないか? 思わず今の状況をそのように疑いたくなってしまうほどだ。


「いや、実に幸先が良い。

 夕日の美しさはきっと黄昏の乙女たちヘスペリデスが我々を祝福してくれているに違いありません。」


「そうであってほしい物ですわ。」


「そうに決まっています。

 それとも、ルクレティア様には何か御懸念がおありですかな?」


 上機嫌なカエソーとは対照的に、ルクレティアはどこか浮かない。滅多に見れない絶景を見て喜んでいたのは確かだったが、しかしカエソーほど無邪気に現状の全てを肯定的にとらえてはいないような様子だ。

 カエソーとしては何か心配事があるならその憂いを払ってやろうという気になっていた。若者特有の万能感というわけでもないが、これだけ上手く事が運んでいる今なら、何だって出来そうな気になってくる。目の前の少女の憂いを払い、自分と幸福を分かち合えるならそうしたいと無意識に欲するのはごく自然な欲求だろう。まあ、多少の酒の影響もないわけではない。砦に到着してすぐに風呂に入った彼らの夕食はこれからなわけだが、カエソーは一足先に食前酒を愉しんでいた。

 まだそれほど深酒したわけでもないのにとカエソーの様子を推し測りながら、ルクレティアはどう答えたものか少し考えた。これほど上機嫌になっている上級貴族パトリキがせっかく自分のことを心配してくれているのであれば、そこに甘えずに冷たく突き放すようなことはあってはなるまい。


「はい、まさにこれからのことです。

 このまま無事にアルトリウシアへ帰れるかどうか……」


 ルクレティアが思いつめたように話すと、カエソーは大仰に驚いて見せた。


「ハッハァーッ!

 帰れますとも!

 まさかダイアウルフを恐れていらっしゃるのですか?!」


 グナエウス峠にダイアウルフが出没し、街道を行き来する荷馬車を襲っているという情報は既に伝わっていた。同時に、ダイアウルフが一掃されるまでルクレティアの一行にグナエウス砦に留まるようにとの指示も……。それがなかったとしてもルクレティアの一行はどのみち今夜はグナエウス砦に宿泊することになるのだが、そうした指示があった以上はしばらくこのまま留まらねばならないだろう。

 しかし、ルクレティアとしてはそう悠長に構えても居られない。既に冬……いつグナエウス峠に雪が降り始めるか分からないのだ。雪が降り始めれば峠は閉鎖され、春までグナエウス街道は通行できなくなってしまう。そうなればルクレティアがアルトリウシアへ、リュウイチの許へ帰るのは春まで待つか、あるいは危険を冒してクプファーハーフェンから冬の海を渡るかしなければならなくなるだろう。

 ただでさえリュキスカという女が現れて第一聖女プリムス・サクラという立場を奪われてしまった今、リュウイチの傍を長く離れるのはルクレティアの望むところではない。今回、アルビオンニウムへ行ったのはリュウイチがせっかく聖遺物アイテムを用意してくれたから、一時的に離れることにはなってもそれを使いこなすことで聖女サクラとしての自分の立場を確立しようと欲したからなのだ。

 完全とはいえないまでもその目的は既に達しつつある今のルクレティアには、一日でも早くアルトリウシアへ戻ることこそが最大の望み。それがダイアウルフに阻まれるのは決して好ましい状況とは言えなかった。

 そのルクレティアの懸念をカエソーは陽気に笑い飛ばす。


「ダイアウルフなど気にすることはありますまい。

 今の貴女には四個百人隊ケントゥリアの護衛と、《地の精霊アース・エレメンタル》の御加護があるのですよ?

 仮に『勇者団』ブレーブスが出てきたところで鎧袖一触がいしゅういっしょく、ダイアウルフなどものの数にもなりますまい。」

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