第1172話 これからのこと

統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ ブルクトアドルフ・皮なめし工房/アルビオンニウム



 陽はとっくに暮れ、空には既に陽の光の気配すら残ってはいない。月と星々の支配する世界は、地上に音もなく冷たい光を降り注いでいる。満月から一週間と経っていない月は十分に明るく、灯りの無いライムント街道とブルグトアドルフの街の遠景を暗闇に浮き上がらせていた。

 息を吐くたびに白くけぶるその遠景の中に人の気配は全くない。アルビオンニウムが放棄されブルグトアドルフの住民たちもこの五日間の惨劇を受けてシュバルツゼーブルグへ避難してしまった今、この近辺に住む者はいないし街道の往来もほぼ完全に途絶えている。ブルグトアドルフの街に残された家畜たちの世話をするために実は最小限度の住民たちがあえて居残ってはいるのだが、その住民たちも夜中は警備の都合で第三中継基地スタティオ・テルティアの向かいにある宿駅マンシオーに引きこもっている。第三中継基地は樹々の生い茂る丘の上にあるため、ここからは《森の精霊ドライアド》のまう森に遮られて見ることができない。


 こんなところで見張りをする意味なんてあるのか?


 皮なめし職人の家の二階の窓から、人気ひとけの全くない景色を見渡しながらエンテは今日何度目になるか分からない溜息をついた。そのエンテの背後に、足音が忍び寄る。


「エンテ、交代だ。」


 振り返ったエンテが見たのはレルヒェの姿だった。


「やっとか、助かるぜ。ここは冷えていけねぇや。」


「暖炉の近くの水差しにワインが入ってる。

 ホット・ワイングリューヴァインにして飲むといいぜ。」


「ありがてぇ。

 ワインなんてよく見つかったな。」


 エンテはそう言うと椅子から立ち上がった。

 結局、彼らがこの皮なめし職人の家にたどり着いたのは陽も傾きはじめた夕刻だった。屋内は戸や窓を閉め切っていたこともあり、灯りが無ければ何も見えないくらい真っ暗だった。その上、万が一煙で人がいることがバレることが無いよう、火を焚くのを制限していたのである。エイーに全員に暗視魔法をかけてもらいはしたが、しかし皮なめし職人の家など気持ち悪く、ダックス以外誰もが家探やさがしなどしたがらない。それでいてダックスはダックスで持ち込んだ食料で全員分の夕食の準備を始めたのだから、この家に何があるかなど誰も把握していなかったはずだった。


「ダックスの奴が見つけたんだ。

 アイツ、この家の事自分チみたいによく知ってやがら。」


 レルヒェが面白半分、呆れ半分に笑いながら言うとエンテは感心しつついぶかしんだ。


「へぇ~……まさかここ、アイツん実家なんじゃねぇの?」


「まさか!

 アイツぁアルビオンニウムの出だって言ってたぜ。」


「へぇ……それにしちゃアイツ、厩舎に残ってた馬に麦なんかおごってたぜ。」


 厩舎には年老いた馬が一頭いた。面倒を見る飼い主がおらず、飼葉も無く腹を空かせていたのだが、ダックスは盗賊どもを家に案内して皆が拠点化する準備に取り掛かり始めるや否や、自分は厩舎の方へすっ飛んで行き馬に水と麦を与えていた。その後、ダックスは全員分の食事を調理せねばならなかったので厩舎をすぐに後にしたのだが、他の盗賊に馬房の掃除と馬の世話を頼んでいた。最初からあそこに馬がいて飢えていると知っていなければ、ああも無駄のない動きは出来ないだろう。

 ダックスは実はこの皮なめし職人の一家の一人か、あるいは親戚だった。だからこの家のことをよく知っていたし、猛烈な臭いもものともしなかった……そう考えると辻褄がある。しかしレルヒェは半笑いを浮かべながら首を振った。


「アイツぁ、イザとなったらあの馬で逃げるつもりで前から目ぇつけてたんだとさ。」


「この家のこと知り過ぎじゃねぇか?」


 レルヒェはフフンと鼻で笑う。


「五日前、ブルグトアドルフの街襲った時、覚えてるか?」


「……俺ぁあん時ぁ中継基地スタティオの襲撃チームにいた。」


 レルヒェの質問で嫌なことを思い出したエンテが気分悪そうにそう言うと、レルヒェは口元を歪ませて苦笑いを浮かべた。エンテがブルグトアドルフの街の襲撃に加わっていたなら話がしやすくなると期待したのだが、エンテはレルヒェ達とは別の作戦に加わっていたのだ。


「あの日、皮なめし職人に化けて警察消防隊ウィギレスを誘き出したのはダックスの奴だったのさ。」


 レルヒェがそう言うと、エンテは無言のまま驚いたように眉を持ち上げる。レルヒェはエンテのことなど気にもしない風に話を続けた。


「ダックスのいた“グリレ”がココを襲い、職人の一家を皆殺しにしたんだ。

 ダックスの奴もその場にいたらしいぜ。

 んで、ダックスが皮なめし職人に化けることになって、“グリレ”の連中は工房でダックスを裸にし、頭から糞尿をぶっかけたのさ。」


 まるで笑い話でもするようにレルヒェは薄笑いを浮かべていたが、それを聞いたエンテは顔をしかめる。

 ランツクネヒト族はその手の笑い話が好きだった。ティル・オイレンシュピーゲルの逸話の数々を知らないランツクネヒト族はいない。貴族様も百姓も司教様も学者様も豪商も職人も王様も乞食も騎士も娼婦も金持ちも貧乏人も男も女も老いも若きも、誰もがティル・オイレンシュピーゲルにかかればその悪戯によって権威を揶揄からかわれ、最後は糞尿に塗れさせられるのだ。

 だが、いくらランツクネヒト族とはいえ誰も彼もがティル・オイレンシュピーゲルを好きなわけではない。エンテはそういう話が好きではなかった。彼自身が炭焼き職人であり、汚い身形みなりゆえに人々に忌み嫌われ迫害されていたせいなのかもしれない。普段、気取っている人々が悪戯されて揶揄われた挙句に糞尿まみれにされるオチを見て「ザマァ見ろ」という気持ちが起きないわけではないが、それ以上に自分自身がその場で同じように汚されてしまったかのような気分が強く沸き起こってしまうのだ。

 エンテはダックスを盗賊仲間の悪戯の犠牲者と見做みなし、同情するように首を振った。


「そりゃ御気の毒に……」


 すると最高の冗談を聞いたかのようにレルヒェは満面の笑みでエンテを振り返り、「ハッ」と短く笑う。


「アイツぁ喜んでやったそうだぜ?」


「ウソだろ!?」


「ウソじゃねぇさ。

 “グリレ”の奴が言ってたんだ。ダックスの奴ぁ笑ってたってな。」


 信じられない……エンテの表情を言葉にするならその一言になるだろう。そんなエンテの顔など見もせず、レルヒェは窓の外たまま言った。


「気持ちは分かるぜ。

 だがアイツはそういう奴なんだよ。

 面白いと思ったら自分から糞を被っちまう道化者……言って見りゃ、知恵の回らないオイレンシュピーゲルなのさ。

 だから手前ぇでこの家の一家を皆殺しにしたことも気にしてねぇし、この気色の悪い家の物を平気で漁れるんだ。

 ま、俺たちもその恩恵にあずかってるから、偉そうな事ぁ言えねえんだけどな。」


 気色の悪い家……皮なめし職人の工房や家に対して抱く印象は、レルヒェのような無法者にとってすらそうだった。気味が悪い、近寄りたくない……普通の人間ならそう思うのが当然だろう。だが、ダックスは二度目とはいえこの家に入り、我が物顔で振る舞い、盗賊たちを部屋に案内したうえに必要な物をそろえて料理までして見せた。そりゃエンテじゃなくても変に思うだろう。

 家の中はエイーがマジック・ポーションを飲みながら家中に浄化魔法をかけて回ったので、初めて入った時のような臭いはきれいさっぱり無くなってた。おかげで一階で休んでるエイーと盗賊たちは、ここへ来た当初予想していたような悪臭を堪えなければならない苦境を味合わずに済んでいる。しかし、それでも何となく何かが腐った様な臭いが感じられないわけではない。それはそういう印象がこびりついているからというばかりではなく、窓の外からは今も実際に腐臭が漂ってきているからだった。住居の方は浄化魔法をかけたが、工房の方は万が一誰かが近づいてきても臭いで怪しまれないように、わざと浄化魔法をかけずに残してあるからだった。

 風が吹き、その臭いが二人の鼻をくすぐる。


「なぁ、話は変わるんだけどよぉ」


 まだ一階に下りて行かないエンテが躊躇いがちに話しかけた。


「何だ?」


「俺たちぁその……またレーマ軍と戦うことになるのか?」


 ぶっきら棒に尋ね返すレルヒェにエンテが思い切って尋ねるとレルヒェは驚き、ひっくり返った声をあげながらエンテを振り返った。


「はっ!?」


「い、いやだって……北から来たレーマ軍を防ぐんだろ?

 またレーマ軍と戦うってことじゃねぇのかい?」


 エンテはこれまで三回、レーマ軍と戦っている。三回とも、レーマ軍に銃口を向けて撃っているのだ。そしてその三回とも敗北し、三回とも一緒に戦っていた仲間を全滅させられている。戦う前、エンテと一緒に居た盗賊で今も生き残っている者は一人もいないのだ。

 次は自分かもしれない……エンテにはそういう恐怖感があったのだ。しかしレルヒェはそんなエンテを笑い飛ばす。


「そんなわけあるかよ。

 俺たちがレーマ軍と戦ったって勝てっこねぇじゃねぇか。」


「だ、だってエイー様ドミヌス・ルメオクレーエの旦那ヘル・クレーエにゃ《森の精霊ドライアド》様の加護があるじゃねぇか!

 だから、《森の精霊ドライアド》様の御力をお借りしてレーマ軍と戦うのかと……」


「まさか!

 そんなことして何になんだよ!?」


「何にって……」

 

 そりゃレーマ軍を防ぐんじゃなかったのかよ……という言葉をエンテは飲み込んだ。


「《森の精霊ドライアド》様は強力だが、ブルグトアドルフから動くことはお出来にならねぇんだ。

 お前、一生 《森の精霊ドライアド》様に守られながらブルグトアドルフに立てこもるつもりか?!」


 エンテはブンブンと顔を振る。それを見てレルヒェはフゥと溜息をついて肩を落とした。


「とにかく、戦ったって勝ち目はねぇし、意味はねぇんだ。

 戦いやしねぇよ。

 クレーエの旦那ヘル・クレーエだって、そんなつもりは全く無ぇさ。」


「じゃ、じゃあ俺たちゃこれからどうすんだよ!?」


 なんだかレルヒェに馬鹿にされたような気になったエンテは少しムキになったように尋ねる。何かを応えようとしたレルヒェは最初の言葉を口にする前に思いとどまり、エンテをジッと見つめた。そしてここへ来る前、クレーエからエンテのことはあまり信用するなという忠告されていたことを思い出し、言葉を探し、そして視線を窓の外へ戻して答えた。


「そりゃ決まってんだろ?

 偵察さ。」

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