第1134話 郷士と教会
統一歴九十九年五月十一日、晩 ‐
陽は既に水平線の彼方へと姿を消し、空を覆う雲の切れ目からは星が頼りない光を投げかけている。街は暗闇へと閉ざされ、人の灯す火の光は夜の商売をしているわずかな店と、夜を徹して享楽を愉しもうとする
そんな地上の瞬きの一つ……ティトゥス要塞の
昨夜、ティトゥス要塞で行われた
メルヒオールは午前中にルキウスと面会し、昼はルクレティウスに面会してと、久しぶりに郷士ではなく父親として動き回った。いずれ跡を継ぐ次男カスパルが近い将来に起こるであろう
ルキウスはエッケ島攻略そのものに対して前向きではないようだったが、否定的でもなかった。今はしたくないし考えたくも無いがいずれはやらねばならないという程度には考えているようで、具体的なことはともかくそのうちアルトリウスに話を通しておこうという口約束はしてもらえた。ルクレティウスの方はレーマの伝統を重んじる聖貴族だけあってメルヒオールの申し出を大層喜び、積極的に後押しをしようと言ってもらえた。
父親として、跡取り息子にしてやれることはすべてやる……今日はそれをやりきれた、そんな満足感が心を満たしていたといえる。が、そんな満足感も思わぬところで水を差されることになった。
ふぅ~~~ん……
小用のために食堂を抜け出したメルヒオールはふと
今はもう晩餐会は終わっており、食後のカフェの時間だ。レーマ貴族なら
晩餐会はおおむね成功だった。いや、今のカフェの時間も含めて、失敗なんかがあったわけではない。ただ、メルヒオール個人にとっては心をかき乱されるようなちょっとした事件はあった。
アイツが牧師にねぇ……
メルヒオールの跡取り息子は本来なら次男カスパルではなく、長男のメルヒオール・
そのことを告げられた時、妻のマーヤは感動し、涙まで流しながら喜んでいた。メルヒオールは正直、なんと思ったらいいのか今でもよくわからない。なんだか胸のあたりがザワザワして、頭がグラグラするような妙な感覚に襲われた。マーヤと同じように喜んでいるのだろうか、それとも期待と信頼を裏切って勝手に出家した息子に怒りを新たにしたのか、それとも悲しんでいるのか、自分でもよく分からない。元・殺し屋の息子が牧師になったことを呆れているのか、あるいは
周囲はメルヒオールが激昂するのではないかと恐れ、警戒し、顔色を
ふぅ~~~~~~~っ
何度目になるかわからない長い溜息をつく。見上げる空の雲の切れ目から見える星が
まあ、いいさ。
アイツのコトなんざ俺にはもう関係ねぇ。
メルヒオールは雨に濡れた顔を拭い、頭をガシガシと掻くように雨水を払うと食堂へ戻った。家族も客も、一斉にメルヒオールに視線を向ける。食堂には何とも言えない緊張感が漂っていた。
「ふぅ~~~、スッキリしたぜ。
歳とるとどうも小便が近くなっていけねぇや。っはっはぁ‥‥」
ことさら陽気にそう言うと、メルヒオールは自分の席へズカズカと歩み寄り、椅子へどっかと座ると、出されていた茶菓子に手を伸ばした。周囲はそれで安心したようだ。ハハッと小さく笑い、御茶に茶菓子にと興じ始める。
「いやぁアイゼンファウスト卿、今日は素晴らしい御馳走でした。
あらためて感謝申し上げます。」
ベネディクトが一口啜った茶碗を置きながらにこやかに感謝を述べる。いつもだったらその一言が癪にさわったかもしれない。彼は長男が出奔して以来、メルヒオールにとって息子を奪った共犯者だったからだ。もちろん、理性ではそうでは無いとは分かっている。心情的には納得いってなかったが、しかしどうやら
「なぁに、俺だってランツクネヒト族の
先月以来、教会にゃ随分働いてもらってんだ。
俺にできることがあったら言って下せぇ。」
メルヒオールの口調は聞く人が聞けばどこかヤケにでもなったかのような言い草に聞こえてしまうものだったが、それは必ずしもリップサービスでも安請け合いでもなかった。アイゼンファウスト地区はアルトリウシアで最も多くの被害と犠牲者を出したし、その対応には教会も大きく協力している。大量に発生した怪我人や病人、そして孤児たちの保護を教会は率先してやってくれたのだ。それが無ければメルヒオールの復興事業は今よりももっと遅れていただろう。
「アイゼンファウスト卿にそのように言っていただけるのは大変心強い。
お気持ち、ありがたく頂戴いたします。」
ベネディクトは同席していたマティアス司祭と一瞬目配せすると、にこやかにそう答えた。メルヒオールはそれに気づいてはいなかったが、ベネディクトの声色から何か
「実はアイゼンファウスト卿にお願いがありまして。」
メルヒオールは湯気をあげる茶碗に手を伸ばし、口元へ運んだ。香茶の豊潤な香りがメルヒオールの鼻孔をくすぐる。
「修道女を二人、ティトゥス教会からアイゼンファウスト教会へ異動させたいのです。」
「異動?」
メルヒオールは
「こんな時期に?」
「ええ、こんな時期だからこそです。
アイゼンファウスト教会には孤児や老人、怪我人が多く身を寄せており、手が足らないと聞いております。
むろん、ティトゥス教会の方も同じくたくさんの被害者を預かっておりますが、ティトゥス教会よりもアイゼンファウスト教会の方が人手が足らないようだと判断いたしましてね。」
「そいつぁありがてぇ。
確かに人手が足らなくて、ウチからも使用人を何人かやって手伝わせてるんだが、それでも手が足らねぇって話だ。
手が出せる奴にゃ手ぇださせてんだが、さすがに怪我人の扱いとなると素人じゃ出来ねぇこともありやすからねぇ。
それが二人も修道女を回してもらえんなら、きっと大いに助かりましょう。」
どこか緊張で引きつった様な笑顔を作っていたベネディクトはメルヒオールのその言葉に安堵したようで、胸に手を当て今度は本心から安心したような本物の笑みを浮かべる。二人の会話を聞いていたマティアスも安堵したように微笑んだ。
「おお、御同意いただいてありがとうございます。」
「そいで、お願いというのは?
俺ぁ何をすればいいんで?」
「ええ、明日の日曜礼拝のあと、アイゼンファウストに御帰りになる際に、二人を一緒に連れて行ってもらいたいのです。
彼女たちの荷物も多少はありますし……
それにアイゼンファウスト教会は既に収容した孤児と怪我人でいっぱいだそうなので、できれば住む部屋もどこかに御用意いただけると助かるのですが……」
メルヒオールはマーヤと顔を見合わせ答えた。
「それくらいはお安い御用だ。
修道女二人とその荷物くらいわけはありやせん。
部屋もウチの屋敷の部屋をお貸しいたしやしょう。」
「「おおっ!」」
ベネディクトとマティアスは揃って声を挙げた。
「感謝いたしますアイゼンファウスト卿。
アナタに神の祝福がありますように!」
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