第1128話 脱走

統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ マニウス要塞カストルム・マニ/アルトリウシア



 あの後、バルビヌスは席を立つとグルギアの寝室クビクルムを後にした。グルギアはまだ訊きたいことがあったので引き留めようとはしたのだが、バルビヌスは晩餐会ケーナに招待されていて出席せねばならなかったし、奴隷とはいえ男が女の寝室にいるというのはあまり風聞的にもよろしくないということで、バルビヌスはグルギアを振り切ると一階の自室へと戻り、手早く正餐用衣装ウェスティス・ケナトリアに着替えるとスプリウスと共に出かけてしまった。


 一人取り残されたグルギアは途方に暮れる。夕食は使用人が運んでくれたが、何故か食欲がわかない。貴族ノビリタスからすれば御馳走というほどではないが平民プレブスからすればちょっと豪勢、貧民パウペルにとってはたまにあり付けるかどうかの御馳走といった感じの、量だけは多いが味や素材は大したことのない料理だった。もちろん、痩せこけた女奴隷セルウァにすぎないグルギアにとっては御馳走と言って良い内容ではあったが、マルクスに見いだされ伯爵家に買い上げられてからグルギアを太らせるために与えられるようになった食事の延長みたいなものではあったためさほど食欲をそそらない。あれだけ飢えていた人間がわずか数日で大した変化だ。慣れというのは恐ろしい。


 それでも二口三口と口を付けてみたものの、どうも胸に何かがつっかえるようで続きを食べる気になれず、いっそのこと寝てしまおうとベッドレクトゥスに入っては見たもののやはり寝付けない。目を閉じると、つい先ほど裏口ポスティクムごしに見た庭園ペリスティリウムが浮かび上がってくるのだ。

 起き上がっては食事を一口食べ、再びベッドで寝転がり、寝付けず起き上がっては残された食事を口にし、やはり再びベッドへ身体を投げ出す……そんな愚にもつかないことを幾度か繰り返し、グルギアはパッと起き上がった。

 その脳裏に勝手に出かけてはならぬというバルビヌスの戒めが浮かぶ。


 ……いえ、やっぱりチョット、ちょっとだけ行ってみよう……


 具合を悪くした際に貰った灰色のローブを手に取る。暗くてよく見えないが、しかし手で触れ、持っただけでその素晴らしさがわかる。おそらくフェルトで作られているであろうそれはどこまでも滑らかでスベスベと滑るようであり、どこかで引っ掛かるような摩擦をほとんど感じない。薄い毛布のような厚さがあるのに軽くて信じられないほど柔らかく、身にまとえば寒さをほとんど感じなくなる。これほどの物はかつてグルギアを所有した主人の下級貴族ノビレスたちはもちろん、まだ奴隷に堕とされる前の、上級貴族パトリキの一員だったころのグルギアだって触れたことは無かった。

 これほど上等な外套を見ず知らずの奴隷ごときに惜しげもなくポンと渡すのだから、きっと上級貴族パトリキ中の上級貴族に違いない。そう言えばグルギアが献上される予定の貴族は非常に高貴な人物だと幾度となくマルクスが言っていた。ひょっとしたら皇族に連なる方だとしても不思議ではない。


 そうよ、これを……こんな上等なものをいただいて、お礼を言わないと……


 グルギアの脳裏にこのローブを着せたネロの姿がよぎった。グルギアの記憶に残るホブゴブリンは見たことも無いくらい立派なロリカを身を包み、若く、力強く、そして堂々としていた。きっと名のある騎士エクィテスに違いなかった。


 グルギアはそのローブを羽織ると扉を開け、周囲に人気が無いのを確認しながら階段を降りる。レーマ風の屋敷ドムスはだいたいどれも似かよった造りになっており、勘だけで出口は容易に見つかった。中で洗い物をしている厨房クリナの脇を足音を殺しながら通り抜け、そっと裏口から外へ出る。


 女が夜中に一人で外へ出るなど「襲ってくれ」と言っているようなものだ。娼婦だって夜中に一人で出歩いたりはしない。無事に帰ってこれるなんて期待する方がおかしい……そういうレベルの治安状況なのがこの世界ヴァーチャリアなのだ。

 それでも出ていく気になれたのはここが要塞カストルムの中であり、しかも関係者以外が入ってこれない厳重な警備を布かれた立ち入り禁止区域になっていたこと。しかもこの立ち入り禁止区域に出入りしている軍団兵レギオナリウスのほとんどがホブゴブリンであり、痩せこけたヒトの女にが限りなく低いことなどが理由だった。あと、グルギア自身、自分が痩せすぎていてヒトの男からすら性欲の対象にされにくいことを自覚していたというのもある。

 

 しかし、それでもグルギアにとってこうも薄暗くなってしまった時間帯に家の外へ出るというのはかなりな冒険だった。いくら性欲の対象として興味を持たれる心配はないとはいえ、見つかればただでは済まない。グルギアは外には出るなと言われているのだし、ここは立ち入り禁止区域……正体不明の人間が一人でフラフラしているのを見つかれば間違いなく捕まるだろうし、マルクスが連れて来た女奴隷だと気づいてもらえ、無事にバルビヌスに引き渡してもらえたとしても、バルビヌスからは折檻せっかんされてしまうかもしれない。

 裏口から出たグルギアは暗く何も見えない裏路地を、壁に縋りつきながら手探りで、裏路地の向こう側の通りから差し込む光を目指して進む。


 ハァ……ハァ……


 通りから差し込んでくる篝火かがりびの光だけを見ながら進んだせいか、それとも裏口から表の通りまでの距離が実際に近かったのか、グルギアは苦も無く裏路地を抜けて表通りにたどり着いた。


 胸がドキドキと高鳴るのは見つかるかもしれないというスリルからだろうか? 暗い裏路地から顔だけを出して見回すと、表通りの昼間とは違った夜の顔が目に映る。貴族だった時はもちろん、奴隷になってからも一度も夜中に外へ出たことのないグルギアにとって、それは新鮮であり、なおかつ異様な光景だった。

 そこに在るのはどこにでもあるごく当たり前なレーマ建築。石やレンガを積んで表面をモルタルで仕上げただけの殺風景な建物。街中ならばその壁には宣伝などの落書きがいくつもされていたりするのだが、さすがにここは軍事施設だけあってそういった落書きが一切ない。それだけでも生活感が失われたような虚無感が漂ってくるが、だからといって神殿のような静謐せいひつさも無く、神聖な感じも一切しない。

 見上げれば茜色に染まった西の空を背景にしたそれら建物群は昼間見る明灰色の壁とは違い、まるで燃え上がる空の一部を切り抜いたかのように真っ黒だ。それでいて地面に近い一階部分は篝火に照らされボンヤリとオレンジ色に染まっていて、歩哨や時折通り過ぎる軍団兵たちの作り出す影が壁や地面に踊っている。まるで二つの全く別の世界が重なって、今から一つになろうとしているかのようだ。


 さっき要塞司令部プリンキピアからバルビヌスの宿舎プラエトーリウムに連れて来られるときは、陣営本部プラエトーリウムの間の裏路地から出て直ぐ東へ進んだせいでこの風景は目にしていなかった。アルトリウスが寄宿する東側陣営本部の方は西側ほど警戒が厳重ではなく、篝火もあまりなかったし出歩く軍団兵の姿もほとんどなかった。その時は東の空も既に暗くなっており、目にした風景はごく当たり前の……かつて窓から見たことのある夜の風景でしかなかった。だが、逆側はこんなにも違っていたのだ。


 怖い……なんだか冥府めいふのようだわ……


 黒とオレンジの作り出す異様な風景に魅入られながらグルギアはゴクリと唾をのんだ。


 だ、大丈夫よ……ここは要塞カストルムの中だもの。

 モンスターなんかいないわ。

 あそこで動いているのは軍団兵レギオナリウス……

 全部、生きている人間よ……


 意を決しグルギアは裏路地から踏み出した。見つからないように物陰に隠れながら進むグルギアは、しかし軍団兵たちに見とがめられることは無かった。灰色のローブのせいで背景に溶け込めていたのかもしれない。他にも、バルビヌスの宿舎から目的の……要塞司令部の裏口へ通じる裏道の入り口までの距離が短かったこともあっただろう。ともかくグルギアは誰の目にも止まることなく、二つの陣営本部の間にある、要塞司令部の裏口へ通じる裏道へたどり着くことが出来た。

 既に陽は沈み、明るさの残る空以外は真っ暗で何もで見えなくなった裏路地を、壁に手を突きながら恐る恐る進む。サンダルを引きずるように進むたびに、濡れた石畳はシュルルと奇妙な足音が響き渡るが、自分が進んでいるような……進めているような実感がまるでわかない。


 こんなに長い通路だったっけ?


 真っ暗な空間は距離感を狂わせるだけでなく、感覚そのものを麻痺させていくようだ。そのうち自分が今どこに居るのかさえ分からなくなっていく。だが足を動かし続けていたということは、やはりそれなりに前へ進んでいたということだった。やがて壁を伝いつづけてきた左手が大きな窪みを見つける。それは目指した陣営本部裏口のために壁に開けられた大きな穴だった。

 その角の部分に縋るように肩を当て、中へ入る。そして右手を伸ばしながら一歩踏みこむと、指先が冷たく湿った木の板に触れた。それこそが裏口の扉……その向こう側に、バルビヌスが見せてくれたあの庭園が広がっているのだ。


 やっと着いた……


 胸の高鳴りは最高潮に達していたが、目的の場所にたどり着いた安堵と相まって不思議と心地よい。


 ドアノブを探して扉を開ければ……


 グルギアが扉を開こうと手探りで取っ手を探し始めたその時、扉はひとりでに引っ込み、そして開いた。

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