第1121話 ラーウスとルーベルト

統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 マニウス要塞カストルム・マニには二つの軍団レギオーが駐屯できるように設計されており、要塞中央にある要塞司令部プリンキピアの裏手には軍団長レガトゥス・レギオニス用の宿舎兼軍団司令部トリブニ・レギオニス用の幕舎として陣営本部プラエトーリウムが二つ、東西に並んで配置されている。そのうち東側はアルトリウシア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルトリウシイアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子が公舎として使っており、西側にはリュウイチが収容されていた。必然的にリュウイチに仕える巫女サセルダとしてルクレティア・スパルタカシアとリュウイチの聖女サクラリュキスカも同居している。ただし、リュウイチの存在は世間にはもちろん、軍団内でも機密扱いになっており、貴族ノビリタスたちでさえ限られたごく一部の人間しか知らない。

 この状況で使われていないはずの陣営本部を軍団兵レギオナリウスが厳重に警備しているとあっては却って世間の注目を集めてしまうため、西側の陣営本部は表向きルキウスが復旧復興事業の監督指導のためにマニウス要塞に来る際の別邸として位置づけられ、その後はカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子が復旧復興事業の支援に駆け付けたアルビオンニア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルビオンニイで叔父のアロイス・キュッテルに軍事について師事するため、ルキウスに陣営本部の一部を間借りして住み込んでいることになっていた。実際はリュウイチの魔法によってカールの治療とリハビリを行うためであり、その後はリュウイチからの復興資金融資の人質という位置づけになる予定だ。


 そのマニウス要塞に貴族たちが集結している。

 ルキウスはアルトリウシア領主として復旧復興事業を指導するためであり、特にティトゥス要塞カストルム・ティティから遠いアルトリウシア南部の情勢を確認しやすくするためというのが表向きの理由。エルネスティーネは息子カールと日曜礼拝を共にするためであり、カールがマニウス要塞に来てからは侯爵家一家がマニウス要塞に通うのは恒例となっている。マルクスの場合はサウマンディアからアルトリウシア復旧復興支援のために派遣され、マニウス要塞に駐屯しているサウマンディア軍団第二大隊コホルス・セクンダ・レガトゥス・サウマンディイの視察とカールへの表敬訪問である。他の下級貴族ノビレスたちは彼らの随行員だ。

 偽装とはいえこうした表向きの理由がある以上、世間に不審に思われることのないよう偽装に即した行動を示さねばならない。先週、先々週とエルネスティーネたちは要塞司令部の正面玄関オスティウム・プラエトーリアから入り、裏口ポスティクムから出て直接陣営本部へ移動したわけだが、今回はサウマンディア属州からの公式な使者マルクスがいて、そのことは世間にも知られている。さすがに属州をあげて持て成さねばならない賓客ひんきゃくがいるのに領主貴族パトリキともあろう者が賓客と供に裏口から出て裏道を歩いて移動するというわけにもいかず、今回に限ってエルネスティーネとルキウス、そしてマルクスは正面玄関から乗り物に乗って陣営本部へ移動することになっていた。


 まだマニウス要塞に収容されている避難民たちが要塞司令部前の広場フォルムに集まり、家臣や兵士たちに守られながら馬車に乗りこもうとするエルネスティーネの姿に歓声をあげる。彼らの視界に属州女領主ドミナ・プロウィンキアエという立場ながらティトゥス要塞で自ら炊き出しを手伝うすすと汗にまみれた中年女の姿はない。夕暮れの薄明りの下でもハッキリ目立つほど豪華な衣装を身にまとい、夜空の星々が地上に降りて来たかのように輝く宝飾品で飾った上級貴族パトリキ……平民プレブスたちが貴婦人と聞いて思い浮かべる理想を具現化した姿がそこにはあった。


属州女領主様ダム・デア・プロウィンツ!」

侯爵夫人ドミナ・マルキオニッサ!!」

侯爵夫人デア・フュルスティン!」

奥方様ドミナ属州女領主様ドミナ・プロウィンキアエ!!」

万歳フラーランツクネヒト族の女王万歳フラー・クーニ・デア・ランツクネヒツ!」


 民衆から湧き上がるドイツ語とラテン語の称賛の声にエルネスティーネは軽く手を挙げて答え、馬車へと乗り込んでいく。エルネスティーネを称える歓声は馬車が走り出し、警備厳重な要塞司令部裏の立ち入り禁止区域の方へ消えてもしばらく続いた。

 万雷の歓声の中、マルクス、そしてルキウスとアンティスティアの子爵夫妻もそれぞれの馬車に乗り込み、続いていく。それを要塞司令部の正面玄関に並んで見送る家臣や軍人たちの中で、筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスラーウス・ガローニウス・コルウスはエルネスティーネの圧倒的な人気に素直に感嘆していた。

 帝都レーマで生まれ育った彼が立身出世を夢見てアルトリウシアの地を踏んだのは一昨年の十一月……まだ一年半ほどしか経っていない。その時はまだフライターク山が噴火して半年も経っておらず、放棄が決まった州都アルビオンニウムから大量の難民がアルトリウシアへ流れ込みつつある最中だった。アルビオンニウムから避難民を送り出し続けたエルネスティーネが家族を引き連れてアルトリウシアに入城したのは、それから半年後の去年五月のこと……今からちょうど一年前のことである。つまり、ラーウスはエルネスティーネと面識を持ってからまだ一年経っていないのである。

 初めて会った頃、エルネスティーネは気丈に振る舞ってはいたものの、見た目はどう見ても疲れ切った未亡人そのものだった。人気もさほどあったという印象は無い。だというのに今はどうだ。この一年、徐々に属州領民たちの支持を集めつつはあったが、ハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱以降は目に見えて人気を高めている。


「すごい……」


 口から洩れたその言葉は、素直な感嘆の言葉だった。帝都レーマで今のエルネスティーネほど民衆に支持される貴族はそれほど多くは無い。ラーウスが直接見た中でこれほどの民衆が熱狂するのは執政官コンスルのフースス・タウルス・アヴァロニクスぐらいなものだ。フーススにしろ、他の人気を集める貴族たちも、いずれも男である。貴婦人でエルネスティーネほど民衆が熱狂する者はおそらくレーマ帝国では他に存在しないだろう。


「災難の中でも常に領民を想い、慈悲を垂れる……侯爵夫人ドミナ・マルキオニッサの真の高貴を、領民たちが理解しているからでしょう。」


 感動を新たにしているラーウスの背後から、厳かな調子で男が語り掛けた。驚き振り向くラーウスの目に映ったのはルーベルト・アンブロス……侯爵家の筆頭家令その人だった。


 ……いつの間に……


 玄関口を挟んで反対側に並んでいたはずのルーベルトが近づいていた事にも気づかなかったとは、ラーウスも余程エルネスティーネの人気に意識を捕らわれていたようだ。

 ギョッと驚いた瞬間に素の姿を見られた気恥しさからラーウスは苦笑いを浮かべる。


「お恥ずかしい……侯爵夫人デア・フュルスティンの人気には圧倒されるばかりです。」


 ラーウスが「侯爵夫人」の部分だけをラテン語のマルキオニッサではなく、ドイツ語でフュルスティンと呼んだのに気づいたルーベルトはフフンと楽し気に笑う。


「すべては侯爵夫人ドミナ・マルキオニッサの献身と信仰の賜物たまものです。」


 ルーベルトの言う「信仰」にラーウスはピクリと小さく頬を震わせた。多くのレーマ貴族にとって……特にヒト以外の種族にとってそうであるように、ラーウスにとってもキリスト教は“敵”の宗教であり、ランツクネヒト族のレーマ正教会に対してもどこか胡散うさん臭いものを感じていたのだ。が、ルーベルトはラーウスのそうした反応に気づいていないのか、あるいは気づいていても無視しているのか……ともかく、話を続ける。


「しかし、侯爵家の家臣たる我々は奥様御自身の献身と信仰とに頼り切るわけにはまいりません。むしろ我々はそれを御支え申し上げる立場にあるのです。」


「?」


 何を言っているのだ?……内心では戸惑いつつも表情を保ち続けるラーウスにルーベルトは相談を持ち掛ける。


「失礼、筆頭幕僚殿トリブヌス・ラティクラウィウス

 管轄外のこととは承知しておりますが、一つ軍事の専門家として御意見を伺いたいのです。この後少し、お時間をいただけますか?」

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