第1134話 郷士と教会

統一歴九十九年五月十一日、晩 ‐ ティトゥス要塞カストルム・ティティ・アイゼンファウスト邸/アルトリウシア



 陽は既に水平線の彼方へと姿を消し、空を覆う雲の切れ目からは星が頼りない光を投げかけている。街は暗闇へと閉ざされ、人の灯す火の光は夜の商売をしているわずかな店と、夜を徹して享楽を愉しもうとする貴族ノビリタス屋敷ドムスと、健気にも夜の治安を保とうと職務に励む警察消防隊ウィギレスの掲げる松明たいまつに限られる。それらは遠くから見渡せば雲に覆われた夜空の星明りよりもさらに少なく、はかなげなまたたきでしかない。


 そんな地上の瞬きの一つ……ティトゥス要塞の要塞司令部プリンキピアにほど近いところにある、本来なら軍団幕僚宿舎プラエトーリウム・トリブニとして作られたはずの建物一つがアイゼンファウスト地区を治める郷士ドゥーチェメルヒオール・フォン・アイゼンファウストの宿舎である。領主ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵に面会したりティトゥス要塞に泊りがけで来なければならない時のためのもので、普段は管理のための最小限の使用人が数人いるだけだが、今日はメルヒオールが久しぶりに家族水入らずで過ごす憩いの場となっていた。

 昨夜、ティトゥス要塞で行われたサウマンディア第三大隊コホルス・テルティア・サウマンディイの歓迎会にメルヒオールが出席するついでに、ルクレティウス・スパルタカシウスに師事するためにティトゥス要塞に寄宿している息子カスパルと日曜礼拝を共にしようと妻マーヤが子供たちも連れて同行してきたからだった。

 メルヒオールは午前中にルキウスと面会し、昼はルクレティウスに面会してと、久しぶりに郷士ではなく父親として動き回った。いずれ跡を継ぐ次男カスパルが近い将来に起こるであろうハン支援軍アウクシリア・ハン討伐戦で初陣を飾れるよう、根回しをしていたのだ。まあ、手ごたえは上々だったと言えるだろう。

 ルキウスはエッケ島攻略そのものに対して前向きではないようだったが、否定的でもなかった。今はしたくないし考えたくも無いがいずれはやらねばならないという程度には考えているようで、具体的なことはともかくそのうちアルトリウスに話を通しておこうという口約束はしてもらえた。ルクレティウスの方はレーマの伝統を重んじる聖貴族だけあってメルヒオールの申し出を大層喜び、積極的に後押しをしようと言ってもらえた。

 父親として、跡取り息子にしてやれることはすべてやる……今日はそれをやりきれた、そんな満足感が心を満たしていたといえる。が、そんな満足感も思わぬところで水を差されることになった。


 ふぅ~~~ん……


 小用のために食堂を抜け出したメルヒオールはふと回廊ペリスタイルからよく手入れの行き届いた庭園ペリスティリウムへ寄り道し、そこから天を仰いで柄にもなく感慨にふけっていた。

 今はもう晩餐会は終わっており、食後のカフェの時間だ。レーマ貴族なら晩餐会ケーナが終わったところで酒宴コミッサーティオへとなだれ込み、夜を徹して酒盛りを繰り広げるのだが、ランツクネヒト族にはそうした習慣は無い。本来、午前中はずっと絶食し、昼間に執り行う日々の礼拝の後に正餐ディナーをいただき、夜寝る前にちょっとした軽食サパーをとってから床に付くのがキリスト者のあるべき生活スタイルだ。レーマ帝国でレーマ人の中で生活していく中でそうしたスタイルは変化を遂げつつあるが、基本的に夜を徹して酒盛りをするなど清貧を重んずるレーマ正教会の理想には反するものである。ゆえに、晩餐会の後はちょっとしたカフェで晩餐会の余韻を楽しみつつ気分をやわらげ、そして穏やかな気分で夜を迎えるのがレーマ・ランツクネヒト族のスタイルとなっていた。

 晩餐会はおおむね成功だった。いや、今のカフェの時間も含めて、失敗なんかがあったわけではない。ただ、メルヒオール個人にとっては心をかき乱されるようなちょっとした事件はあった。


 アイツが牧師にねぇ……


 メルヒオールの跡取り息子は本来なら次男カスパルではなく、長男のメルヒオール・ジュニアユニオアになるはずだった。ところが、彼は突然メルヒオールの跡を継ぐことを拒否、そのまま出奔し修道士になってしまっている。その長男がどうやら、シュバルツゼーブルグで牧師になったらしいことが先ほどベネディクト牧師から告げられたのだ。今はどうやら、メルキオルと名乗っているらしい。

 そのことを告げられた時、妻のマーヤは感動し、涙まで流しながら喜んでいた。メルヒオールは正直、なんと思ったらいいのか今でもよくわからない。なんだか胸のあたりがザワザワして、頭がグラグラするような妙な感覚に襲われた。マーヤと同じように喜んでいるのだろうか、それとも期待と信頼を裏切って勝手に出家した息子に怒りを新たにしたのか、それとも悲しんでいるのか、自分でもよく分からない。元・殺し屋の息子が牧師になったことを呆れているのか、あるいは嘲笑あざわらいたいのか……もしかしたらそれら全部なのかもしれない。

 周囲はメルヒオールが激昂するのではないかと恐れ、警戒し、顔色をうかがっているようだったが、メルヒオール自身も自分の心の内が分からないのに彼らが分かるわけもない。とにかくメルヒオールは自分が落ち着かなくなっていることだけは気付いていた。だから小用と称して食堂から抜け出て来たのだ。


 ふぅ~~~~~~~っ


 何度目になるかわからない長い溜息をつく。見上げる空の雲の切れ目から見える星がにじんで見えるのは、アルトリウシアでは珍しいことではない。雲の切れ目にも薄い雲がかかっていて、それが星の光を滲ませるのだ。そう、珍しいことではない。陽が出ていても、星が出ていても、雨が降ることは珍しくないのだ。


 まあ、いいさ。

 アイツのコトなんざ俺にはもう関係ねぇ。


 メルヒオールは雨に濡れた顔を拭い、頭をガシガシと掻くように雨水を払うと食堂へ戻った。家族も客も、一斉にメルヒオールに視線を向ける。食堂には何とも言えない緊張感が漂っていた。


「ふぅ~~~、スッキリしたぜ。

 歳とるとどうも小便が近くなっていけねぇや。っはっはぁ‥‥」


 ことさら陽気にそう言うと、メルヒオールは自分の席へズカズカと歩み寄り、椅子へどっかと座ると、出されていた茶菓子に手を伸ばした。周囲はそれで安心したようだ。ハハッと小さく笑い、御茶に茶菓子にと興じ始める。


「いやぁアイゼンファウスト卿、今日は素晴らしい御馳走でした。

 あらためて感謝申し上げます。」


 ベネディクトが一口啜った茶碗を置きながらにこやかに感謝を述べる。いつもだったらその一言が癪にさわったかもしれない。彼は長男が出奔して以来、メルヒオールにとって息子を奪った共犯者だったからだ。もちろん、理性ではそうでは無いとは分かっている。心情的には納得いってなかったが、しかしどうやらジュニアユニオアが牧師になったと聞いて、心情的にも吹っ切れたようだ。先ほどの胸のザワザワも、頭のグラグラもすっかり治まっている。


「なぁに、俺だってランツクネヒト族の下級貴族ノビレス、教会たぁ持ちつ持たれつさ。

 先月以来、教会にゃ随分働いてもらってんだ。

 俺にできることがあったら言って下せぇ。」


 メルヒオールの口調は聞く人が聞けばどこかヤケにでもなったかのような言い草に聞こえてしまうものだったが、それは必ずしもリップサービスでも安請け合いでもなかった。アイゼンファウスト地区はアルトリウシアで最も多くの被害と犠牲者を出したし、その対応には教会も大きく協力している。大量に発生した怪我人や病人、そして孤児たちの保護を教会は率先してやってくれたのだ。それが無ければメルヒオールの復興事業は今よりももっと遅れていただろう。


「アイゼンファウスト卿にそのように言っていただけるのは大変心強い。

 お気持ち、ありがたく頂戴いたします。」


 ベネディクトは同席していたマティアス司祭と一瞬目配せすると、にこやかにそう答えた。メルヒオールはそれに気づいてはいなかったが、ベネディクトの声色から何か強請ねだるつもりだなと察し、視線だけベネディクトへ向けながら摘まみ取ったドライフルーツを口へと押し込み、わざと大きな動作でクチャクチャと咀嚼そしゃくする。


「実はアイゼンファウスト卿にお願いがありまして。」


 メルヒオールは湯気をあげる茶碗に手を伸ばし、口元へ運んだ。香茶の豊潤な香りがメルヒオールの鼻孔をくすぐる。


「修道女を二人、ティトゥス教会からアイゼンファウスト教会へ異動させたいのです。」


「異動?」


 メルヒオールはいぶかし気に片眉を持ち上げると、香茶を一口啜って訊き返した。


「こんな時期に?」


「ええ、こんな時期だからこそです。

 アイゼンファウスト教会には孤児や老人、怪我人が多く身を寄せており、手が足らないと聞いております。

 むろん、ティトゥス教会の方も同じくたくさんの被害者を預かっておりますが、ティトゥス教会よりもアイゼンファウスト教会の方が人手が足らないようだと判断いたしましてね。」


「そいつぁありがてぇ。

 確かに人手が足らなくて、ウチからも使用人を何人かやって手伝わせてるんだが、それでも手が足らねぇって話だ。

 手が出せる奴にゃ手ぇださせてんだが、さすがに怪我人の扱いとなると素人じゃ出来ねぇこともありやすからねぇ。

 それが二人も修道女を回してもらえんなら、きっと大いに助かりましょう。」


 どこか緊張で引きつった様な笑顔を作っていたベネディクトはメルヒオールのその言葉に安堵したようで、胸に手を当て今度は本心から安心したような本物の笑みを浮かべる。二人の会話を聞いていたマティアスも安堵したように微笑んだ。


「おお、御同意いただいてありがとうございます。」


「そいで、お願いというのは?

 俺ぁ何をすればいいんで?」


「ええ、明日の日曜礼拝のあと、アイゼンファウストに御帰りになる際に、二人を一緒に連れて行ってもらいたいのです。

 彼女たちの荷物も多少はありますし……

 それにアイゼンファウスト教会は既に収容した孤児と怪我人でいっぱいだそうなので、できれば住む部屋もどこかに御用意いただけると助かるのですが……」


 メルヒオールはマーヤと顔を見合わせ答えた。


「それくらいはお安い御用だ。

 修道女二人とその荷物くらいわけはありやせん。

 部屋もウチの屋敷の部屋をお貸しいたしやしょう。」


「「おおっ!」」


 ベネディクトとマティアスは揃って声を挙げた。


「感謝いたしますアイゼンファウスト卿。

 アナタに神の祝福がありますように!」

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