第1128話 脱走
統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐
あの後、バルビヌスは席を立つとグルギアの
一人取り残されたグルギアは途方に暮れる。夕食は使用人が運んでくれたが、何故か食欲がわかない。
それでも二口三口と口を付けてみたものの、どうも胸に何かがつっかえるようで続きを食べる気になれず、いっそのこと寝てしまおうと
起き上がっては食事を一口食べ、再びベッドで寝転がり、寝付けず起き上がっては残された食事を口にし、やはり再びベッドへ身体を投げ出す……そんな愚にもつかないことを幾度か繰り返し、グルギアはパッと起き上がった。
その脳裏に勝手に出かけてはならぬというバルビヌスの戒めが浮かぶ。
……いえ、やっぱりチョット、ちょっとだけ行ってみよう……
具合を悪くした際に貰った灰色のローブを手に取る。暗くてよく見えないが、しかし手で触れ、持っただけでその素晴らしさがわかる。おそらくフェルトで作られているであろうそれはどこまでも滑らかでスベスベと滑るようであり、どこかで引っ掛かるような摩擦をほとんど感じない。薄い毛布のような厚さがあるのに軽くて信じられないほど柔らかく、身に
これほど上等な外套を見ず知らずの奴隷ごときに惜しげもなくポンと渡すのだから、きっと
そうよ、これを……こんな上等なものをいただいて、お礼を言わないと……
グルギアの脳裏にこのローブを着せたネロの姿がよぎった。グルギアの記憶に残るホブゴブリンは見たことも無いくらい立派な
グルギアはそのローブを羽織ると扉を開け、周囲に人気が無いのを確認しながら階段を降りる。レーマ風の
女が夜中に一人で外へ出るなど「襲ってくれ」と言っているようなものだ。娼婦だって夜中に一人で出歩いたりはしない。無事に帰ってこれるなんて期待する方がおかしい……そういうレベルの治安状況なのが
それでも出ていく気になれたのはここが
しかし、それでもグルギアにとってこうも薄暗くなってしまった時間帯に家の外へ出るというのはかなりな冒険だった。いくら性欲の対象として興味を持たれる心配はないとはいえ、見つかればただでは済まない。グルギアは外には出るなと言われているのだし、ここは立ち入り禁止区域……正体不明の人間が一人でフラフラしているのを見つかれば間違いなく捕まるだろうし、マルクスが連れて来た女奴隷だと気づいてもらえ、無事にバルビヌスに引き渡してもらえたとしても、バルビヌスからは
裏口から出たグルギアは暗く何も見えない裏路地を、壁に縋りつきながら手探りで、裏路地の向こう側の通りから差し込む光を目指して進む。
ハァ……ハァ……
通りから差し込んでくる
胸がドキドキと高鳴るのは見つかるかもしれないというスリルからだろうか? 暗い裏路地から顔だけを出して見回すと、表通りの昼間とは違った夜の顔が目に映る。貴族だった時はもちろん、奴隷になってからも一度も夜中に外へ出たことのないグルギアにとって、それは新鮮であり、なおかつ異様な光景だった。
そこに在るのはどこにでもあるごく当たり前なレーマ建築。石やレンガを積んで表面をモルタルで仕上げただけの殺風景な建物。街中ならばその壁には宣伝などの落書きがいくつもされていたりするのだが、さすがにここは軍事施設だけあってそういった落書きが一切ない。それだけでも生活感が失われたような虚無感が漂ってくるが、だからといって神殿のような
見上げれば茜色に染まった西の空を背景にしたそれら建物群は昼間見る明灰色の壁とは違い、まるで燃え上がる空の一部を切り抜いたかのように真っ黒だ。それでいて地面に近い一階部分は篝火に照らされボンヤリとオレンジ色に染まっていて、歩哨や時折通り過ぎる軍団兵たちの作り出す影が壁や地面に踊っている。まるで二つの全く別の世界が重なって、今から一つになろうとしているかのようだ。
さっき
怖い……なんだか
黒とオレンジの作り出す異様な風景に魅入られながらグルギアはゴクリと唾をのんだ。
だ、大丈夫よ……ここは
モンスターなんかいないわ。
あそこで動いているのは
全部、生きている人間よ……
意を決しグルギアは裏路地から踏み出した。見つからないように物陰に隠れながら進むグルギアは、しかし軍団兵たちに見とがめられることは無かった。灰色のローブのせいで背景に溶け込めていたのかもしれない。他にも、バルビヌスの宿舎から目的の……要塞司令部の裏口へ通じる裏道の入り口までの距離が短かったこともあっただろう。ともかくグルギアは誰の目にも止まることなく、二つの陣営本部の間にある、要塞司令部の裏口へ通じる裏道へたどり着くことが出来た。
既に陽は沈み、明るさの残る空以外は真っ暗で何もで見えなくなった裏路地を、壁に手を突きながら恐る恐る進む。サンダルを引きずるように進むたびに、濡れた石畳はシュルルと奇妙な足音が響き渡るが、自分が進んでいるような……進めているような実感がまるでわかない。
こんなに長い通路だったっけ?
真っ暗な空間は距離感を狂わせるだけでなく、感覚そのものを麻痺させていくようだ。そのうち自分が今どこに居るのかさえ分からなくなっていく。だが足を動かし続けていたということは、やはりそれなりに前へ進んでいたということだった。やがて壁を伝いつづけてきた左手が大きな窪みを見つける。それは目指した陣営本部裏口のために壁に開けられた大きな穴だった。
その角の部分に縋るように肩を当て、中へ入る。そして右手を伸ばしながら一歩踏みこむと、指先が冷たく湿った木の板に触れた。それこそが裏口の扉……その向こう側に、バルビヌスが見せてくれたあの庭園が広がっているのだ。
やっと着いた……
胸の高鳴りは最高潮に達していたが、目的の場所にたどり着いた安堵と相まって不思議と心地よい。
ドアノブを探して扉を開ければ……
グルギアが扉を開こうと手探りで取っ手を探し始めたその時、扉はひとりでに引っ込み、そして開いた。
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