第1120話 ネロとロムルス

統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ マニウス要塞カストルム・マニ陣営本部プラエトーリウム/アルトリウシア



「おかえりなさいませ、旦那様ドミヌス


『ああ、ただいま。

 しっかし参ったなぁ……』


 リュウイチは陣営本部へ戻ると、居間代わりに使っている食堂トリクリニウムへ入る。留守番をしていた奴隷セルウスのゴルディアヌスとアウィトゥスが食堂に用意されてはいたものの、主が不在だったがゆえに灯されていなかった燭台のロウソクに火を灯していく中、リュウイチは長椅子クビレに身を投げ出すような勢いでドッカと腰を下ろした。


「香茶を御用意しますか、旦那様ドミヌス?」


 ゴルディアヌスとヨウィアヌスがロウソクに火を灯すにつれて明るさを取り戻す室内でリュウイチの疲れた様子を見て取ったネロが尋ねると、リュウイチは『ああ、頼む』と短く頼み、それから口元に手を当てて天井を見上げながら二呼吸ほど考えると、まだ近くに控えていたロムルスに『オトを呼んできてくれ』と頼んだ。食堂からまだ退出していなかったネロはそれを聞くと驚き、入り口のあたりで立ち止まって振り返る。


旦那様ドミヌス、本当にリュキスカ様に確認なさるんですか!?」


 ネロの声に驚いたゴルディアヌスとアウィトゥスはロウソクに火を灯す手を止め、思わずネロの方を振り返る。ロムルスもネロを振り返った。そして三人の奴隷はネロとリュウイチの間を視線を往復させながら見守る。


『うん、そりゃあ一応約束したからね。』


「な、何かあったんですかい?」


 普段、リュウイチ相手には従順で大人しいネロとどこか苛立いらだっているようなリュウイチの間に漂う雰囲気に、何かただならぬものを感じたゴルディアヌスが恐る恐る尋ねた。

 本来なら、奴隷なんかがこのように主人の他人との会話に勝手に割り込んでくることなどあってはならない。だが、彼らはリュウイチが甘やかしているせいか使用人として主人リュウイチに尽くさねばという意識は持っていても、自身を奴隷として定義づけて自重する意識は全く持っていなかった。このため、自分たち奴隷以外の者が居ない場ではリュウイチに対しても気安く口を利いてしまう悪い癖が定着してしまっている。

 リュウイチは奴隷制度というものに馴染みが無かったうえに中学校も高校も特に体育系だったという過去も持っていなかったため、人間の上下関係への意識は結構希薄であり、ゴルディアヌスの言動もほとんど意に介していなかったが、ネロは気にしたのかギロッとゴルディアヌスを無言のまま睨みつける。しかしロムルスはそれには気づかず、ゴルディアヌスの質問に答えた。


サウマンディアの伯爵様コメス・サウマンディイリュキスカの奥様ドミナ・リュキスカ女奴隷セルウァを献上するって言って来たんだよ。」


「「女奴隷セルウァ!?」」


「それももう連れて来てたんだ。

 プロ聖貴族コンセクラータでラリキアの神官フラメンの娘だってさ。」


「若いのか!?」


「まだ若いけどチョット歳いってるな。

 二十一だって言ってた。」


 この世界ヴァーチャリアでは十六歳で成人で十代の内に結婚するのが普通である。二十一歳で独身は所謂いわゆる「行き遅れ」と言われる年齢だった。


「美人か?」


「どうかな、顔はよく見えなかったけど痩せてたぞ?

 なんかもうガリガリに痩せ細って骨と皮って感じだった。」


 ホブゴブリンは痩せてても中肉中背のヒトよりは確実に太いので、ロムルスから見たら痩せたグルギアは確かに骨と皮だけにしか見えなかったのだろう。


「言っとくけどヒトだぞ?

 あれじゃホントに子供産めるのか? って感じだな。

 首なんかちょっと触っただけで折れて死んじまいそうなくらい細ぇんだ。」


「なんだぁ~」

「なんかガッカリだなぁ」


 ゴルディアヌスとアウィトゥスは何を期待してたんだか、顔は苦笑いを浮かべたまま互いに顔を見合い、あからさまに落胆してみせる。まあ、無理も無い。彼らは年若い独身男で奴隷……いつ解放してもらえるかわからない身だ。彼らも奴隷にしては破格といって良い給料を貰えているから娼館で女を買うことが出来ているが、一生それで我慢できるというわけではないのだ。いつかは嫁を貰いたいという願望は彼らにもあったが、奴隷の身分じゃ主人の許しが無ければ結婚できないし、そもそも奴隷に嫁ごうなんて女なんかいるわけないのだから主人が他の奴隷を世話してやらないかぎり結婚相手なんて見つかりっこない。であるならば、手の届くところに奴隷の女が来ると聞けば無意識に結婚相手を期待してしまうのも致し方ないことだろう。


「んっ、んん~~~っ」


 ロムルスの答えにゴルディアヌスとアウィトゥスが食いつき勝手に盛り上がり始めてからというもの、ネロは顔に手を叩きつけるように当てて俯き、何かを諦めたように呻き声を押し殺していた。

 騎士エクィテスの称号を持つ下級貴族ノビレスの家に生まれたネロからすると、彼らの礼儀作法もわきまえない粗野な言動は目に余るものがあった。まだ現役の軍団兵レギオナリウスであったならば、それも荒くれ者ぞろいの軽装歩兵ウェリテスならば任務さえこなせば多少のことは目をつむることも出来たが、さすがに奴隷として貴人に仕える立場となるとそうはいかなくなる。


 やっぱりコイツら、最低限の礼儀作法は叩きこまないと……


 ゴルディアヌスとアウィトゥスは気を持ち直したのかつい今しがたまで見せていた落胆から一転、頭を抱え問題を再確認するネロの神経を逆撫でするように歓声を上げた。


「でもいいや、オトの奴が楽になるぜ!?」

「ああ、女の世話なんて男にゃ無理だからな。」

「おう、それよ!

 さすが伯爵様ドミヌス・コメスだ、気が利いてら。」

女奴隷セルウァだなんて領主貴族パトリキ様は気前がいいぜ!」


 ロムルスまで加わって三人ですっかりグルギアを受け取る前提で騒ぎだし、ネロはついに怒り出す。


「冗談じゃない、馬鹿を言うな!!」


 さすがにネロが声を荒げ、奴隷たちが再びビクッと驚いてネロの方を見た。


「分からないのか?

 はサウマンディアの女諜報員エーミッサーリアだぞ!?」


「「「女諜報員エーミッサーリア~ッ!?」」」


 三人は一斉に怪訝けげんな表情を浮かべる。特にロムルスは何を頓珍漢とんちんかんなことを言い出すのだとばかりに派手に顔をしかめていた。


「ああそうだ!

 いや、女諜報員エーミッサーリアどころか女工作員スペキュラートリクスかも……」


 エーミッサーリウス【EMISSARIUS】もスペキュラートル【SPECULATOR】もどちらもスパイを意味するラテン語だ。前者が情報収集の他に密使などの役割も担うことがあるのに対し、後者の方は情報収集と共に暗殺や破壊等の積極的な工作を担うという区別がレーマ帝国ではなされている。だが、グルギア本人を直接その目で見ているロムルスはあんな貧血でぶっ倒れるような痩せっぽちの女に工作員のような真似ができるとは思えず、ヘッと思わず冷笑する。


ネロの大将ドミヌス・ネロ、何言ってんだ?

 あんな華奢きゃしゃなヒトの女が女工作員スペキュラートリクス!?

 あの女、どう見ても体力なさ過ぎて大したこたぁできねぇぜ?」


 ロムルスが笑いたいのを堪えるかのようにわずかに震える声で言うと、実際にグルギアを見たことが無いはずのゴルディアヌスとアウィトゥスまでクスクス笑い始める。まあそうだろう、ホブゴブリンからすればヒトの筋力などたかが知れているのだ。ヒトの女の、それも骨と皮とまで形容されるほど痩せた人間が仮に暴れ出したとしても脅威になるとは思えない。多分、刃物を渡しても彼のホブゴブリンの鍛え抜かれた筋肉を貫くほどの力は出せないはずだ。


「体力がなくったって、食べ物や飲み物に毒を入れたりするくらい出来るだろ?!」


「何でサウマンディアの伯爵様コメス旦那様ドミヌスに毒なんか盛るんだよ!?」


旦那様ドミヌスじゃなくて奥方様たちドミナエさ!

 きっと将来、伯爵閣下ドミヌス・コメスだってリュウイチ様に身内の御婦人を仕えさせようとするぞ!?

 その時、先に仕えておられる奥方様ドミナやその御子が邪魔になったら!?

 そう言う時のための女工作員スペキュラートリクスさ!」


 ネロが一気にまくしたてるように言うと、三人の奴隷たちは黙った。が、その顔はまだ半信半疑と言った感じで、どこかネロを見下したような冷笑を浮かべている。


 コイツらに言っても無駄なのか?


 ネロは三人を見回してギリッと奥歯を噛みしめると、リュウイチに向き直って姿勢を正した。


「とにかく、軽々にお受けになってはなりません、旦那様ドミヌス!」

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