第1132話 追い返されるグルギア

統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ裏/アルトリウシア



 外出禁止を破り、関係者以外の立ち入りが禁止されたエリアを無断で歩き回っていた後ろめたさもあって、突然現れたホブゴブリンたちに見つかったグルギアは心底おびえていた。逃げようにも足がすくんで逃げられない。いや、背後に壁、正面に二人のホブゴブリンが並んで立ち、燃え盛る松明たいまつを突き付けている状況では下手に動けるわけもない。逃げたところで逃げ切れるわけもない。女より男が、ヒトよりホブゴブリンの方が足は速いのだ。ヒトの女のグルギアが男のホブゴブリンに足で勝てるわけがない。


 絶体絶命……グルギアの状況を端的に表すならそうなるだろう。どうすべきかせめて考えなければならないはずだが、焦りばかりがつのって考えがまとまらない。いや、何も考えられない。逃げられず、かといって他に何をすべきかもわからず、ただただ状況に振り回されるように静かにパニックにおちいっていたグルギアは唐突に自分の名前を言い当てられ、そのまま素直にうなずいた。


「は……はい……」


 グルギアが震えを隠し切れない声で答えるとゴルディアヌスとアウィトゥスはニィっと笑う。そして互いに顔を見合うと「やっぱりだ」とか満足げに頷きながら、グルギアに突きつけられた松明が引っ込めた。


「話は聞いてるぜ、アンタ奥方様ドミナに献上されるんだってな?」


 いきなり変化した雰囲気を把握しきれないグルギアは、アウィトゥスの問いに答えず見開いた目で改めてアウィトゥスとゴルディアヌスを観察し始めた。その様子はまるで生まれてすぐに捨てられた子猫のようである。


「そう怖がらなくていい、安心しろよ。」


 グルギアが未だに怯えていることに気づいたゴルディアヌスはことさら陽気に言うと、グルギアの右肩をポンと優しくたたいた。が、グルギアの方はビクッと身体を振るわせて身構える。叩かれた方の肩は裏路地の方……つまり彼女にとっての逃げ道の方だったのだ。ゴルディアヌスは真実、気遣きづかいのつもりでやったことだったが、グルギアからすれば逃げ道は無いぞと警告されたような気になってしまう。


「それにしたってアンタ一人で何しに来たんだ?

 ここは街よりは安全だが、夜に女が一人で外に出るなんて危ねぇぜ。」


 ゴルディアヌスはグルギアを安心させるつもりで却って怖がらせてしまっていることに気づきもしない。すっかり上機嫌な様子だ。まあ、ゴルディアヌスとしては怪しいと思った相手がか弱いヒトの女だったこと、しかも今度仕事仲間になる予定の女奴隷と知って一安心したというのと、グルギアごときを相手に警戒してしまった自分が恥ずかしかったことから笑って誤魔化したかったのだ。あと、目の前の相手が自分のことを怖がっているということに対する満足もある。怖がられるということは自分の力が評価されているということであり、力の信奉者であるゴルディアヌスのような男にとって他人に怖がられるというのは好ましいことでもあったのだ。人間、他人に怖がられることには快感を覚えるものだ。ただ、そのことを自覚できずに否定する者も少なくない。もちろんゴルディアヌス自身にそうした自分の内面を自覚するだけの頭は無い。

 ゴルディアヌスが上機嫌になったのを見て取ったアウィトゥスも調子を合わせる。


「そうだぜ、だいたいアンタ、まだ奥方様ドミナの奴隷になるって決まったわけじゃないんだろ?」


「あ、あ、アナタ方は……その……」


 何やら自分に危害を加える気はなさそうだと気づいたグルギアだったが、しかしまだ内面の興奮は冷めやらない。心臓の鼓動を押さえようとローブの下で胸に手を当てながら、やけに息の詰まる喉から何とか言葉を紡ぎ出す。それはゴルディアヌスやアウィトゥスの質問に対する答えではなかった。


「あ?

 あぁ、俺たちはその……」


 グルギアの問いに答えようとしたゴルディアヌスだったが、いくら相手がこれから仕事仲間になる奴隷とはいえ、まだリュウイチの事をしゃべって良いわけではないと気づいたゴルディアヌスは言葉に詰まり、横目でアウィトゥスを見た。ゴルディアヌスの意図を察したアウィトゥスはゴルディアヌスと同じく短い逡巡を経て、何かを誤魔化すように勢いよく答える。


「こっ、ここの屋敷ドムスのモンだ、俺たちは!」


「おう、そうだ。

 俺たちゃここで働いてるモンだ。」


「アンタが奥方様ドミナに受け取ってもらえりゃ、仕事仲間になるなだろうがな。」


「おう、そうだ。

 で、アンタまだ俺らの質問に答えてねぇぞ?」


 アウィトゥスがきっかけを作るとゴルディアヌスはそれに乗っかるように、二人は調子を合わせて言葉を重ねた。

 ここは要塞カストルムの中心だし、そこで出くわした見るからに屈強そうなホブゴブリンの二人はてっきり軍人だろうと思いこんでいたグルギアだったが、二人の話しぶりからするとそうでもないらしい。捕らえられるものだと警戒していたが、二人にそのつもりはないらしいことに気づくと、グルギアは急速に落ち着きを取り戻していった。

 が、同時にグルギアは別の意味で二人を警戒し始める。


 この人たち……将来の仕事仲間?


 捕まらずに済んだとしても、ここで下手に振る舞って心証を悪くすれば後々大変なことになるかもしれない。グルギアは内心から沸き起こり始めた安堵感を必死に抑え、気持ちを引き締めた。


「わ、私は、その……」


 もっとも、まだ胸の内の興奮は冷めきってはいないので声はどうしても詰まり気味だ。


「私は、コレっ、コレの御礼を言いたくて……」


 グルギアが身にまとっているローブを指し示しながら何とか声を絞り出してそれだけ言うと、ゴルディアヌスとアウィトゥスは揃って「あー」と間の抜けた声を出した。その表情は「納得した」というのと同時に「呆れ」とも「諦め」ともつかぬ、何か残念なものを見るような何とも生暖かいものである。

 二人の様子、その意味がわからないグルギアは自分の言いたいことが伝わってないのではないかと思い、言葉を重ねた。


「このっ、こんな上等なローブパエヌラ、私のような女奴隷セルウァごときにいただきまして、その、まだ私、御礼を言えてませんでしたから……」


「あー、うん、わかった。」


 必死に言いすがろうとするグルギアをゴルディアヌスは手をかざして制止させた。それ以上は言わなくていい……そんな態度で、グルギアからすればまるで突き放されたような冷淡な反応に見える。グルギアはなおも必死で追いすがろうとしたが、その前にアウィトゥスが割って入った。


「ソイツぁ気にしなくていい。

 ソイツぁ確かにスゲェもんだが、旦那様ドミヌスにとっちゃホントに大したもんじゃねぇんだ。」


「でもっ!」


「いや、俺たちも外套サガムだけど、同じようなの貰ってんだ。

 見ろ、俺たちが今着てる服もソレと同じで旦那様ドミヌスに貰ったんだ。」


 グルギアがなおも訴えようとすると今度はゴルディアヌスの方がグルギアを宥め、自分たちが来ている鎧下イァックを見せびらかすように裾を掴んで広げて見せる。グルギアはその時初めて、彼らの着ている服がまるで上級貴族パトリキの服のように高品質なものであることに気づき、言葉を飲んだ。


「納得したか?」


「……え、あ……いや、でも……」


「礼なら後で、正式に奥方様ドミナ女奴隷セルウァになってから言えよ。」


「でも、それじゃ私……」


「それよりもアンタ、ここに居ちゃまずいだろ?

 送ってってやるから今日は帰りな。」


 ゴルディアヌスはそう言うとその大きな手でグルギアの両肩を掴むとやさしく、しかしグルギアにとっては強引に、裏路地へ押し出した。


「アンタのこと、サウマンディアの女諜報員エーミッサーリアとか女工作員スペキュラートリクスとか疑ってる奴が居ンだよ。」


女工作員スペキュラートリクス!?」


 裏路地へ追い出されそうになって慌てていたグルギアはゴルディアヌスの思わぬ言葉に耳を疑い、思わず頓狂とんきょうな声をあげる。


「笑うだろ?

 そんな馬鹿なこと本気で言ってるアホに見つかって騒ぎになったら面倒だ。

 アンタ、受け取って貰えなくなっちまうぜ?」


「ゴルディアヌスのアニキ、ホントにソイツを送ってくのか?」


「ああ、悪ぃが後は任せるぜ?」


 ゴルディアヌスは裏口ポスティクムで一人松明を掲げたままたたずむアウィトゥスにそう告げると、本格的にグルギアを押して外へ向かわせはじめた。

 さすがに本当に騒ぎになり、そのせいで奴隷として受け取って貰えなくなったなんてことになったらそれこそ目も当てられない。グルギアは新しい主人に仕え、主人のことを報告する役目を果たせば、バラバラに離散してしまった家族を探してもらえる約束なのだ。それがになっては、家族との再会も家の再興も不可能になってしまうだろう。グルギアは今日のところは諦め、大人しくゴルディアヌスに従うことにした。

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