第1124話 グルギアとバルビヌス

統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ マニウス要塞カストルム・マニ幕僚宿舎プラエトーリウム・トリブニ/アルトリウシア



 レーマ軍の要塞カストルムは中心に要塞司令部プリンキピアを配置し、その正面広場フォルム・プラエトーリアを中心に碁盤の目のように通路を通して施設を配置している。要塞司令部の裏手は必ずといっていいほど駐屯する軍団レギオー軍団長レガトゥス・レギオニス用の陣営本部プラエトーリウムが置かれ、その周辺に高級将校クアドラプリカーリウス用の宿舎が病院ウァレトゥディナリウム公衆浴場テルマエ工房ファブリカなどと共に並び、要塞ならびに軍団の中枢機能が集約される。兵舎や倉庫群ホレアはその外側だ。

 レーマ軍団で高級将校というと大きく軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム大隊長ピルス・プリオルの二つに分けられる。両者の軍団内の立場はもちろん違い、前者が上位だ。軍団幕僚は貴族ノビリタスでなければなれないが、大隊長は平民プレブス出身の軍団兵レギオナリウスでも出世によってなることが出来る。軍団幕僚が大隊の指揮を執ることはあっても、大隊長が軍団幕僚に命令を下す可能性は無い。

 軍団幕僚用と大隊長用では与えられる宿舎も違うのだが、敷地面積だけは同じだったりする。軍団幕僚は軍団長を支えて軍団の運営と運用を援ける補佐役にすぎず、特別な場合を除いて直接部隊を指揮することは無いが、なにせ貴族様だ。生活はそれなりの水準を保たねばならぬため、宿舎もそれなりのものにせざるを得ない。

 大隊長はというと平民出身者か、貴族であったとしてもせいぜい下級貴族ノビレスでしかないため、本人の私生活のための空間はそれほど広くとる必要は無い。が、大隊コホルスを指揮する責任者であることから宿舎は大隊司令部としての機能を併せ持つ必要があり、そのための施設を付属させるためにどうしても大隊長の私生活用のみの空間より広くせねばならない。その結果、大隊長用の宿舎は軍団幕僚用の宿舎と敷地面積は同じか、要塞によっては逆に大隊長用の宿舎の方が若干広くなっていた。ただし、私生活用の空間だけをとってみれば軍団幕僚用の宿舎の方が圧倒的に広くなる。


 サウマンディアから隷下大隊と共に派遣されたバルビヌスが寄宿するために宛がわれた宿舎は軍団幕僚用のものだった。軍団幕僚用では大隊司令部用の施設が付随していないが、バルビヌスは隷下大隊の司令部用としては別途大隊長用の宿舎も割り当てられていたのでその点は問題ない。マニウス要塞は二個軍団が駐屯できる設備と機能を有しているが、普段はアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアしか駐屯していないためそれだけ施設に余裕があったのである。

 おかげでバルビヌスはスプリウスに語ったように、サウマンディウムにある自宅よりもずっと広くて立派な造りの宿舎での生活を満喫することが出来ていた。サウマンディウムの自宅から呼び寄せた使用人たちを入れても、まだ空き部屋がいくつもあり、女奴隷一人を預かったところで置き場には困らなかったのである。


「お前はここを使うがいい。」


 バルビヌスがそう言ってグルギアに宛がったのは、宿舎の庭園ペリスティリウムを囲む棟の二階……本来なら屋敷の主人の家族たち用の寝室クビクルムの一つだった。奴隷ならば用事でもなければ近づくことさえ許されない空間である。


寝台クビレはそこだ。

 おまるラサルムはあそこ。

 衣服はそこの衣装箪笥アルマリウムを使え。

 汚れ物はそこのカゴカニストルムに入れて入り口のところへ置いておけば、あとは使用人たちファムリティウムの誰かが洗ってくれる。」


「ま、待って! 待ってください!!」


 スプリウスを一階の客間に案内した後、グルギアを伴ったままバルビヌスがおもむろに階段を登り始めてまさかとは思ったが、本当に寝室へ連れて来られてそのような説明を始められたことからグルギアは急にオロオロしはじめ、ついには思い切ってバルビヌスの説明をさえぎってしまった。グルギアに止められたバルビヌスの方は何の問題があったのか分からず、手に持っていた燭台を手近にあった小さな円卓メンサに置きながら尋ねる。


「どうかしたか?」


「わ、私は、女奴隷セルウァです。」


「それがどうかしたか?」


 外はまだ辛うじて明るさを保っているが、室内は既に暗い。唯一の光源である燭台のロウソクによってオレンジ色に照らし出されたバルビヌスのキョトンとした顔が揺れたのは、ロウソクの炎が揺れたからではないだろう。首を傾げたのだ。


奴隷セルウスは、一階の、奴隷用の小部屋アラエ・セルウィトリキウスに住むものではないのですか?」


 レーマの一般的な貴族用の屋敷は家族用の区画とその他の区画に分けられる。その他の区画は接客のための空間であり、同時に奴隷や使用人たちの生活のための空間でもある。本当に裕福な貴族の屋敷となると、それらをさらに別の区画として分けたりもするが、下級貴族が住む程度の屋敷ではそれらは一つにまとめられている。

 奴隷たちは“その他の区画”の一階、中庭アトリウムを囲むように配置された納戸を兼ねた小部屋に住まわされるのが普通だ。そして用事でもない限りは家族用区画に入ることは許されない。主人やその家族にとって、用もない人間が自分たちのプライベートな空間を好き勝手にうろついているのはかなり目障りだからだ。

 だというのにグルギアは一般に奴隷が入ることの許されない区画に、それも家族用の寝室に案内されている。何かの間違いだとしか思えなかった。が、バルビヌスは諧謔かいぎゃくを含んだ笑みを浮かべながらフンッと鼻を鳴らす。グルギアはその瞬間、ビクッと身体を小さく震わせ、無意識に半歩後ずさりしそうになった。

 グルギアはレーマ人にしては長身であり、実はバルビヌスよりも背が高い。おそらく、これまでの主人たちもそうだったのだろう。女奴隷に見下ろされるのが気に入らないというのも、これまでの主人たちのグルギアへのの強さに少なからず影響していたのだ。本人も何となくそのことに気づいているのか、いつの間にか背を丸めて猫背になり、相手を上目遣いで見上げるようにする癖がついてきていた。


「お前は確かに女奴隷セルウァだ。

 だが、ワシのじゃない。

 伯爵閣下ドミヌス・コメスの持ち物だ。」


 そこでバルビヌスは言葉を切ったが、グルギアは意味が分からないのかそれとも話の続きを待っているのか、ただジッとバルビヌスの目を上目遣いで見返したまま動かない。


「お前がワシの女奴隷セルウァなら、確かに小部屋アラエに案内しただろう。

 だが、お前は伯爵閣下ドミヌス・コメスの持ち物で、ワシは単に預かっているだけだ。

 つまり、身分は奴隷セルウスと言えどもワシにとっては客分なのだ。

 わかるか?」


 グルギアは話は理解したが納得できないというか、受け入れていいかどうか逡巡している様子でバルビヌスから目を逸らし、口をへの字にキュッと結んで唇を震わせる。


「まあ、気にせんでいい。

 どのみちこの寝室クビクルムは使ってなかったし、使う予定もないのだ。

 サウマンディウムから家族を呼ぼうにも子供らはみんな独立してしまったし、女房は船が嫌いで来たがらん。

 だったら、必要な者が使えばいいだろう。」


 バルビヌスもグルギアから視線をそらし、たった一つのロウソクの頼りない炎に照らされた薄暗い部屋を見回しながらそういうと一旦言葉を区切り、再びグルギアに向き直る。


「お前がいつ、新しい主人ドミヌスに召し上げれるか分からん。

 だが、それまでお前は体力を回復させることに専念するがいい。

 今日みたいな醜態しゅうたいは許されん。」


 グルギアもそれは恥ずかしく思っているらしく、気まずそうにバルビヌスの顔を視線だけで一瞬見返してからコクリと頷いた。


「食事は食堂トリクリニウムで摂ってもいいし、ここに運ばせてやってもいい。

 準備が出来たら使用人ファムルスが報せに来るから、どこで摂るかその都度言え。

 風呂バルネウムは用意が出来たら使用人に報せに来させるから遠慮なく入れ。いつお召しがかかっても良いよう、常に身綺麗にしておくのだ。

 ここの中なら好きにしてくれて構わん。

 だが、外へは出るな。

 お前のことは今日会った貴族様ノビリタスたち以外には誰にも知られてはならんのだ。

 外に出る時はワシが必ず同行する。

 良いか?

 他に何か訊きたいことはあるか?」


 何やら今までの奴隷生活では考えられないような好待遇が信じられず、バルビヌスの優しさに内心から沸き起こるムズムズするような温かい気持ちにグルギアは困惑を隠せなかった。頬を、そして目頭を赤くしながら、身にまとっていた灰色のローブの襟元をギュッと寄せ、その温かさを確かめる。そして貰ったままのローブの存在を思い出し、ハッと我に返った。


隊長様ドミヌス・トリブヌス、その、お聞きしたいことがあります。」


「何だ?」


「その、新しい御主人様ドミヌスについて教えていただけませんか?」

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