第1119話 エルネスティーネとルーベルト
統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐
控室に下がったルキウスとアルトリウスがマルクスの暴走について検討を重ねていた頃、別の控室ではエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人もまた侯爵家筆頭家令ルーベルト・アンブロスらとともにマルクスの行動の背景について話し合っていた。とはいってもルキウスたちの様に互いに椅子に腰を落ち着かせて向かい合ってというわけではない。エルネスティーネはこの後の晩餐会に向けて、お色直しをせねばならなかったからだ。
外は既に陽が傾き、屋内は早くも灯りなしでは文字を読むのも辛くなるほどの暗さになっている。侍女が二人掛かりで掲げ持つ磨き上げられた銀の鏡に映る自分の姿を見ながら、エルネスティーネは身に着ける宝飾品類を昼用の大人し目のものから、夜会用の豪奢なモノへと侍女たちに付け替えさせていた。女の化粧直しの場に男が入るわけにはいかず、ルーベルトたちは相変わらず同じ室内の
「分かりました。
私もアナタのおっしゃる通り
ルキウスが分析したのと同じ理由からルーベルトも、先ほどのマルクスの暴走じみた振る舞いはプブリウスの指示によるものではなく、彼の独走であるという結論に達していた。そしてエルネスティーネも、プブリウスに対して抱いていた個人的な印象、そしてマルクスの背後で控えていたバルビヌスとスプリウスの態度から、プブリウスの意思だとは思ってはいなかったため、ルーベルトの説明にあっさり得心し、同意を示したのだった。
「御理解いただきありがとうございます
衝立越しにルーベルトが御辞儀すると、エルネスティーネは立て続けに質問を繰り出す。
「ですが、
「と、申しますと?」
「
では、彼をそのようにさせた背景を知っておきたいのです。」
エルネスティーネは何事もないかのように話を続けているが、侍女たちはそれどころではない。エルネスティーネの頭にサークレットを被せるため、一度エルネスティーネの頭上に編み上げられた髪を解かねばならなかったからだ。鏡に映るロウソクの火に照らされたエルネスティーネの頭から編み込まれた髪が解かれ、だらりと下へ下げられていく。
「背景ですか?」
「動機と言ってもいいかもしれません。
私の知る限り
「私もそのように記憶しております
「その彼があれほど積極的に動いた……それも私たちにどう思われても構わないかのような必死さがありました。
彼をそうさせた理由がきっと、あるに違いないと思いますの。」
「彼自身の功名心ばかりではないと、そう
エルネスティーネの指摘にウームと唸り、顎に手を当てて考え始めたルーベルトの横から護衛隊長のゲオルグが怪訝そうに尋ねた。ゲオルグ自身は単に交渉事に不慣れなマルクスが功名心に駆られて勇み足を踏んでしまったと考えていたからだ。
「愚かな女の私では殿方の考えはわかりません。
ですが、
「先ほど、
ルーベルトは呆れを隠さず声を挙げた。マルクスの暴走は彼自身の独走であってプブリウスの指示によるものではない……ルーベルトは先ほどそのように説明し、エルネスティーネも自分もそう思うと同意をしめしたばかりだった。なのに、マルクスの行動はプブリウスのためだったなどとは、まるで矛盾している。
エルネスティーネは自分の言いたいことがルーベルトに伝わらなかったことに困り、鏡に映る自分と失望を共有しながら言葉を探した。
「ええ、そうですね。何と言ったらいいのかしら……
そう、
「我らアルビオンニアとの関係が悪化するのも承知で、ですか?」
元々与えられた指示にはない仕事を独断でする……それ自体は問題ない。むしろ人が仕事をする上ではあって当然のことだ。ただ、それはあくまで与えられた裁量権の範囲内で、利益につながるように行わねばならない。
だがマルクスの行動はどうだっただろうか? 確かに彼はサウマンディアの利益を追求しているように見えた。サウマンディアの画家にリュウイチの肖像画を描かせることを認めさせ、サウマンディアから女奴隷を献上する話をも認めさせようとした。成功すればサウマンディアにとって利益になるだろう。が、それがアルビオンニアとの関係を悪化させてまで成し遂げねばならないことだったのかというと疑問を禁じ得ない。少なくともエルネスティーネやルーベルトたちには、プブリウスがアルビオンニアとの関係は二の次で良いという指示をマルクスに与えるような人物には思えなかった。
目先の利益のためにアルビオンニアとの信頼関係を
リュウイチの許に女を送り込む……それは確かにサウマンディアにとっての大きな利益ではあるだろう。だがそのチャンスは今しかないというわけではない。確かにリュキスカの他はもう女は要らないなどとリュウイチは言ったが、そのような宣言が果たしていつまで有効かは未知数だ。それに今回送り込もうとしているのはリュキスカの傍仕えであり、そっちは今のところ何の制限もかかっていない。リュキスカは使用人は要らないなどと言ってはいないし、これから新興貴族としてやっていくうえで使用人も奴隷もいくらでも欲しいくらいだろう。今回のように女奴隷をリュキスカに献上する機会などいくらでもあるはずなのだ。
対して信用だの信頼関係だのと言ったものは一朝一夕には築けない。長い時間をかけて不断の努力を続けることでようやく築きあげることができるものであり、それでいて壊れる時は一瞬で木っ端微塵に砕け散ってしまう。人間同士でもそうだし、それが国と国の外交関係であっても同じだ。
ではリュキスカに女奴隷を献上することとアルビオンニアとの関係維持のどちらに重きを置くべきか? そんなのは比べるべくもないことだ。が、マルクスはそうした原理原則を無視し、アルビオンニア貴族らの悪印象などものともせずにグルギアの売り込みに必死になった。一国を代表する全権大使としてはあってはならない態度であり行動である。
ゆえにこそ、ルーベルトもゲオルグもマルクスの独走は彼自身の功名心によるものだと思っていた。外交素人の彼が外交で手柄を挙げようと躍起になり、素人ゆえに守って当たり前の原理原則を無視し、目先の利益を追求してしまった……ルーベルトやゲオルグの目に映るマルクスの今日の行動はそういったものだったのである。
が、エルネスティーネはそうではないという。
「むしろ、関係を悪化させるつもりがあることを示したかったのかもしれません。」
「何故です!?」
ルーベルトは理解できず、困惑の表情を浮かべた。むろん、その様子はエルネスティーネからは見えない。エルネスティーネは鏡に映る自分の頭に、宝石をちりばめた銀のサークレットが乗せられるのを見ながら答えた。
「警告です。」
「「警告!?」」
思ってもみなかった指摘にルーベルトとゲオルグは衝立の向こうから驚きの声をあげる。
「ええ、私たちアルビオンニアの出方次第では、私たちアルビオンニアとの関係を見直すことになるぞと、そういう
「私にはわかりません
もしもそうならサウマンディア側から何らかの要求があったはずです。
ですがそういったものはありませんでした。
それとも、我々がサウマンディアの利益を損ねているとでも?」
ルーベルトはしばらく無言で考えた後、やはり分からぬと苛立ちを交えて早口でまくし立てるように訴えた。侍女たちがサークレットを乗せたエルネスティーネの頭の上で再び髪の毛を編み込み始める。
「アナタに分からないのであれば、浅慮な私の思い込みかもしれません。
ですが私たちは気付かない間に
「つまり誤解ということですか?
誤解なら解かねばなりませんし、誤解ではなく本当に我々がサウマンディアの利益を損ねようとしているのであれば改めることも検討せねばなりません。
しかし、
本気で分からないらしいルーベルトにエルネスティーネはワザとらしく考えるフリをした後で答えた。
「そうですね……たとえば
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