第1122話 バルビヌスとスプリウス
統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐
雲に覆われているとはいえ陽はまだ水平線に没してはいないらしく空はまだ明るいが、しかし光の乏しい建物の谷間などは既に人の顔も見分けの付きにくいほど暗く、いち早く夜の世界へ変わりつつあった。いずれ闇に閉ざされる運命に抗うかのように
建物と建物の間の狭い通路はまさに人工の谷間……昼なお暗く、風通しも悪いそこは松明の頼りない明かりの下でも分かるほど全体が湿っており、濡れた石畳を踏む彼らの足音も必然的に水っぽいものになってしまう。靴底に滑り止めのための鋲の打たれた
だが不思議なことに寒いのは足元だけであった。ほんの一時間ほど前に貰った灰色のローブに身を包まれた身体の方は全くと言って良いほど寒さを感じず、フードから露出した顔面……特に鼻先の頬で風の冷たさを感じる程度である。グルギアは大して重いわけでも特別厚いわけでもないローブの温かさに内心で驚きながら、内側から襟元を掴んで少しでも体温を守ろうとギュッと締め、置いて行かれそうになるたびに歩調を早めて前を行く軍人たちについて行く。
グルギアの前を歩くのはバルビヌスとスプリウス。二人の
「しかし、よろしかったのですか
スプリウスが唐突に話し始めた。
「ん? ああ、気にするな。
ワシのサウマンディウムの
どうせワシ一人では使い切らんから、遠慮せずにくつろいでくれ。」
スプリウスが尋ねたのは別の件に関してだったが、バルビヌスはどうやらスプリウスが今夜の宿を提供してもらうことを心苦しく思っているのかと勘違いしたらしい。スプリウスは半ば笑いながら続けた。
「いえ、それはそれでありがたく感謝しますが、私が言ったのはそのことではありません。
安請け合いだったのではありませんか?」
「安請け合い?」
目の前の軍人たちが自分の話をしていることに気づいたグルギアは歩きながらピクリと小さく身体を震わせ、俯いたまま自分よりも背の低い二人の背中を用心深く見上げる。スプリウスは後ろを付いてきているグルギアのことなど忘れたかのように話を続けた。
「リュウイチ様にリュキスカ様、お二人が
スプリウスが言っているのはつい先ほどの控室での会話のことだ。マルクスの機嫌は結局良くはならず、彼らが退出するまでずっと不機嫌なままだった。バルビヌスの裏切りがよほど気に入らなかったようだと、スプリウスは心配していた。おそらくマルクスは女奴隷献上が失敗すれば、その責任をバルビヌスが裏切ったせいだということにして自分の責任を回避するつもりだろう。それを徹底する意味もあって、バルビヌスがリュウイチにした約束通りにグルギアをバルビヌスに預けるのだ。つまり、グルギアを預けるのはマルクスの罠である。奇襲が失敗してアルビオンニア貴族の妨害がし放題になってしまった今、グルギアはババ抜きのババそのものだ。
それだというのに、あんなにあっさり預かると約束して……
スプリウスにはバルビヌスの自信に満ちた態度が不可解で成らなかった。ひょっとしてこれが罠だと気づいていないんじゃないのか?
グルギアはスプリウスの言葉に不安を募らせ、人知れずキュッと唇を噛んだ。が、バルビヌスの方は対照的にスプリウスの心配を笑い飛ばす。
「ハッハッハ、そりゃあ考えすぎだ。」
バルビヌスのあまりにも暢気な反応にスプリウスは顔を
サウマンディア軍団の幕僚の中ではうだつの上がらないマルクスとはいえ一応ウァレリウス氏族の一人であり伯爵家に連なる貴族の一員である。軍の中でも外でも彼らより立場が上のマルクスが策を
だというのに当のバルビヌスはスプリウスのせっかくの忠告を無視しようとしている。スプリウスが心中穏やかでいられるわけも無かった。
「考えすぎなもんですか、
だからアレで
貴族の世界は実力社会ではない。いや、実力社会ではあるが、その実力の在り様が普通とは違うのだ。貴族にとっての実力とは本人が持つ財力や権力ではなく、他の貴族とのつながり……すなわち人脈こそが貴族にとっての実力なのである。
そう言う点でマルクスはプブリウスの縁戚で同じウァレリウス氏族である。しかも、血のつながってない赤の他人だけどかつて何らかの理由でウァレリウス氏族を名乗ることを許されたとか解放奴隷だったとかではなく、実際に血が繋がっているのである。上級貴族と血の繋がりがあり、現に親戚づきあいもしているとなれば、それだけで貴族にとっては相当な実力者たり得る。
一兵卒から文字通りの意味での実力で叩き上げたバルビヌスはそういうコネクションの力というものを軽視する傾向があったが、マルクスが軍人として、あるいは官僚としての実務能力で秀でているわけではなくとも幕僚という地位を軍団内で維持しているのは、そうした確たる根拠があってのことなのだ。
スプリウスはそのことを知っているからこそ、こうしてリスクを冒して警告までしていたのだが……。
「別に
ただ、グルギアはおそらく受け取っていただける……ワシはそう考えておるのだ。」
そういうとバルビヌスは急に立ち止まり、グルギアを振り返った。彼らの前後を守っていた従兵たちはバルビヌスが立ち止まったのに気づき、遅れて立ち止まると彼らを照らすように松明を掲げる。
「グルギアよ。」
突然立ち止まられたせいで追突しそうになったグルギアだったが、バルビヌスに名を呼ばれると目深に被ったフード越しにその顔を見つめ、全身を強張らせた。
「お前の身柄はワシが預かる。
が、それはそれほど長い期間ではないだろう。
もし、お前が
ともかく、受け入れていただければ、お前はここに住むことになるだろう。」
バルビヌスはそう言うと
「ここ……?」
綺麗に整えられた花壇とその中に立つ神々の彫像。赤い空と影になったくらい壁を背景に篝火に照らされてオレンジ色に染まっている。そして
あ……ここは……
グルギアの脳裏によみがえった懐かしい景色……それはかつて子供の頃を過ごしたラリキアの
「
見かねたスプリウスが思わず声を荒げる。さすがに軍機に触れる秘密を今の段階でグルギアに教えるのはいくらなんでも軽卒が過ぎるだろう。スプリウスのその声にグルギアは驚き、一度は弛緩しかけた身体を再び緊張させた。しかしバルビヌスはどこ吹く風といった様子で笑った。
「なぁに、ワシは開いていた扉を閉めてやっただけさ。」
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