第1170話 取越し苦労
統一歴九十九年五月十日、夕 ‐ ブルグトアドルフ近郊/アルビオンニウム
職業差別というものはどの時代、どの世界にも存在する。宗教的・政治的・文化的な理由で差別される場合は時代や地域によって、差別の対象となったりならなかったりするが、生理的な理由の場合は時代や地域による差異もなく共通して差別の対象となる。悪臭を放つ職業などはその典型と言えるだろう。皮なめし職人はそうした差別を受けやすい職業の代表だ。
皮なめし職人は獣皮から体毛を剃り落とし、皮下脂肪を
そんな皮なめし職人がブルグトアドルフにも居た。やはり街道沿いの宿場町に住むことは許されておらず、仕方なく街から東へ半マイル以上離れた小高い丘の上に工房を構えている。街に近すぎず、それでいて行こうと思えばいつでも行ける距離で、しかも風が吹き抜けて悪臭が滞留しない丘の上は色々都合が良かったのだろう。
実際、見晴らしは大変良い。そこからはブルグトアドルフの宿場町の全景はもちろん、宿場町からアルビオンニウムまで北へ伸びるライムント街道をかなりの範囲で見渡すことが出来る。アルビオンニウムとブルグトアドルフの間を、軍勢なり商隊なりまとまった集団が移動しようとすれば、この工房に潜んだ監視者から見つからずにはいられないはずだ。ブルグトアドルフとアルビオンニウムの間に、この工房からは見えない間道が無いわけではないが、そうした裏道は軍隊がまとまって移動するには狭すぎるし荒れすぎている。部隊そのものは移動できても、十分な量の補給物資を運ぶことは難しいだろう。
それを考えれば、ダックスと名乗る盗賊がエイーがアルビオンニウムに居座っているレーマ軍……
実務上の都合だけを考えれば皮なめし工房を偵察活動の拠点にするというダックスと名乗る盗賊のアイディアは最適解ではあったかもしれないが、問題はそんなところにはなかった。
「
「
「
「
「
「
そう、この世で卑しむべきとされる職業の
それなのに貴族を、それも
「レルヒェ!」
工房まで目と鼻の先というところまで来たところで突然盗賊たちが言い争いを始めたのを見とがめ、エイーがレルヒェの名を呼んだ。盗賊たちの中では場違いな少年の声にレルヒェは弾かれた様にエイーの方を振り返り、背筋を伸ばす。
「は、はい!
レルヒェのひっくり返った様な声に気づいた盗賊たちは言い争いを止め、そろってエイーとレルヒェの方に注意を向ける。
「お前たちは何を言い争ってるんだ?
何かあったのか?
さっきから臭ってるこの臭いは何だ?」
エイーの当然の問いにレルヒェはどう答えたものか分からなかった。聖貴族を皮なめし工房などに連れて行こうとした……そう正直に言ってエイーが激昂すれば、彼らはどうなるかわかったものではない。今まで
「どうした、答えられないのか?」
「いえ、あの……その……」
答えに詰まりながらレルヒェは思わずダックスの方へチラリと視線を送る。すると他の盗賊たちもダックスを見、全員の視線が自分に集まっていることに気づいたダックスは慌て始めた。
「
「待てレルヒェ、俺にはお前たちの言葉は分からん。
何があった、ソイツが何かしたのか?」
エイーが改めて問い直すと、何とか誤魔化す方法は無いかと考えを巡らせていたレルヒェは無駄な努力を諦め、ハァーッと溜息をつきながら肩を落とす。
「申し訳ありません
偵察の拠点にうってつけの場所があるってこのダックスの野郎が言うもんでそこへご案内するつもりでした。
ですがそこへご案内するのはどうも……」
レルヒェの何かを誤魔化そうとするような様子にエイーは顔を
「何だ、何か不味いのか?」
「すみません、
そう言いながらレルヒェは前方の建物を指さした。結構大きな納屋と農家と厩舎が一塊になった様な、古びてはいるが一見するとちょっとした豪農の
「あの建物がどうかしたのか?
この臭いはあの建物から臭ってるのか?」
「え、ええ、それがそのぉ……」
頭を掻きながら言い淀むレルヒェの態度からエイーは一つの可能性に気づいた。
「まさかお前たち、あそこで人を殺して、死体をそのまま放置してるのか!?」
「いや、とんでもねぇ!!」
しかしレルヒェはエイーの指摘を否定する。
レルヒェも
「そんなんじゃありやせんや。
だいたい、人を殺したとしても五日前だ。
この季節じゃまだ臭っちゃ来やしやせん。
あそこはその……皮なめし職人の工房なんでさ。」
何とか誤魔化して穏便に済ませたかったが、人を殺して死体を放置したなどと疑いをかけられたのではたまらない。クレーエの仕事は、“リベレ”の仕事はスマートだから格好がいいのだ。死体を放置して腐るに任せるなど、格好のいい仕事ではないではないか。レルヒェはあらぬ疑いをこれ以上かけられないようにするため、思い切って白状した。
「皮なめし……工房?」
「そ、そうでさ。」
キョトンとした顔で尋ね返すエイーにクレーエはもうどうにでもなれとでも言いたそうな口調で答える。だが、彼らの心配は杞憂だったようだ。
「それが、どうかしたのか?」
「「「「えっ!?」」」」
思わぬ答えに盗賊たちが一斉に驚きの声を漏らした。
「い、いやだって、皮なめし職人ですぜ!?
皮を
そんな、卑しい場所に貴族様をお連れするわけにゃ……」
皮なめし工房には平民だって近づかないし、皮なめし職人が街に来るようなことがあれば人々は避けて家に引っ込むことすらある存在だ。さすがにブルグトアドルフの人間はそこまで皮なめし職人のことを嫌ってはいないが、それでも一緒にいて平気でいられる存在でもない。盗賊たちはブルグトアドルフの出身でも住民でもないが、皮なめし職人がどういう存在かぐらいは知っていた。その彼らからすれば、皮なめし職人の工房に案内されることに腹を立てないエイーの反応はむしろ意外でしかない。
「場所は好いんだろう?」
「
今までエイーと距離を置こうとし続けていた思わずダックスが力強く答え、エイーにドイツ語が通じないと気づくとラテン語で説明を始める。
「あそこからならブルグトアドルフの街はもちろん、ライムント街道だって全部一望にできまさっ!
屋根も壁もあって井戸もあって人が生活するのに支障はねぇ。
あそこ以上に都合のいい場所なんてありゃしませんぜ!!」
両腕でガッツポーズを作ったさえない小男は目を輝かせた。
「ならいいじゃないか。
平民も近づいてこない場所なら
「えっ!? だ、だって、皮なめし工房ですぜ!?
そんな場所に高貴な御方をお連れするわけには……」
抗議するレルヒェをエイーは手を掲げて遮った。
「俺は今は貴族じゃない。
冒険者なんだ。
いや、何の功績も無い俺は冒険者としても未熟なんだ。
『勇者団』の一員に
だから、冒険者として、『勇者団』として一人前になるためには、高貴とか卑しいとか、そんなこと気にしてられないんだ。」
そういうとエイーは目の前で立ち
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